検分
早速、いくはを試すため、大奥御膳所では準備が整えられた。
何事かといぶかしむ御広敷の役人を説き伏せ、いつもどおりのすまし汁を作らせる。
やがて汁が運ばれてきて、与えられた白装束に着替えたいくはも姿を現した。
彼女はまるで引き出される罪人のように、下働きをこなす屈強な御末と呼ばれる女中たちに両側から手を掴まれている。
袖は何も隠すことができないように、襷がけをしてたくし上げられ、白い二の腕までが顕わにされていた。
いくはは、御膳所の板の間に据えられた箱型の火鉢の前に引き出される。
幅一間(約1.8m)はあろうかというほどの長い箱型の火鉢には鍋の安定が良いように五徳が据えられ、その中央に縦に置かれた炭はすでに赤く熾っている。御台所の食事の温めはいつもここで行われていた。
女中たちが火鉢の周りをずらりと取り囲む。女中に混じって、中年寄の深山、月山も身を乗り出して座っていた。
そればかりではない、なんと大奥を束ねる御年寄の、松島、高岳までもが顔を見せていた。彼女たちは普段このような場所に足を踏み入れることはなく、これは極めて異例の事態であった。
「それでは、いくは。温めて見よ」
御広敷から持ち込まれた大きな真鍮の鍋が、蓋をされて火にかけられた。
人々が息を飲んで見守る中、鍋は次第にくつくつという音を立て始める。
頃合いを見計らっていくはは、黙って鍋の蓋をあけた。
もわりと立ち上る湯気。
皆、身を乗り出していくはの一挙一動をじっ、と見つめる。
いくはは、つっと右手を虚空に上げ、数度何かをなでるように揺らした。
皆の視線が、いくはの手と同じように揺れる。
そうして、彼女はおもむろに吸い物に右手をかざすと、今度は大きく1~2回、水面を撫でるかのように手を振った。
それはほんの瞬きくらいの時間、人々は顔を見合わせて首を傾げる。
「温まりましてございます」
いくはは両手を膝の上に乗せ、静かに言った。
深山は、お袖のほうをチラリと向く。箱火鉢を囲んで、いくはのすぐ左側に座っていたお袖だが、わからないとばかりに首を振った。
「そこまででよい、下がっておれ」
深山の声とともに、再び御末がいくはの両側にぴたりと貼りついて彼女を鍋から遠ざける。
「これは先ほど御広敷から運ばれてきたそのままの汁を取り分けて、同じように温めておいたものです、まずはこちらからお試しください」
お袖が目配せすると、仲居達は温かい汁を入れた椀をふたりに配った。
代わり映えせぬ薄味が、中年寄たちの口に広がる。
「それでは、今いくはが温めたものをお出しいたします」
お仲居たちによって、五徳から鍋が降ろされる。鍋から御椀につがれたすまし汁が、深山と月山の前に差し出された。
月山の汁を侍女が冷ましている間、深山は待ちきれないとばかりに汁椀を取り上げて口をつける。
皆が深山の方に視線を向け、彼女の言葉を待った。
深山の喉がかすかに動き、彼女はゆっくりと汁椀を膳の上に置く。
「間違いない、この味だ……」
深山の呟きに、周りの女中たちからどよめきが上がる。
椀の中のすまし汁は御広敷で作ったものとは全く別のものに変貌を遂げていた。
傍らで椀に口をつけた月山からも、感嘆の唸り声が上がる。
「おお、これが例の味か。さすが、噂になるだけのことはある」
「いくは、この美味はお前の仕業、ということで間違いないな」
深山の問いかけに、いくはは黙って頭を下げる。
物見高い大奥の女中たちで御膳所は十重二十重に取り巻かれていた。お猪口に注がれた二種類の汁は、周りの人々にも配られており、いくはの汁にはあちこちから賞賛の声が上がる。
「ほんに不思議な手をお持ちじゃ」
月山がしげしげといくはの手を見る。
「恐れ入りましてございます」
いくはは、深々とお辞儀をした。
しかし、場の雰囲気を裂くように、お袖が声を上げる。
「いくは殿、まだお前が何か盛ったという疑いが晴れたわけではないぞ。これから検分させていただく」
そういうと、お袖が御末の一人に目で合図をした。
「失礼いたします、いくは殿」
傍らにいた御末がいきなりいくはの右手を掴むと、その指をべろりと舐めた。
「あ……」
思わず叫び声を上げるいくは。しかし、御末は容赦なく五本の指、そして手のひら、手首まで舐めていく。身じろぎする彼女をもう一人の御末が抑え込んだ。
「どうだ?」
お袖の問いに御末が首を振る。
「全く変わった味はいたしませぬ」
いくはは、衝撃がおさまらないのか舐めまわされた手を呆然として見ている。
仲間のお仲居の一人が彼女に濡れたふきんを渡した。手を拭ってから、いくはに幾分余裕が出て来たのか彼女はふきんをくれたお仲居に微笑んだ。
「まだ終わりではないぞ、いくは」
お袖の凛とした声が御膳所に響く。
「それではここでその着物、脱いでいただこうか」
