からくり着物
ひと騒動の後、何も知らないお富がゆさゆさと胸を揺らしながら呉服の間に戻ってきた。
なにやら、部屋の中に不穏な空気が漂っていたが、おおらかなお富は意に介さず、いつにもまして隅っこに立てこもっている右京に話しかける。
「聞いて、お京ちゃん。部屋頭から、こんな相談を受けたのよ」
屏風から首だけ出してお富を確認すると、右京が姿を現した。
「御出家されて二の丸におられる覚樹院様、吉宗様の御側室に当たられる方なんだけど、御年70歳。そろそろ着物が辛いとおっしゃられているみたいなの。で、部屋頭から何とか着やすいものを作って差し上げて欲しいというご依頼があったのよ」
覚樹院と聞いて、おていが尖った目でお富を睨みつける。お富と右京が組むまでは呉服の間一番の技術を誇っており、部屋頭の覚えもめでたかった彼女にとって、部屋頭からの特別な依頼が他の者に行くのは悔しくてたまらないのであろう。それも、なんと亡き吉宗様の御側室の着物の仕立てである。鬼の形相になるのも無理からぬ話だ。
「何かあったの? お京ちゃん」
右京は黙ったままふくれっ面で壁の方を向いている。お富の方を向くと嫌でもおていの姿が目に入るからであろう。
「あははあ、甘みが足りてないのね」
お富は身体を揺らして笑うと、右京の手を引っ張って立ち上がらせた。
「お京ちゃん頑張ってるもんね、疲れて当たり前。御菓子が買ってあるのよ、さ、行こう」
その前に。と、お富は針箱の中を整理する。何しろ針が無くなったら全員を巻き込んでの大騒動になるので、お富は部屋を立つときには必ず右京の針箱とともに丁寧に点検をしていた。
「大丈夫?」
そう言うと、お富は太い腕の力に物を言わせて右京をぐい、と立ち上がらせた。
まるで、枯れかけの雑草が引き抜かれたように、右京は勢いよく畳から離れる。そしてそのまま有無を言わさずに隣の部屋に引きずられていった。
隣の休憩室に来た二人。
しかし、右京がおていにたてついた後である。こちらを向いてひそひそと噂し合う女中達と、御菓子と聞いても表情がさえない右京を見比べてさすがのお富も何だか変だと気が付いたらしい。まじまじと右京を見ると乱れがちな髪の毛がいつにも増して乱れている。
「髪が乱れているわ。何かあったの?」
再びの問いに右京がやっとうなずく。まるで、喧嘩をして帰って来た後、親に衣服の乱れを指摘された子供のようだ。周りの空気を読まない右京でも、さすがに自分が喧嘩をするとお富の立場が悪くなるということは気が付いているのであろう。
「さっき、おていの口にカステラを突っ込んだ」
お富の目が丸くなる。
「興奮しすぎたのか、きーっ、とかなんとか叫んで、倒れた」
「ま……」
高慢ちきで意地の悪いおていの悶絶した姿を想像したのか、一瞬吹き出しそうな顔をしたお富。しかし、右京の顔を見てただならぬことと察知したらしい、すぐに真顔に戻ってうつむいている右京の顔を、背をかがめて覗き込む。
「なんで、そんなことしたの」
「お前と組むのを止めて、自分と着物を作れって……」
吐き捨てるような右京の言葉に、口を大きく開けたまま固まるお富。しかし、すぐ大きく息を吸い、そのまま勢いよく吐き出した。まるで間欠泉のような勢いだが、これが彼女の溜息らしい。
「ごめんねえ、嫌な思いをさせたんだねえ、お京ちゃん」
お富はおかめのような垂れ加減の目をさらに下げ、にっこりと笑いかけた。
「あたしに遠慮はいらない、おていさんと着物を作ってもいいんだよ。おていさんは上手だから、あたしといるよりもずっとうまくなれるよ」
