紛失
「それでは殿、これから勤めに出てまいります」
食事の支度をするお仲居の左内は、他の役職の女中達より朝が早い。
殿の方を向いて、三つ指ついて挨拶をするも、当の本人は鼾をかいて夢の中だ。
隣に寝ている右京も、平和そうな寝息を立てている。
「しかし、殿はまあ予想の範囲内だったが、こいつがここまでなじむとは意外だった」
左内は腕組みをして、奇天烈発明家の顔を覗き込む。
初日こそ、菓子がないだの、騙されただのぶつくさ文句を言っていたくせに、ものの数日で鼻歌交じりで呉服の間に出かけていくようになった。そして、不思議なことに、居室に帰ってからはあれほど執着していた御菓子のおの字も口に出さない。やぶ蛇を恐れて左内も御菓子の件については本人に聞いていないのだが――。
「誰かが、こいつに餌をやっているんだろうか」
左内は首を傾げる。
ここに来て間もなく、試しに出入りをしている菓子屋の値段を聞いてみたことがある。すると、あろうことか市価の優に2倍以上。御用商人が持ち込む菓子は贅を極めた最高級品、それを言い値で購入することが大奥の常とはいえ、あまりの非日常的な値段に左内は即座に購入をあきらめたのであった。
「こんな高い菓子を喉に流し込むように食われたら、奥方様が爪に火をともすようにして用立ててくださった金子が瞬く間に無くなってしまう」
くわばらくわばら。左内は肩をすくめた。
「それにしても、この大菓子食らいを養ってくれているのはどんなお女中なのだろう」
右京は人付き合いの良い方ではない。他人に心を開くと言うことはめったになく、幼馴染の左内ですら菓子の切れ目が縁の切れ目とも思えるほどの、肌寒い関係である。
加えて、こいつの物言いはつっけんどんで、人の気持ちなどおかまいなし。
こんな奴と仲良くしようなどと言う奇特な人間がそうそう居るとは思えないが――。
そのとき、
「も、もう食えん。充分だ、お富」
右京は口をもぐもぐさせながら、幸せそうな顔でつぶやいた。
「お富か」
太平楽な寝顔を眺めながら、左内は額に皺を寄せて腕組みをする。
「よっぽどの物好きか、変人か。それとも、右京に近づいて何か策略をしているのか――」
ふと顔をあげると障子の外が青白く透けている。
こうしてはいられない。慌てて左内は部屋を飛び出した。
お京とお富の二人が、天女の羽衣のような軽い着物を覚樹院様に納めて褒美を賜ったとの噂はすぐさま呉服の間を駆け巡った。
「お富さん、お京ちゃん。着物の仕立てで相談に乗ってほしいの」
「うるさ方のご注文なんだけど、この帯と着物の相性はどうかしら?」
二人に持ち込まれた難題は、驚くべきことに、あの戦力にならないとつまはじきにされていたお富が次々に解決していく。
実はこのお富、自分は不器用なのだが、人に教えることはこの上なく得意であった。布地や着物に関する知識も豊富であり、着る人のことを考えた懇切丁寧な指導は好評を博した。
「さすが、覚樹院様が口を極めて褒められただけあるわ。お富さん、私今までお富さんの事を誤解していたみたい、ごめんなさいな」
お富の周りには一日、一日、と人が増えてくる。かなりの娘たちが、今までおていの意地の悪い仕切りに嫌な思いをしてきたのだろう、新たな実力者の出現に、雪崩をうつように呉服の間の勢力図は変わりつつあった。
「なによ、どうせお京に全部縫ってもらったに違いないんだから」
お富を取り巻く人数が増え、おのずから隅に追いやられる形になったおていはくやしそうにつぶやく。もちろん、彼女の取り巻きらしき女中たちも口々に相槌を打つ。
「ねえ、皆さん」
何を思いついたのか、おていは蛇の舌ような目をしならせながら、にやりと笑った。
「あの紀州から来た成り上がり者の娘に、一泡吹かせてやりましょうよ」
おていたちはそっと目配せをして、うなずき合った。
その日の夕方。
「ひいいいいいっ、ないいいいいいっ」
まるで牛が絞められているいるような野太い咆哮が呉服の間に響き渡った。
皆、何事かと声のする方向に顔を向ける。
その視線の先には、右京より先に休憩から戻って針箱を開けたままの姿で固まっているお富が居た。
「な、な、ないっ」
我に返ったのか、がばっとひれ伏すと、まるで金の粒を落したかのように畳をなめんばかりの勢いで探し回るお富。
部屋全体が、まるでさざ波が伝わるように、ざわざわと揺れ始めた。
「何をお無くしになったの、お富さん」
不審げな顔で部屋頭が、お富の方にやってくる。
畳と同化したかのように、這いつくばったお富が青い顔で部屋頭を見上げた。
「あったはずなのに、あったはずなのに……な、無いんです」
「まさか?」
お富は、震えながらうなずいた。
「針が一本足りないんです」
部屋のあちこちから悲鳴が上がる。
