呉服の間
翌朝。
左内は早朝から細い眉をひきつらせて、しごきの待っている職場に。そして殿は御三の間の業務に嬉々として出かけて行った。
さて、右京である。
彼は長局前の廊下を西に行き、昨日連れてこられた呉服の間に顔を出す。
髪は結い方が悪くぼさぼさ、着物も着崩れて裾を引きずっている。二日目にしてすでに大奥に嫌気がさしているのか、目はどんよりとした三白眼に変わっていた。
呉服の間は30畳を超える広い部屋である。そこでは色とりどりの布地を手に、女性達が一心不乱に裁縫をしていた。
「お京、遅かったわね」
誰一人として、なにやら不気味な右京に近づかない中、飛び出してきて彼を迎えたのは、右京の教育係に指名されたお富という女であった。
「迷わなかったかしら。あら、寝坊したの?」
お富は乱れた右京の髪を頼まれてもいないのになでつける。
このお富、大柄でお世辞にも痩せているとは言えない体型。豊満な胸が身体を動かすたびにゆさゆさと揺れる。顔はそこそこ可愛いのであるが、残念なことに肌が浅黒く色白そろいの大奥の中ではまるで白ごまの中に小豆が混じっているような、悪目立ちをしていた。
彼女は自分の席の横に右京を連れていくと、右京に裁縫箱を出す。
「昨日はこのお部屋の説明をしたわね、今日は実際にあなたの腕を見せていただくわ。そうね……」
お富が人のよさそうな真ん丸の目をきょろきょろさせる。
「長襦袢くらい作ってもらいましょうか」
「なんだ、それは? 食えるのか」
お富の目が満月のように丸くなり、言葉が止まる。
しばらくして、お富は大笑いし始めた。冗談だと思ったらしい。
「変わった方とは聞いていたけど、これほどまでの変わりようだとは思いもよらなかった。面白い、面白いわね、お京さん」
彼女は咳き込むくらい笑いながら、お京の背中をどんどんと叩く。
「いや、私は面白いことなど言っていないが……」
ガクガクと揺れながら右京は目を白黒させている。
「おかしいわよ、あなた」
「おかしだって!」
右京は突然お富の両肩を掴み、真正面からお富を見つめた。
「いま、御菓子って、言ったな」
「え、ええ」お富は、突然の右京の豹変に硬直している。
「御菓子はあるのか、食えるのか?」
「御菓子、好きなのね……」余りの剣幕に気おされながらも、お富は何とか相槌を打つ。
「大奥に来れば、殿から日本中の御菓子食べ放題と聞いていたのに、御菓子など全く出てこない。御菓子、御菓子はどこなんだっ」
「この呉服の間では、飲んだり食べたりはできないの。だって、着物が汚れてはいけないでしょう」
「なんだって、騙されたのか……」
右京がへなへなと畳に崩れ落ちる。
「あらあら、仕方がないわね。こちらにいらっしゃい」
お富はぐいと、太い腕で右京のひょろ長い身体を抱き起すと、呉服の間から続きの部屋に連れ出した。そこでは、女中たちが数人、お茶を飲んで休憩を取っている。
そこで彼女は自分のものと思しき巾着を取ってくると、中から紙包みを取り出した。
「はい、金平糖」
紙包みの中には町で見る金平糖より二回りも大きい、角の立った見事な金平糖が数粒入っていた。きっと長い時間をかけて砂糖を纏わせていった極上品であろう。
「いいのか、貰って」
と、言いつつも、相手の返事を待たずに右京はそれを口に放り込む。
「呉服の間では何かを口にすることはできないけれど、採寸に行った先で御馳走になったり、良いものを作ると御菓子を頂けたりすることが多いの。だから、他の所よりいろいろなお菓子を食べられるかもしれないわ」
「うおおっ」金平糖が頭を刺激したのか、右京は急に立ち上がった。
「作る、作ってやるぞ。海の中でも息ができる着物、空を飛ぶ着物。なんでもござれ……」
右京の声がしりすぼみになる。
「でも、そこまでの、素材は持って来ていなかった」
がっくりとうなだれる右京の傍らで、お富が大うけしている。
「海に潜ったり、空を飛んだりなんてできるわけないじゃない。変ねえ、あなたって。作るのは普通の着物でいいのよ」
お富は、なんだか意気消沈してしまった右京を見るとまた巾着を広げて、別な包みを出した。
「はい、ぼうろよ。元気を出して」