右京は首を大きく横に振る。
「うまくなんてならなくてもいい」
ここにはそう長いこと居る予定はないんだから……。続く言葉は、頭の中に青筋を立てた左内の顔が浮かんで、ぐっと喉に飲み込む。
「おまえと着物を作る方がいいんだ」
右京の言葉に、お富の頬がぽっと紅くなった。こうなるとその顔はますますおかめに似てくる。
「いいのかい、おていさんと仲良くしていないと、皆からつまはじきにされるよ」
「なんで、仲良くしないといけないんだ。言われた仕事をちゃんとこなしていれば、人とべたべた仲良くする必要はあるまい」
「でも、お京ちゃんの将来を考えれば、おていさんと……」
「気持ちの悪い人間と無理やり仲良くするよりも、お前と仕事をしたいんだ」
右京はじっ、とお富を見つめる。その瞳は飼い主に忠誠を誓う犬のよう。
しばらくの沈黙の後、またお富は例の嵐のような溜息をついた。
「なんだかあんたに悪いことをしている気がするけど。じゃあ、これからもよろしくね、お京ちゃん」
お京は、しんみりした雰囲気を吹き飛ばすように茶巾包みから御菓子を取り出した。
「きんつばよ」
懐紙の上には、餡に小麦粉を付けて焼きつけた御菓子が置かれていた。
「これは、また美味しそうな」
もぐりと口に含むと、小麦粉の香ばしい香りと、餡の甘みが頭の芯にまで伝わっていく。痺れるような充足感に右京はうっとり目を閉じた。舌に残らずにすっきりと引く甘み、これはかなり高価な材料を使っている。
すっかりお富の御菓子を食べ尽くしてしまった右京。ふと、右京はお富の簪に目を止めた。以前は赤いサンゴの簪だったのだが、今は木の簪に変わっている。
「あれ、簪変えたのか」
「あ、ああ。これ?」
お富は照れ笑いを浮かべた。
「あたしに派手なのは似合わないから変えてみたの」
「ずっとつけているので珊瑚の簪を気に入っているものと思ったが」
「まあ、気分よ。気分」
右京はじっとその簪を見ながら、眉をひそめて首を傾げた。
空気を変えるようにお富は右京の両肩に手を置く。
「さ、お京ちゃん、何かいい案は無いか考えてほしいの。覚樹院様は、今年は御身体の調子がよろしくないようなの。でも、いつまでお参りに行けるかわからないとおっしゃって今度の6月20日の吉宗公の御命日にはなんとしても寛永寺にお参りに行きたいと言われているの。で、その時に着る御着物が欲しいと御用命なのよ」
二の丸にも呉服の係はいるのだが、腕のいい女中が集まる本丸の呉服の間にわざわざ依頼があったらしい。
「だいぶん、暑い頃だな」
旧暦の6月20日は、新暦の8月初めに当たる。年老いた側室が正装でお参りするのは、かなりの苦行であろう。
「ところで正装って、何を着るんだ」
「まず、肌襦袢と裾除け、手ぬぐいで形を整えて、そして長襦袢。小袖を着て帯を締めて、打掛。頭から帽子という布をかぶって……」
「おい、暑いのにそんなに着こんで心の臓に負担をかけると、ばあさん死ぬぞ」
「しーっ」余りの不敬な言いぐさに、慌ててお富が右京の口を手で塞ぐ。
「風通しが良いのはやっぱり絽の喪服かねえ、打掛も薄くして……」
右京は首を振っている。
「無理無理、いいとこ肌襦袢と裾除けに、浴衣くらいだな」
「浴衣? それ、寝間着じゃないか。だめだよ、いくらご高齢でも格式高い将軍様の御側室がそんな恰好で出られるわけないじゃないか」
「御身分が高いってのはめんどくさいもんだな」
ふふん、と鼻先で笑って右京は呟いた。
「ま、ちょっと時間はかかるが、何とかなるだろう。任せとけ」
糖分の行きわたった頭からすぐに解決策が出たようである。
