誓詞
三人は御三の間頭に案内されて、こじんまりとした部屋に入った。
「ここで、お待ちなさい。お年寄りの松島様がいらっしゃる、くれぐれも粗相のないように」
頭と名前はついているがまだ二十歳そこそこであろう若々しい娘は、三人が手をついてお辞儀をしている間にさっさと部屋を出て行ってしまった。
あたりに人の気配がなくなったのを見て、そーっと頭を上げた殿が辺りを見回す。
「あれもなかなかのいい女であったが、ここに来るまですれ違う娘どもがそろいもそろって美女ばかりのせいか、あまり感動がないのう」
殿はまるで女性の残り香を吸いとらんとばかりに鼻を膨らませて息をする。
「しかしこう整った顔の女ばかり多いと、むしろちょっと顔の造作の崩れたぐらいの女が魅力的に見えてくるかもしれんなあ」
それもまた、一興だがなどと殿は上機嫌でうそぶいている。
ああ、狼が羊の群れに放たれてしまった。左内は顔をしかめる。
しかし、ここが羊の群れなどという左内の甘い幻想はすぐに打ち砕かれてしまうのであるが。
「松島殿のおなりぃ」
大奥を取り仕切るお年寄、その中でも松島は家治公の乳母を勤めた女性である。彼女は田沼意次との親交も深く、現在の大奥では一番の権力者として知れ渡っていた。三人は慌てて平伏する。
障子の開く音がして、ざっという重い着物の裾が畳に擦れる音がした。
市井の安いぺらぺらした着物ではこれだけの音は出ない。さだめし、豪華な縫い取りなどが施されているのであろう。
「面を上げい」
おもての老中にも匹敵するという重鎮。どのような形相の老婆か、とおそるおそる顔を上げた三人の前に、薹が立ってはいるが目の鋭いなかなかに顔の整った女性が立っていた。帯にはキラキラと光る宝模様の刺繍がびっしりと散りばめられた袷の着物が引っ掛けられている。先ほどの音の正体はこれだったのかと三人は腰に回されるように着こなされた豪華な着物をまじまじと見つめた。
松島は三人をじろりと一瞥すると、芯のある低い声で呟いた。
「お前達が此度の新参か」
「はいっ」
さすがの迫力、三人は慌てて返事をしながら頭を下げる。
松島局は上座に座ると、三人をじっくりと見据えた。今までの女性とは役者が違う、その視線の鋭さに、百戦錬磨の殿でさえ硬直しているぐらいだ。
「お京、とやら」
「は、はいっ」
こいつ、まともな返事もできるじゃないか。記憶の中で右京のきちんとした返事など聞いた覚えが無かった左内が、横で殊勝に頭を下げる右京を睨む。
「お前は、縫物が得意だと聞いた。呉服の間勤めを命ずる」
ははっ、米つきバッタのようにペコペコする右京。
この女性の威圧感の前には、傍若無人な天才発明家も形無しである。
「次に、おさな」
「はいっ」
左内も射られるような視線を感じながら頭を下げる。
「そなたは、お仲居じゃ」
そして。と、松島が殿に視線を移す。
「およし、お前は……」
殿を見た松島、そして顔を上げた殿。図らずしも、二人の視線がぶつかった。
視線を外す機会を逸したのか、二人は睨みあうような形になった。
「お前……」
しばらくして、先に視線を外したのはなんと松島の方であった。
「お前、およしとやら、妙な女子だな」
殿の無礼を叱らずに、松島はわずかに口角を上げる。
「およしには御三の間勤めを命ずる」
松島が立ち上がると同時に、お付のものが障子を開ける。
部屋を出る直前、松島は三人を振り返った。
「清川からお前達は面白いと聞いている。せいぜい励むが良い」
そう言い残すと鮮やかに袷を翻して、お年寄りは部屋を出て行った。
松島の退場とともにピンと張っていた部屋の空気が一気に緩む。
「さ、お立ち。お前達はこちらだよ」
松島について行かず部屋に残った上級の女中が声をかける。彼女に先ほどとはうって変わった小さな部屋に連れて行かれた三人は、それぞれ目の前に文章を差し出された。
「大奥に勤める前の誓詞です。これを読んだら、血判を押しなさい」
目の前に差し出された文章を見て、殿の顔色がみるみる変わる。
「こ、これは……」
「どうしました? 大奥で見聞きしたことを他所で漏らさぬなど、しごく当たり前の事しか書いておらぬはずですが」
「こ、この、6か条目。好色じみたことをしないというこれは、例えば……」
「そこを尋ねたのは、お前が初めてじゃ」
女中はまじまじと殿を見つめる。
「例えば、相風呂をしない。そして同じ床には入らないという事じゃな。以前は女同士ではしたない行為に及ぶものも居たため、この条項ができたのじゃ」
「そ、そんな……」
大奥で最も楽しみにしていたことを禁止する条項に、肩を上下させてわなわなと唇を震わせる殿。その姿を紙を差し出したお女中が怪訝な表情で見つめる。
その反対に左内の顔がぱっ、と晴れやかになった。大奥潜入で一番の懸念が早々に払しょくされたのだから、彼にとってうれしいことこの上ない瞬間であろう。
「それは誠に大切な決まり。さあ、およしどのも疾く血判を。そうそう、この誓文を破ると熊野権現の罰が当たります、くれぐれも誓文は守らないといけませんね」
うきうきした声で殿を促すと、左内は先ず自分からとばかり裏に熊野牛王符が刷られた和紙に、達筆な署名をした。そして血判を押すために小刀で左手の小指に傷を入れる。
その瞬間、女中の目が大きく見開かれた。
「お待ち、そなた何をしているのです」
「何か、粗相が?」
左内は自分が何か大きな間違いを犯してしまったことに気が付き、右手で持った小刀と赤く染まった小指に視線をやった。
「まあ、おさなったら何を舞い上がっているのかしら。血判の時に左手の小指を斬るのは男のやる事でしょう、はしたない」
殿はこれ見よがしに右手の薬指を切るとざまあみろとばかりに左内に冷たい視線を送った。
「さ、そなたも」
女中に促された右京だが、じっと誓詞を見たまま動こうとはしない。
「どうしたのじゃ」
「菓子は、菓子はどうした。菓子の事が一行も書かれていないぞ」
「何を言っているのじゃ、そなた」
いきなりの意味不明な言動にきょとんとする女中。
「大奥では一日どれだけの菓子を食べて良いかとか、買いに出ても良いかとか」
「お前達の仕事が無い時には、菓子など好きなだけ食べればよい。買いに出るのは無理だが、菓子屋が七つ口に出入りするからそこで購入すればよかろう」
右京の顔がぱっと輝いたと思った次の瞬間、彼は血判を押していた。まあ、この男は大奥の菓子にしか興味が無いから無理も無い。
幸い彼らの妙な行動はこの女中の気には留まらなかったようで、彼女はさっさと誓詞を片づけると彼らに向き直った。
「お前達の呼び名だが、通常は大奥での呼び名は変えるのだがお前達についてはそのままでという嘆願がさる筋から来ておるらしい。しかし、最初のうちはよいが役職が変わればまた名前も変わっていくという事はお前達も承知しておけ」
おそらく殿がどこかで手を回したのであろう。妙なところが誇り高い殿は、人から名前を付けられるなんてまっぴらごめん、という事か。
「それでは、三人とも勤める場所が違う故、今から案内する。しかし、お前達どうも落ち着きがないから、心配じゃ」
今までの良家の子女とはかなり違うのであろう、女中は首を傾げながら先頭に立って歩き始めた。