呉服の間は、御台所様、側室、お年寄りなど、大奥の中枢に位置する人々の着物を仕立てる場所である。万が一にも針が着物に刺さって、御身体を傷つけることなどあってはならない。そのため、呉服の間勤めの最後には針の本数を数え、確認をするのが日課になっていた。
もし、一本でも足りなければ。
その時には全員の着物を脱いで調べ、針が出るまで誰一人として部屋に返れない、という恐ろしい事態になるのである。
最初は物見高く見つめていた人々も、お富が探しても探しても針を見つけられないのを目の当たりにして、自分達にも災難が降りかかることに気が付いたらしい。部屋の中は、徐々に慌ただしく揺れ始めた。
「さ、何をしているの。皆さんも、一緒にお探しなさい」
部屋頭の言葉に、部屋の中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
ここには居ない右京の針箱を確認するもの。
お富の縫った着物を持って来て、手で揉むようにして針が無いか確かめる者。いざとなれば畳を上げるために、周囲の荷物を片づける者。
そんな中、
「どうしてくれるのよ、この大うつけ」
血相を変えて、お富に詰め寄ったのはおていとその一派であった。
「冗談じゃないわ、見つからないんなら、あんたから着物を脱ぎなさいよ」
おていはお富の襟を掴む。
「そんな肉厚の身体じゃあ、針の一、二本刺さってても気が付かないんじゃないの」
「そ、そんな」
いくら女同士でも、裸身をさらすのは恥ずかしいものである。自信のある美しい肢体ならまだしも、お富はまるで布団を巻いたかのような大福体型である。
お富は、懇願するように周囲を見回したが、皆、針が出てこないとこのままここに足止めされると解っているので、止める者は無く黙ってお富を見つめているだけである。
「誰もあんたのその暑苦しい裸なんて見たくはないけど、針が出なくてはあたし達ここから出られないのよ」
口汚くお富を罵るおてい。
「何の騒ぎだ?」
休憩から帰った右京は、騒然とした部屋の様子を見て口をぽかんと開ける。
しかし、その騒ぎの中心にいるのがお富だと気が付いた瞬間、右京の顔色が変わった。
お富は泣きそうな顔をして、帯を解いている。
「一体どうしたんだ」
「お富さん、針を無くしてしまったのよ」
右京の横に居た女中が、こそりと耳打ちした。
「休憩から戻ってきた時に、気が付いたんだって」
「まさか、部屋を出る時、帰る時。いつも、お富は必ず確認していたぞ」
誰かに嵌められたのか。
右京はお富の傍に駆け寄る。
赤い目をして「すみません、すみません」とただただ繰り返しながら、着物を脱いでいるお富。その着物は直ちに人の手に渡り、針が刺さって無いかどうか確かめられている。
――右京、目立つような真似はするなよ。
我々が大奥に女性化までして潜入しているのは、密かに水面下で起こっている事態を探るため。尻尾をつかまれるような事があっては天晴藩の存亡にかかわる。何があってもからくりを人前で使うな。
耳にタコができるほど聞かされている左内の言葉が、右京の頭の中に蘇える。
先日の覚樹院の着物の時には、お富に『実はからくりを作ることを得意とする』ということだけを告げて、その秘密は誰にも漏らさないことを固く約束してもらった。
お富は右京が休憩室から帰って来たことに気が付いているに違いない。だが、お富は右京に災難が降りかかることを恐れてか、彼の方を見ようともしない。
いや、それとも。
彼女は右京の秘密を守るために、知らないふりをしているのだろうか。
助けを求めると、右京が自分の秘密が露わになることも厭わずに、からくりを駆使してお富を救おうとするに違いないと思っているのかもしれない。
右京の頭の中に左内の顔が浮かぶ。
そのとき。
お富の脱いだ小袖を、おていが拾おうとした。
「まてっ」
右京がお富の横に走り寄り、足元の小袖を素早く拾うとお富の肩にかける。
「お京ちゃん――」
お富が涙をためたどんぐり眼を右京に向ける。
声には出さないが、まなざしから心細さがにじみ出ている。
右京の頭の中では、目を吊り上げた左内が何か大声で叫んでいる。
しかし、他でもない飼い主の危機。
左内の姿の前に、勢いよく暗幕が落とされた。
「ちょっとお京、何しているのさ。渡しなさいよ」
肩にはおった小袖を引きはがそうとおていが立ち上がる。
お富をかばうかのように、右京はその前に立ちはだかった。
「義を見てせざるは、菓子無きなり」
「何言ってんの、あんた」眉をひそめるおてい。
「いいの、関係ないの。お京ちゃんは関係ないの」
お富が叫ぶ。
「いいや、針は必ず見つかる。隠した奴は、後悔する前に出してしまえ」
右京は目の前のおていを睨みつけた。
来週(9/26~27更新)はお休みします。