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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
大奥暴走編
81/110

傀儡

 開け放たれた障子の向こうには、お供の女中を連れた目鼻立ちのはっきりした若い女中が立っていた。彼女の薄桃色の小袖には、満開の藤の花が揺れるように配されている。銀糸で細かく施された刺繍の輝きが、この女中の格の高さを物語っていた。

「あなた方は、まだこのようなことを続けておられるのですか」

「いくは様」

 お仲居頭が慌てて畳に手をついて、頭がめりこむかと思うくらいの勢いでお辞儀をした。

「私の時もそうでしたね。いくは、という名前が気に食わないということで、相当怖い目に遭いました」

 いくはの澄んだ目が、硬直しているお仲居達に向けられた。

 先ほどまで左内への暴行で沸いていた奥御膳所だが、今はまるで音を失ってしまったかのように静まり返っている。

「今後このようなことをしたら、この私が許しません。私を怒らせれば汁の最後の仕上げはしませんがいいのですか」

「殺生な、お許しくださいっ。そんなことになれば、私は怒り狂った人々に大奥の井戸の中に放り込まれてしまいます」

 お仲居頭が金切声で懇願した。「なにとぞ、なにとぞっ」

 それには返事をせずに、いくはは御膳所の中に足を踏み入れると、壁の隅に押し込まれたままの左内の方に歩み寄った。

 途中で突っ立っている火箸を持つおたことすれ違った時、いくはの目は鋭く吊り上り彼女を睨みつけた。おたこは先ほどまでの傍若無人は何処へやら、泣きそうな顔をして慌てて火箸をもとの長火鉢の横に返しに走る。

 いくはは、左内に向き直って、にっこりと微笑みかけた。

 だが、その途端いくはの笑みが止まり目が大きく開かれた。しかし、それは一瞬だけ、すぐに元の笑顔に戻ると彼女は左内に話しかけた。

「そなた、確かおさな、と申したな」

「は、はい」

 まだ、左内には何が起こったのかはっきりと把握できていない。望外の救世主の出現に、ただただ目を丸くするだけである。

「怖い目に遭わせましたね。新しくお女中になられる方のお名前を聞いていたら、お仲居のなかに『おさな』という名前を見つけて、もしやと思って駆けつけて来て正解でした。彼女達は海産物の名前がつかない仲居に特につらく当たるものですから」

「助かりました、ありがとうございます」

 左内はその場に正座をして、深々とお辞儀をする。頭を下げると同時に左内のびしょ濡れの頭からぽたぽたと滴が垂れた。

いくはは、屈むとたもとから手ぬぐいを出して左内に渡す。

「お拭きなさい」

「いえ、汚れます……」

 いくはは微笑んで遠慮する左内の手に手ぬぐいを押し付けた。

 小花模様の白い手ぬぐいからは、ふわりと甘い香りが立ち上ってきた。

「悪い者達ではないのです。彼女達もさすがに火箸は脅しだけで本当に身体を焼くことはしません。他ならぬ私もつい半年前まではここに勤めていた者。怖い思いもしましたが、働けるようになると皆徐々に仲間に入れてくれました、ねえ皆さん」

 いくはが振り向いた先には、しゅん、とうなだれたお仲居達。

「ど、どうかお願いいたします。御汁に御手をお加えください」

 お仲居達の悲鳴にも似た叫びがそこかしこで上がる。皆は青い顔をして、這いつくばっていくはに頭を下げている。

「わかりました」いくはの一言で、張り詰めた部屋の空気が一瞬にして緩んだ。

「た、助かりましたああ」泣き出すものも出る始末である。

――このいくはと呼ばれたお女中は一体何をなさるのだ。

 左内はお仲居達の豹変を見て首を傾げる。単なる叱責におびえるという様子ではなく、さきほどまで、お仲居達にはまるで極刑を命じられたかのような悲壮感が漂っていたのである。

 いくはは手を洗うと、お付の者から差し出されたたすきをくるくるとかけるが、さすがに元お仲居だけあって堂に入っている。

「準備はできていますか?」

「はっ、これへ」お仲居頭が湯気を上げる鍋の蓋を取る。

 いくはは、ほんの一瞬右手を空中高く差し上げると何かを掴むような仕草をして湯気を立てる鍋に向かって手を振った。そしていくつもの鍋に次々と同じ仕草をしていく。

「あ、ありがとうございます、いくは様」

「これをしていただかないと、御年寄の方々からどのような叱責を受けるかわかりません」

 仲居達は口々に礼を言う。

 ただ、これだけか。左内はきょとんと人々の過剰な反応を見つめる。

「皆さん、おさなに辛く当たらないようにお願いしますよ」

 いくははそう言い残して部屋を出て行った。

 彼女が居る間、お仲居達は彼女の顔色を窺い、言ってみれば傀儡(くぐつ)になったようであった。しかし障子が閉まる音とともに、まるで法術が解けたかのように部屋の中には元の喧騒が戻っている。

