疾風七つ口
三人は平河門を経て、梅林を見ながら大奥に向かって坂を上っている。
「おお、見事な梅林だな、見ごろはさぞかし壮麗であろう。楽しみだな」
「えっ、その頃まで、滞在されるおつもりですか」
右京が声を上げる。御政道の一大事などどこ吹く風。彼は菓子を食べたいだけ食べたらずらかるつもり満々である。
「うはははは、めったにない機会だからな。何しろ吉元様は今参勤交代で国元に御帰りゆえ、時間だけは腐るほどある」
右京と左内は顔を見合わせた。
殿のうきうきした声に、先ほどまでの悲壮感漂う発言は果たして本心だったのかと左内は首をかしげる。
「ま、ここは選び抜かれた女たちの園だ、左内お前にとっても良い経験になるに違いない」
一体、どんな経験をさせられることやら。昨年の湯屋の大騒動を思い出して左内の額には皺が寄る。
「おお、あそこが七つ口だ。無粋な男どもとはここでお別れじゃ」
左手の表門とは違って、大奥には右手にあるややこじんまりした入り口から入るようにあらかじめ指示されていた。
「そうとは限りませんよ」
左内の目は表門の近くの詰所から出てくる侍を追っている。
小さい歩幅に、浅い踏込み。まるで宙を浮いているかのような重心の高い歩み。もし斬りかかれば、すぐにひらりと体を交わして反撃されるだろう。
これは武士の歩き方ではない、むしろ忍者に近い。
左内の視線に気が付いたのか、黒い羽織、二本差しの若い男がじっと左内の方を見ると、ゆっくりと近づいて来た。
慌てて、顔を背ける左内。
「お女中、見かけぬ顔だが」
「はい、本日からお城にご奉仕させていただくものにございます」
恥らっているふうを装って、俯いたままで返答する左内。
「迷われたか、右手の七つ口から入られよ」
男の視線は左内から離れない。
もしや、ばれたか。
左内はチラリと相手の様子を窺う。
しかし、左内の目に映ったのは頬を赤く染めている男だった。
「ま、おさなちゃん、隅に置けないこと」
殿が後ろでころころと笑っている。これが女性だったら目くじらを立てて起こるくせに、全く現金なものである。
「ご案内いたそう」
男は軽い足取りで三人を連れ七つ口に向かった。
「本日からお勤めの者です。よろしくお引継ぎください」
彼は、七つ口に控える御切手書に三人を引き渡すとさっさと持ち場に戻って行った。
「私情よりお勤め優先。さすが、お城勤めだけあるわね」
「およし様も見習ってください」
小声でつぶやく左内。しかし、言葉が殿の耳に届いていないことは明白である。
「お前達、何をぼやぼやしている。名前を申せ」
大奥の勝手口である七つ口の大奥側の番人、御切手書の女性が凛とした声で詰問した。
「御無礼いたしました。私、本日から御奉公させていただくおよしでございます」
殿は大げさな身振りでお辞儀をする。続いて左内と右京も慌てて挨拶をした。
「切手はどうした、さっさと見せぬか」
三人は城から送られてきた通行許可証代わりの切手を御切手書に渡す。
「検閲する、そこで待っておれ」
女が中を改めている間に、手持無沙汰な三人は七つ口を見渡す。
そこは土間から一段高い板間になっていて、土間には小間物屋から八百屋まで様々な商売の売り子たちが詰めかけていた。男たちを遮るかのように板間と土間の境には横に渡された丸太で柵が作られていて、商人たちは柵越しに商品を渡したり豆板銀を受け取ったりしている。商人と言えども、さすがお城に出入りすることのできるお店の人々。上等な生地で作った着物に身を包み、立ち居振る舞いも洗練されている。
「おおつ、菓子だっ」
右京が目ざとく菓子を持参した商人を見つける。
上役から使わされたのであろうか、小間使いが美しく飾られた和菓子を持参した三方に乗せてもらっている。
その光景を顎が外れそうなくらい、口をあんぐりと開けて見つめる右京。
すでに昼過ぎ、朝食が早かったせいもあって、彼の胃袋は空っぽの状態であろう。
「お前達、礼法がなっておらんな」
これみよがしに商人たちに視線をやると、御切手書の女は肩をすくめて立ち上がった。
「ついてまいれ」
殿と左内が続く。しかし、右京はまるで石像になったかのようにそこから動こうとはしない。
「まあ、美味しそうな黒糖饅頭」
小間使いがうれしそうに三方の上に積み上げられた、つやつやとした茶色の饅頭を見て声を上げる。