その日、右京は早く呉服の間を後にして、居室に戻ると何やらごそごそと日が沈むまで持ち込んだ荷物をひっくり返していた。
数日後。
人払いをした二の丸の覚樹院の部屋では、呉服の間頭が落ち着かなげに辺りを見回したり、膝の上の手を組みなおしたりしている。
あの二人、自信ありと言っていたけど……。
実は呉服の間頭は、肝心の出来上がった着物を見ていないのである。
「こればかりは、何があっても絶対にお見せできません。その代り最高の物をお納めいたしますので」
あの言葉には、いつも自信なげなお富のものとは思えないほどの有無を言わせぬ迫力があった。まあ、お富が言い切ったのだから間違いはないだろう。あの者は不器用だが責任感が強く虚言を吐いたりする性格ではない。半ば自分に言い聞かすように呉服の間頭は心の中で繰り返す。
それにしても遅い。
半刻前から、お富と右京、そして床から起き上がって来た覚樹院の三人だけが次の間に入り試着をしている。
「覚樹院様のおなり」
お富の声がして、部屋の者達は皆頭を下げる。
すっと障子を引く音がして、音も無く人影が部屋に入ってきた。
「皆の者ご覧。この美しい衣装を」
床から起き上がったばかりとは思えぬ軽い足取りで、覚樹院が部屋に入ってきた。
ぴったりと身に合った見事な漆黒の着物は、輝かんばかりの艶を見せている。襟から見える光沢のある紫の小袖は抑えた色調ながらどこか華やか。帯もしっかりと結ばれ、はた目にはきつそうに見えるのだが、覚樹院の顔には一片の苦痛も浮かんでいない。
「まるで天女の羽衣のように軽い。この者達に褒美を与えよ」
老女は自らを姿見に映すと、皺だらけのような顔に少女のような笑みを浮かべた。
そして、自慢するかのように機嫌よくお付の者の周りを一回りして、次の間に入って行った。
ぱたりと障子が閉まる。
誰もいないことを確認して、控えていた右京が覚樹院の着物の各所に着いている小さな釦を押していく。そのたびに、覚樹院の着物はまるで切り取られたかのように消えて行った。
すべて消えた後に、薄い浴衣姿の覚樹院が現れた。
「なんと不思議な。着る時には一瞬で着物が浮かび上がったが」
「いえ、これは着物ではありません。えっと……」
お富が右京に助けを求めるかのような視線を投げる。
「私どもで作った画像をこの釦で、白い浴衣の上に投影しているだけのからくり着物でございます」
右京がお富に囁いた言葉が、覚樹院にも聞こえたのか、彼女は大きく首をひねった。
「誠に不思議な……お前達は法術師か?」
「まさか、この世に不思議なことなどない……いや、ありませぬ。私はこの世の理をそのままに利用しているだけ、で……ございます」
この日に備えて、敬語も訓練されたのだろう。右京がたどたどしいながらもなんとか受け答えをしている。
「もうよい、私もそろそろお迎えが来る年じゃ。お前達のような不思議な者どもを見ても、もう心がざわつかぬ。それよりもお前達のおかげで、今年も吉宗様の菩提を弔えそうじゃ。感謝をしているぞ」
元側室の言葉に、二人は深々と頭を下げた。
「この御着物は私達でないと、御映しすることができません。ご注意を」
お富の言葉に、覚樹院はうなずく。
「おお、また着付けの際には来てもらおうぞ、そしてまた新しい着物も持って来るが良い」
お洒落という生きがいを思い出した老女は、にっこりと笑って二人を見つめた。
プロジェクションマッピング着物版! 近未来には動画機能も合わせて発売されそうですね。ところでこの覚樹院様、元気を取り戻したのかこの後10年の間ご存命でした。