「おお、あの卵と小麦粉と砂糖をまぜてかりっと焼き上げた南蛮菓子だな」
平べったい円盤状の菓子を口に入れ、右京はたちまち喜色満面となる。
「うまい。なかなか南蛮菓子には出会うことが無くてな」
「あら、そうなの。ここでは良くいただくわよ」
「住まいの近所に、露草堂という和菓子屋があるのだが、頑固一徹な親父で、南蛮菓子はつくらないのだ」
「そう、また頂いたら、おすそ分けしましょうね」
「お前、いい奴だなあ」右京がにこりと笑う。
「さあ、また呉服の間に戻りましょうか。御菓子で元気が出た所で、頑張ってお仕事してくださいね」
「おお。こんな窮屈な場所で辟易していたが、御菓子が貰えるのなら話は別だ、仕事でもなんでもしてやろうじゃないか」
すっかりお富と打ち解けた、いや餌付けされてしまった感のある右京である。
呉服の間の奥からお富は、大きな黄色の包みを抱えてきた。それを右京の目の前に置くと包みを解き、中からおもむろに真っ白い布を取り出した。
「これは上物の伊勢木綿。無駄にしないようにお作りくださいね」
「だから、その、長襦袢というものの作り方がわからないのだが」
お富は衣桁にかかっていた薄桃色の襦袢を指さした。
「これは頼まれていた中臈のいくは様の長襦袢です。あれをご参考になさってお作りください」
「作り方の、絵図面はないのか?」
お富は首を振ると、考え込むように目を閉じる。
「探せばあるでしょうけど、ここの方は皆寸法がわかれば裁断図など必要ない方ばかりなので……。ちょっと待ってて、探して来るから」
お富は、再び奥の方に消えて行った。
「ごめんなさい、何処にしまってあるのかなかったわ……ぎゃっ」
しばらくして、帰って来たお富はウシガエルのような声を上げて、へたり込んだ。
きれいに仕立てられたいくは様の長襦袢、糸がすべて抜かれもとの布切れに戻ってしまっていたのである。
「ま、わからんものは、ばらしてしまうに限る」
何食わぬ顔をして、布きれを並べている右京。
「すぐ復元するから、安心しろ。で、針は?」
「あ、ここだけど」
針箱を渡そうとして、お富は右京の目をじっと見て言った。
「針の数は決まっているの。仕事の最後にみな数を点検して、数があえば帰れるのよ。一本でも無かった日には、部屋を出ることも許されない」
お富は真顔である。
「本当に、大変なことになるのよ。あたしはおっちょこちょいだけど、絶対針だけは無くさないように気をつけているの。だからあなたも気をつけて、ねっ」
それから何度もしつこいくらいお富は右京に念を押した。
「ところで、縫うとはどうやってやればいいのだ」
「え? 縫うことにかけては自信がおありだと聞いていましたよ」
「だって縫うと言っても、私が縫うのは布きれではなくて人間様だからな」
「はああ?」
お富の大きな鼻がぐぐっと膨らむ。笑いが爆発寸前だ。
「人間を縫うですって? へんな人ね、赤い糸でくっつけちゃうのかしら……あははは」
彼女は自分の言葉が妙にツボに入ったのか、止めていた爆風をすべて吐き出すような笑いの発作を起こした。それは誘爆を繰り替えす爆弾のように、勢いは収まりそうにない。
「ちょっと、お富。あんたの口を縫ってもらえばっ」
仕事に集中していた娘たちの中から、怒りの声が上がる。
「あ、すみませんっ」お富が慌てて詫びを入れる。「このお京さんが面白いんで……」
「おだまりっ、ろくに仕立てもできないくせに。あんたのせいであたし達の仕事がふえているのを解っているの?」
まなじりを決した娘が一人立ち上がってきて、もっていた指物でお富の肩を叩いた。
「あっ、痛たたたた」
「あんたのような図体の大きい女が居ては、この広い部屋も狭くなるのよ。もう、居るだけで迷惑なんだから」
娘は吐き捨てるように言うと。つんと顔を背けてさっさと自分の席に戻り何事も無かったかのように着物を縫い始めた。
しん、と静まり返った呉服の間。
お富はふっくらした頬を赤く染めて、身を縮ませている。
「気にするな」
ぼそりとした声に、はっとお富が我に返る。
「人を貶めるものは、いつか自分が穴にはまるものだ」
右京は、お富の肩にそっと手を置いた。