「風星堂さんの御饅頭は黒糖がふんだんに使ってあって、仕事の後の身体の疲れが取れまする」
その時、右京の目がギラリと光った。
左内の頭に悪い予感が走る。奴は何か良からぬことを考えている。空腹はすでに右京のなけなしの理性を駆逐しているに違いない。
「早まるな、うきょ……」
次の瞬間、彼らに向かって茶色の饅頭が飛んで来た。
というより、銃から放たれた弾丸のように向かって来たというほうが正しい。
「危ないっ」
左内が右京と殿の肩を掴み、身を伏せる。
饅頭は漆喰の壁にめり込み、まるで爆弾が破裂するかのようにあんこが周りに飛び散る。
饅頭ばかりではない、小間物屋の持って来た簪も宙に浮かんで左内たちが伏せる床に勢いよく突き刺さった。
人々の悲鳴がたいして広くない七つ口に満ちる。
「な、何事じゃっ」
武芸のたしなみのある御切手書も顔を青くして、座り込んでいる。
どたどたと番所から武士たちが走り込んできた。その中には先ほど三人を案内してきた男も混じっている。
「無事か、おぎん殿、何があった」
おぎんと呼ばれた御切手書はガクガクと口を震わせて、わからないとばかりに顔を横に振る。菓子屋と小間物屋は真っ青になって、腰を抜かしている。
饅頭と簪だけではなく、他にも文鎮や置物がそこらに散らばっていた。
「御無事だったか」
件の武士が駆け寄って、左内を助け起こした。
「え、ええ」
左内はその時初めて自分の着物の袖が簪に貫かれているのに気が付いた。
「危ないところでござったな」
「ええ、恐ろしゅうございました」
このような戦闘系の危機に対しては左内の肝は坐っている。殿の不祥事の方がよっぽど心臓に悪いのだが、左内は無理に恐怖の表情を作って微笑んだ。
「簪と饅頭を持参したのは誰だ、大奥を騒がせる魂胆か」
駆け付けた武士達は、商人たちを引っ立てようとする。
「何かの間違いでございますう」さきほどまでの取り澄ました表情は何処へやら、二人とも半泣きになりながらへたり込んでいる。
「ええい、話は番所で聞こう」
侍たちは情け容赦なく、商人たちに縄をかけようとした。
ぱん、ぱん。
手を打ち合わす大きな音が、騒然とした現場に響き渡る。
「つむじ風に決まっているじゃないか、人間様にこんなことができる訳は無い。ま、しいて言えば私達のような美女が大奥に上がってしまうのを惜しんだ、天狗様の仕業だよ」
皆、ぽかんと声の主、殿の方を見る。
「饅頭に爆薬でも入ってたのかって? 見てごらんよこのお京を」
右京は一心不乱に壁にめり込んでいる饅頭をほじくり返して口に詰め込んでいる。
「火薬は不安定なもんだろ、ほら」
殿は右京の首をひっつかんでぶんぶんと振った。
ひええっ、人々が首を抱えてうずくまる。
「この意地汚い娘、爆発しないじゃないか」
最後の一個を頬張って満足そうな右京を指さして殿はにやりと口角を上げた。
「小間物屋も菓子屋もきっと大奥の皆様からご贔屓なんだろう。でまかせの罪でしょっぴいたりしたら、後々困るのはお武家様達ではないのかい」
番所の役人たちは、我に返ったように二人の縄を結ぶ手を止める。
「つ、つむじ風だと」
「散らばっているのはこの2人の品物ばかりじゃないしね。第一、下働きのあたし達を狙っても、一文の得にも無りゃしないよ」
「そ、そうだな。外から何かが投げ込まれたって訳でもないし」
武士たちは口ぐちに殿の案に乗っかり始めた。彼らも面倒な案件は避けたいらしい。
「また、何かあったらすぐ参るからな」
武士たちは持ち場に返り、人々は散らばった物品をかき集め、七つ口は騒ぎの前の状態に戻って行った。
「さ、おぎん様、参りましょうか」
殿はあっけにとられている御切手書をうながす。
「お、おう、そうじゃな、ついてまいれ」
慌てて立ち上がると、体裁を整えておぎんは先頭に立って歩き始める。しかし、さっきまでの虚勢はどこへやら、主導権はすっかり殿に握られていた。
「おい、何をした」
右京の耳を引っ張り左内が小声で詰問する。
「いや、黒糖には鉄分が多く含まれてるから磁石を強力にすればこっちに来るかと……」
「馬鹿者。あやうく我ら三人串団子になるところだったんだぞ」
右京を睨みつけて、左内は裾を翻して殿の後に続いた。
次の週末はお休みします。