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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
大奥暴走編
80/110

暗部

 三人は、誓詞の説明をした女中に導かれるままに出仕(しゅっし)廊下と呼ばれている長い廊下を北へ北へと歩いている。おきみと名乗ったその女は、すました鶴のような顔とは裏腹に、案外饒舌でぺらぺらとしゃべりながら彼らを案内して行った。

「ここからは長局(ながつぼね)と呼ばれる居室じゃ。南の方から順に一の側、二の側と続き、北に行くにつれて身分の低いものの居場所になる」

 確かに庭に面して同じような部屋がずらりと並んでいる。

「まあ、言ってみれば長屋だな」

 左内を振り返った殿が、こそりと呟いた。

 しかしさすが大奥、連なる部屋もただの長屋ではない。一つの局の間口は五間(約9メートル)もあり、欄間(らんま)の細かい意匠も各部屋ごとに変わっている。美しく着飾った女中たちが出入りするたびに垣間見える部屋の調度も豪華で色使いも華やかであった。何処からか響いてくる黄色い笑い声が、いかにも女人(にょにん)の園といった雰囲気を醸し出している。

「ここは上級女中の皆様がお住まいになられる場所じゃ。中は二階建てになっておる。もちろんだがお前達の居室はここではない。もっと北の方じゃ」

 そう言うと三人をせかして、おきみは足を速める。

 彼女が言ったように、しばらく行くと徐々に部屋が小さくなりいかにも使用人の居室と言った様相を呈してきた。それでも、隅々まできっちりと手抜きの無い仕事で建てられている部屋は、庶民の住まいとはかけ離れている。

「ここは天守閣のあたりだな」

 あたりを見回しながら殿がつぶやいた。

 その言葉を耳ざとく聞き咎めたおきみは足を止めて振り返った。

「およしとやら良く知っておるな、そのとおりじゃ。このずっと左手にはおよそ百年前の明暦の大火で焼けた天守閣の跡が残っている」

 初めて大奥に来た女性は、七つ口からばたばたと各部屋に連れまわされ、自分のいるところがわからず、迷子になってしまうことが多い。およしのように正確に位置の把握ができる者は珍しかった。

「なんでも、天守の土台だけは御影石を使って火事の後早々に修復されたが、結局その上は作られじまいだったとか」

「その方、詳しいな」

 おきみの細い目が大きく見開かれた。不遜な態度の町人の娘女しか思っていなかったが、妙に大奥に通じていることに驚いたらしい。

「ええ、ちょっと人づてに……」

 殿が聞いたのは他ならぬこの城の主、家治公からだと思われるが、そんなこととは思いもよらぬおきみは、町娘のはずのおよしの意外な知識に首を傾げている。

「明暦の大火では西の丸以外のお城は全焼した。将軍家綱公の補佐ををされていた保科正之様はすぐさまお城の再建に着手されたが、平時に無用の天守閣の再建は良しとなさらず天守台はそのままにして、その金子を街の復興に回されたと聞いている」

 明暦の大火以後、江戸城は火事の被害を受けていない。もちろん細かな修復はされているだろうが、手入れが行き届いているのであろう、部屋は経年の劣化を感じさせなかった。

「建てつけも狂っておらず、まるでついこの前建てたような姿ですね」

 左内が感嘆の声を上げる

「その、保科なんとかって奴も偉いのかもしれないが、やっぱりこれだけのものを作るのは棟梁がしっかりしていなくちゃな」

 作り手としての共感があるのだろうか、右京が柱を叩きながらつぶやく。

 おきみが大きくうなずいた。

「全くそうじゃ。工事を請け負う大棟梁(だいとうりょう)甲良(こうら)様など4つの家で世襲されているが、いずれも勤勉で優秀な方々と出入りの大工どもが噂している」

 おきみはやがて北の端の薄暗い一画に三人を導くと、入れとばかりに障子を開いた。

「三の横側、ここがお前達の部屋となる」

 開けられた居室は二十畳程度の部屋であった。

「お前達は幼馴染らしいから、通常はここを五人で使うのだが、特別に三人で使うが良いとのお達しだ」

 そう言われれば聞こえは良いが、仕事場からも一番遠く、どことなく黴臭いこの部屋は今まで誰も使わずに空いていた部屋の様だ。これ幸いと放りこまれたというのが真相に近いであろう。

 荷物を置かせると座る間も与えないで、おきみは三人をせきたてるとそれぞれの部署の責任者に合わせるべく、また長い廊下を今度は南に戻って行った。

「美しいであろう」

 整えられた庭を見て、おきみはまるで自分の庭のように自慢をした。

 庭には、男の庭師が数人、樹木の剪定をしている。

「さきほど、大工の話がありましたが、庭師のかたも、大奥に入れるのですね」

 左内が、おきみに尋ねる。

「男衆にしかできぬ仕事もあるからな、それだけではない、御三家の方々や老中などの高官も大奥にお入りになる」

「老中も……」

「ここは女だけの世界。豆まきの際に老中や留守居の方がやって来られると、皆はめをはずして大変なことになる、布団でぐるぐる巻きにされた挙句、胴上げされて落されたり、揉みくちゃにされたり。ひどい目に遭って二度と来なかった老中もおられたくらいだ」