 左内はこの異様な光景を呆然と見ていた。

「運がいいな、お前」

 いつの間にかおたこが左内の横に立っている。

 いくはが居なくなった今、また何をされるかわからない。左内は思わず身構える。

 しかし、おたこは先ほどまでの憎悪はどこへやら、のんびりと左内に話しかけた。

「それにしても、お前さん、なかなか豪胆な娘だね」

 おたこのあまりの豹変ぶりに左内はどう反応していいものかわからない。

「普通は火箸なんか突き付けられようものなら、泣いて許しを請うのに、顔色一つ変えずあたしを睨む娘なんか初めてだよ」

 ふん、と鼻を鳴らしておたこがそっぽを向きながらつぶやく。

「気に入ったよ、明日から仕込んでやるから覚悟しておきな」

 いくはに脅されたせいなのか、本当に気に入ってくれているのかよくわからないが、どうやらおたこはもう左内に危害を加えるつもりはないらしい。

「よろしくお願いいたします」

 ここは大人しく仲間に溶け込んで、今から大奥の情報を集めなければならない。左内は深々と頭を下げたあとで、おたこに話しかけた。

「あの、一つお伺いしていいですか」

「ああ、いいよ」

「いくは様とはどんな方なのですか?」

「もとはね、私達と同じお仲居だったんだよ。でもね、彼女も『いくは』って名前のままで海産物の名前じゃなかったんだ。悪いけどあたし達も好きでこの名前で呼ばれてんじゃないんだよ、それなのに彼女だけ特別っていい気持じゃないよね。最初はちょっといびってたんだけど、あの娘はお前と違ってなんでもてきぱきとこなすし上手だし、それにかざすだけで汁を美味くする不思議な手の持ち主なんだよ……」

 おたこはいくはが温めた汁の美味しさに大奥中が虜になった一部始終を伝えた。

「いくは様の事を貴手(きしゅ)様とお呼びする者もいるくらいだ、もともと賢くて美しい方だろう、汁の味に惚れ込んだ月山様の後ろ盾もあって、とんとん拍子に出世なさって今ではご中臈に出世なさっている」

 月山。

 左内の頭に、ここに来る前の殿の言葉が蘇える。

――中年寄(ちゅうどりより)の月山殿が失踪されたり。

「月山殿?」

 左内が聞き返すと、おたこは口が滑ったとばかり太い指で口を押えた。

 そして、あたりをきょろきょろと見回して小声で話し始めた。

「これは、噂なんだけどね、月山殿になにか起こっているらしいんだよ」

「なにか起こっている?」

 しっ、とばかりに左内に目を向いておたこが制する。実はおたこの声の方が大きいのだが、本人は小声のつもりらしい。

「あまりおおっぴらには言えない話なんだけどね」

 人に言えない噂ほどしゃべりたくなるというもの。新参者に話すという事は、もうお仲居連中は皆知っているのだろう。

「ここひと月ばかり、お姿を見ないんだよ。同じ局にお住まいになっているいくは様なら他にも何か知っておられると思うけど、下手な詮索で機嫌を損ねたら大変なことになるからねえ」

 左内の怪訝な顔に気が付いたのか、おたこは厚い唇をゆがめてニヤリと笑うと、長火鉢の鍋から小皿に入れた汁を持って来て左内に渡した。

「なんでいくは様がこれほど大切にされるか、これを飲んでみたらわかる」

 小皿に注がれたわずかな汁。

 促されて口にした左内は、言葉を失った。

 頭に直接響く様な、甘美な美味さ。味がどうのこうの言う前に、こう舌の奥から染み入るような快感が身体を貫く。

 美味しい、しかし。

 質実剛健、加えて藩の財政難による粗食に慣れている左内の舌が感じたのはそれだけでは無かった。

 何か、こう、危険な……。

 欲望をそのまま揺さぶる禍々しさ、とでも言おうか。このまま飲み続ければ逃れられなくなるような気がして、左内は汁を飲み干さずに小皿を口から離す。

 そんな左内をおたこはびっくりしたように眺めていた。




 日も暮れて、例の黴臭い部屋で三人が床に就く。

「左内、元気が無いな。帰ってからずっと浮かない顔であったし、何があったのじゃ」

 暗闇の中、殿が左内に尋ねる。

 右京は布団に入るなり鼾をかいて寝ている。

「は……」

 左内は、今日の出来事を手短に話した。料理を作るというあの職場は自分には向いていないと思うと、正直明日からの職務が気鬱(きうつ)である。

「殿は本日嫌な思いなどなさいませんでしたか?」

「おお、嫌と言えば嫌、嫌でないといえば嫌ではないなあ」

 殿は暗闇の中で豪快に笑う。

「私はひどい目にあいました。殿に何かあってはと心配です」

「体罰はわしも同じじゃ。あのおきみという女、わしの掃除の仕方が悪いと罵るのじゃ」

 三人を案内したおきみ、生真面目で融通が利かない、いかにも殿の天敵になりそうな女中である。

「あいつ、床の間に立ち上がったくらいで、(ほうき)でわしの尻を容赦なく叩きのめすのじゃ」

「そ、それは……おいたわしい」

 殿は箒で尻を叩かれたことなど未だかってないに違いない。

「殿の素性を知らないとはいえ、あまりにも酷い所業です」

「いや、それがだな」殿の声が妙に弾んでいる。

「最初は腹も立ったが、思いっきり叩きのめされているうちに何やら気持ちが良くなってな」

「は?」

「叩かれれば叩かれるほど妙な快感がわしを襲うのじゃ」

「……」

 妙な雲行きに、左内は無言である。

「これは房事に使えると思うと、おきみに叩きのめされるのが楽しみになっての」

 殿は闇の中でくっくっ、と嬉しそうに笑う。

「こんなところで新たな快感に出会えるとは思わなんだぞ。人生日々勉強じゃなあ」

「殿、なんて前向きな……」

 殿の妙な環境適応の良さに、左内は呆れるを通り越して尊敬の念すら覚えるのであった。

いつもお読みいただきありがとうございます。9月19日、26日お休みします。8/23誤字修正しました。(たまに誤字や文章の修正をします、平日の更新はほぼ誤字修正です)

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