大きな布を持った御末達がいくはを取り囲む。
「こ、ここで脱ぐのですか……」
狼狽を隠し切れない声でいくはがつぶやく。
「そうじゃ、お前が直前になにか袖に忍ばしたかもしれぬ」
深山がうなずいた。
「風呂の中ではお互い裸身など見慣れておろう。殿方が居るわけでは無し、なにを臆することがある」
仕方なく、いくはは布で囲われた中で一枚一枚着物を脱いでいく。
隠されているといっても、これは検分のための脱衣である、布はせいぜい胸から下を隠す程度。同性の気安さもあって皆の視線は遠慮なく、布の上方から彼女の身体を見つめていた。
肌襦袢を脱ぎ白い背中が露わになったとき、群集から思わずため息が漏れた。
今まで着物で隠されていたが、肌は陶器のような艶めきを持ち、女性ですら見とれるほど美しい。そればかりではない、肢体が描く優美な曲線は天女もかくやというばかりの神々しさである。
「髪もすべて下すのじゃ」
深山の命で、いくははかんざしに巻き付けた髪をほどく。かんざしはすぐさま取り上げられ、彼女の長い髪が細い肩に落ちた。
すべての着物が没収され、一糸まとわぬ姿になったいくはは、衝立がわりにしていた布を借りて羽織ると正座をして深山の方に向き直った。
「特にあやしいものはございませんでした」
深山の耳に、お袖の報告が入る。
「そうですか。いくは、恥ずかしい思いをさせてすみませんでした」
先ほどまでの冷厳な表情はやわらぎ、深山はいくはに向けてにっこりと微笑んだ。
「これからも、お前が御台所様のお吸い物をあたためるように、それにしても不思議なお手をお持ちじゃ」
深々と頭を下げるいくは。
「おほん、わ、私もこれからはお前に温めてもらうことにしましょう」
月山が付け加えた。
「お前のあの美味な汁を飲んだら、他の汁など飲む気がしない」
「そうじゃ、長局で各々が作っている汁も、希望があればお前が温めるということにすればどうじゃ」
深山の言葉にいくはは、こぼれそうな胸を布で包みながら再び頭を下げる。
「ありがたき幸せにございます」
いくはの嫌疑が晴れたからか、もしくはこれから自分達も美味しい汁にありつけるからか、女中たちから大きな歓声が上がった。
「あの者、使えますな」
「従順そうで、その上良い身体をしておる」
「殿方はまず口から、と申しますし」
部屋の隅でこの顛末を見ていた、御年寄の松島と高岳はそっと目配せを交わした。
「えらくご機嫌が麗しいな、御家老様」
忠太郎が首を傾げる。
花壇の手入れをしながら、美行藩江戸家老の片杉左内様が鼻歌を唄っているのである。
「御家老様の鼻歌なんて、初めて聞いたぞ」
忠助が腕組みをする。
「先日来何かと心労が絶えなかったゆえ、もしかしたらこの陽気で頭が……」
「おい、どうしたのだ。忠助、忠太郎」
「わ~~~~っ」
抜いた雑草を片手に満面の笑みを湛えながら、左内が腰を抜かす二人の後ろに立っている。
「少しは武芸の鍛錬をしているのか。背後から近づく足音くらい察知してもよさそうなものなのに、お前達もそろそろ定期的に稽古をつけてやろうか?」
「い、いや、それはありがたくご辞退させていただきます」
尾根角兄弟は後ずさりしながら、顔の前で両手を大きく広げて振った。
「そ、そんなことより、御家老様、何かお体の具合でも……」
「妙なことを言うな、忠助。見てのとおり、壮健この上なしだ。それにしても良い天気だな、真っ青な空が目に沁みるようではないか。いいなあ、春真っ盛りのこの季節は」
左内は大きく手を伸ばして伸びをする。その姿は、まさに若鮎のごとし。
いつもは眉間に皺を寄せて分別臭い顔で差配をする御家老様だが、こうしてみるとまだどこかあどけなさの残る普通の若侍である。
「雷など落ちて来なければ良いのですが……」
「いきなり何を縁起でもないこと言い出すんだ、忠太郎。この良い天気を見てみろ、雷など落ちるわけがない」
「青天の霹靂、というではありませんか」
「あれは単なる故事成語だ。それよりも、今からきっと良い年になるぞ。そうだ、やろうと思って延ばし延ばしになっていた奥の蔵の虫干しなどをしてみるか。案外、忘れていた高額の置物などがでてくるかもしれん」
いつになく饒舌な御家老様に二人は顔を見合わせる。
「御家老様、いったい……」
突然、はた、と手を打ち忠太郎が、いぶかしがる忠助の肩を引き寄せる。
「わかりましたよ、兄上。あれですよ、あれ」
「あれ?」
忠太郎が、指さす方を見ると殿用の籠が点検のために蔵から出されている。
「そうか、今年は参勤交代かっ」
「江戸に、殿がおられなくなれば左内様もきっと枕を高くして寝られるはず」
二人は大きく頷き合った。
しかし。
その日、夜陰に乗じて美行藩邸にやって来た豪華な籠が、左内たちに青天の霹靂をもたらすとは、誰も予想だにしていなかった。