「も、もみくちゃ……」

 楽しそうに笑うおきみだが、左内の目は点になっている。大奥女中に対する左内の幻想は早々に音を立てて崩れているに違いない。

「これはまずい。赤裸々な女たちの姿を見てしまっては、また左内が縁遠くなりそうだ」

 殿は右京に向けて処置なしとばかり首を振った。

「そうそう、田沼殿は若かりし頃とても見目が良く、お女中たちは用向きで田沼殿が来られた時など、鈴なりになって障子の隙間から見ていたようだ。熱烈なものは、田沼様の飲み残しのお茶を飲んだものまでいるという噂がある」

「田沼意次……」左内の顔が急に引き締まる。

「お前たちも出世した暁にはもしかするとお見かけするかもしれないな。田沼様は四十九になられたとはいえ、昔と同じ、いえ権力をお備えになってそれ以上の男の色気を感じるという御方もおられるようで。ふふ、お前たちも気を付けることだ」

 おきみは袖を口に当て、意味ありげに笑う。

「権力に対して貪欲な殿方は、往々にして女性にも……だからな」

「権力には関係ないぞ」

 殿が声を上げる。

 は? いきなりの反論にきょとんと目を丸くするおきみ。

「男が女性に対して後ろ向きでどうする。妓を見てせざるは雄なきなり、と言うではないか」

 左内が慌てて背後から手を回して、興奮する殿の口を塞ぐ。

「す、すみませぬ。およしさんは、時々訳の分からぬことを口走ることが……」

「そ、そのようじゃな。幸い私と同じ御三の間勤め。およしは礼法の仕込みがいがありそうじゃ」

 規格外の「およし」を見ながら、おきみは腕組みをして鼻を膨らませた。




 出仕廊下を右手に折れ、炭置き場を行きすぎるとほどなく奥御膳所に着く。

 夕食の支度であろうか、襷がけの女中たちが出たり入ったり、忙しく立ち働いている。今まですれ違ってきた女中たちと比べ、実務に従事しているからであろうか、着物もどことなくくたびれており、髪も見目よりは崩れないことを主眼にがっちりと結い上げられている。

 おきみから仲居頭に紹介された左内は、殿と右京とは離れて一人奥の御膳所に足を踏み入れた。

「あんたの仕事場はこちらだよ」

 仲居頭が戸を開けた途端、他の部屋とは違うむうっとした熱気が左内の顔にふきつけた。

 そこは畳が敷き詰められた広い部屋で、女中たちが何かを切ったり、盛りつけたり、一心不乱にそれぞれの職務をこなしていた。夕食に間に合わせるために、この時間は戦場なのだろう、誰一人として左内に目を向けるものが居ない。

 部屋の片隅には長い箱火鉢が置かれている。そこにはいくつかの鍋が置かれて、湯気を立てていた。

「皆さん、新入りの方ですよ」

 仲居頭が声をかけても、みな顔を上げようとしない。

「呼び名は、おさな、さんです」

 その途端、いっせいに女中たちは顔を上げて左内を見た。

 何かその目に険があるような気がして、左内はたじろぐ。

「さ、おたこにおいか。おさなをよろしく頼むよ。充分仕込んでおやり」

 唇が厚くてめくれ上がったように見えるおたこと、色白でのっぺりした顔のおいかは、長火鉢の前に立っていたが、じろりと左内の方を睨むとこちらに来いとばかり顎をしゃくった。

「えっと、あんたの名前はおさかな?」

 おたこが菜箸をもったまま、左内にたずねる。

「いえ、おさな、です」

「ふううん、おさな。ねえ」

 おたこは口をますます尖らせると、左内の目に向けて菜箸を突き出した。思わず飛び下がる左内。

「何してるんだよ。菜箸をおとり。卵焼きくらい作れるだろう」

 おたこは、四角い卵焼き用の鍋を左内に無理やり持たせる。

「た、卵焼き」

 食べたことはあるが、あの何層にもなった卵の焼き方など左内が知るはずはない。

「作り方を知らないので、お教えいただければ」

「とぼけた女だねえ。見りゃわかるだろ、四角い鍋の中に卵を入れるんだよ」

 背後から冷たい視線を感じ、傍らに置いてあった卵液を慌てて鍋の中に入れる左内。

 どぼり。勢い余って卵液が、四角い鍋一杯に注がれる。

「あ、何やってんだいお前、この大ばか者」

 おたこがきんきん声で怒鳴りつける。

「え……」左内が慌てて卵液を元の器に戻そうとすると、強火にかかった卵液はすでにぼろぼろと塊になり、さらに底の方は茶色に焦げ付いている。

「ぼけっとしてないで、火から離しな。食べ物を無駄にするんじゃないよっ」

 ぴしゃりとおいかに手をたたかれ、唇を噛みしめる左内。

「うつけ者。菜種油も引かないで、焦げるに決まってるだろう」

「この卵焼きにいくつ卵を使ってると思ってるんだよ、おまえ」

 止めるかと思いきや、仲居頭も面白そうに左内の方を見ている。先ほどまで手元しか見ていなかった女中たちも何が起こったのやらと左内の周りに集まってきた。

「すみません、私料理は知識がありません。お教えいただければ……」

 おたことおいかに向き直って教えを乞う左内だが、二人の憎悪に満ちた視線に気が付き、口を閉じる。

 教える気なんかさらさらない。単にこの女たちは自分を(おとし)めたいだけなのだ。気が付いた左内は心の中で溜息をつく。女性(にょしょう)とはもっと物柔らかで優しい者だと思っていたが、どうやら自分の周りが特別であったようだ……。いや、それともたくさん集まると気性が変化してしまうのだろうか。

「教える? ここで? そんな暇あるわけないだろう。お前さん、いいとこのお嬢さんかもしれないが、ここでは役立たずのごくつぶしなんだよ」

 おたこの声にみんながけらけらと笑い声を立てる。

「なんて目をして見るんだよ」

 知らず知らずのうちに睨んでしまっていたらしい。左内の方に詰め寄ったおたこが左内の襟首を掴む。

「何をなさるのです。これは右も左もわからない新参者になさる仕打ちではないでしょう」

 相手の手を払いのけると、こらえきれず思わず声を上げる左内。

「口答えすんのかい」

 大柄な女が、いきなり左内の肩を手荒く掴み有無を言わさず部屋の隅に引きずっていくと壁に押し付けた。

「そうだ、ヤキをいれてやんな、おげい」

 クジラと呼ばれたその女は左内の前に立って右手で頬をぴしゃりと叩く。女の力とは思えないくらいの衝撃で、左内の身体は勢いよく壁に叩きつけられた。

「教えてくださいだって、何寝ぼけたこと言ってるんだい。ここは大奥、外の世界とは違ってちょっと可愛いくらいじゃ通用しないんだよ」

 声とともに、左内の顔にばしゃりと水が被せられた。雑巾か何かを洗ったあとであろうか、目の前に滴る水は妙な臭いがしている。

「いいぞ、おぶり」

 たこ、いか、鯨、ぶり。

 そうか、ここでは女たちは皆海産物の名前が着いているんだな。左内は拍動しながら痛む頭でぼんやりと考える。

 大奥に選ばれたという誇りとともに意気揚々と来たはいいものの、上級女中から海産物の名前で呼びつけられるのは、彼女達には気持ちの良い物ではないだろう。その中で左内だけが「おさな」という普通の名前で呼ばれるのは、彼女達にとって鼻持ちならない事に違いない。

 それだけではない。彼女達が左内に行っている苛めは、もしかしたら彼女達自身が日常、上級の女中たちから理不尽な扱いを受けている鬱積の裏返しかもしれない。新参者と言う格好の獲物をいたぶることで、彼女達も自分たちの憂さを晴らしているのだろう。

 大奥の暗部をいきなり見せつけられた左内は絶句する。

「覚えておおき、あたし達に逆らうとこうなるんだよ」

 異様な興奮に包まれた御膳所。部屋の隅に追い詰められた左内の鼻先に、火箸が付きつけられる。

「きれいなお顔に傷がついたら、もう付け上がったりできないからねえ」

「付け上がったりしていない」

「その目だよ、その目」

 おたこが左内を睨む。

「なんだか、あたし達を見下しているような、その余裕のある目が気に食わないんだよ」

 もちろん左内にそんな気持ちはない。彼女の言いがかりでしかないが、変に反論しても怒りに火を注ぐだけであることは自明であった。

「そのすらりと高い御鼻のてっぺんに、赤い火ぶくれができたら面白いねえ。そしたらあしたから鮟鱇(あんこう)って呼んでやるよ」

 火箸を持ったおたこの言葉に周りの女たちが大爆笑する。

 左内が本気を出せば、女たちを簡単にねじ伏せることができるが、ここで武芸の腕が知れてしまっては正体がばれてしまう危険がある。

 傷の一つや二つ、男には何でもない。

 目前に迫った火箸。少なからずあるであろう苦痛を予想して左内は歯を食いしばった。

 その時。

「お前達、何をしているのです」

 凛とした声と共に勢いよく障子が開かれる。

 部屋に現れた女中を見て、お仲居たちは全員びくりと固まった。

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