その10
虫を取り囲む人々に左内は懇願する。
「どいてくれ。あの虫をこのままにしておけば、家屋に被害が出続け、そして人を襲うかもしれない。だから成敗しなくてはならないのだ」
虫は自分を取り巻く人々に守られていることを知っているのだろう。
道の中央で、その襞の入った細長い身体をびらびらと波打たせて悠然とたたずんでいる。
「んだと? お侍さま、どうしても吾主様に危害を加えるっていうだか?」
再び刀を構えた左内を血相を変えた男達が取り囲んだ。
「おい、降りるぞ」
凛とした声がして籠の中から、殿が姿を現した。
「姿を現したら危険です」
左内は、慌てて殿を籠の中に押し込めようとした。
が、時すでに遅し、虫の頭部が殿の方を向いて、ぴたりと止まる。
そして猛然と殿に向かってきた。
「どいてくれ」
男達を掻き分けると大刀を引き抜き、頭部を切り落とそうと構える左内。
しかし、彼の手首を押さえ、殿は首を振った。
「男には、取らねばならん責任がある」
「と、殿……」
そんな名台詞、そんなカッコで言われても。
左内が絶句する。
そこには、素肌に羽織一枚と言う姿で仁王立ちになっている殿がいた。
しかも、情けないことに腰までたくし上げた羽織から露出されている下半身は白羽二重の越中ふんどし一枚。
大名が大路でふんどし姿になったことを知られれば、美行藩お取り潰しも……。
左内は思わず天を仰ぐ。
そんな左内を尻目に、殿は甘い声で虫に呼びかける。
「灘奴、聞こえるか」
虫の頭が、惑うようにふらふらと振れる。
「無理です、奴はもう人であった時の記憶を無くしています」
右京が叫ぶ。
「良いのじゃ、例え奴がわしの事を忘れていようとも、わしは決して灘奴との逢瀬を忘れはしない。この気持ちは通じるはずじゃ」
「殿、灘奴にはもう人の性がなくなっているのです。我々の気持ちがわかるはずありません」
左内が殿を籠に押し込めようとするが、無駄に下半身の強い殿は全く動かない。
「いいや、違う。お前達にはわからなくとも、わしは一度肌を合わせた女の心は手に取るようにわかるのだ。灘奴は、ただただ我が身中が恋しくて悶えておる」
そういいながら、殿は後ろに回した腰ひもに引っ掛かっていたふんどしの垂を引き抜いた。
「女子が望むなら、かなえてやらねばこの吉元の男がすたる。たとえ、尻からこの身が引き裂かれようとも、愛に殉じることができれば本望じゃ」
そう叫ぶと、くるりと虫に背を向けて前屈姿勢をとり、臀部を突き出した。
「愛しい灘奴よ、わしはいつでもお前を受け入れる」
おおおっ。何が起こっているのかわからないが、豪華な籠から現れた武士のあられもない姿に人々からどよめきが上がる。
「灘奴、わしと心中すれば気が済むのだろう。気がおさまれば江戸の町に害を及ぼすことなく、どこかに立ち去るがいい」
虫は頷くかのように顔を縦に振った。
ふと、気が付くと虫の進攻が止まったとの噂を聞き付け、物見高い人々が十重二十重にぐるりとまわりを取り囲んでいる。
「何をしている、さあ来い!」
虫は殿の方にじりじりと向かって来る。しかし、その動きは先ほどまでと違ってなんだか元気がない。
ここまで気力だけで這いずってきた虫も、殿の姿を見て精根尽き果てたのだろうか。
しかし、ゆっくりとだが引き寄せられるように殿の臀部にその頭が近づいて来た。
今、この緩慢な動きならば斬れる。
左内が刀を構える。
しかし。
「命令だ、斬るのではない」
前屈姿勢のままで足の間から虫と視線を合わせながら殿が叫ぶ。
「しかし、このままでは史上最低の死に方をした大名として歴史に名が残りまするっ」
「愛のためなら、末代までの恥など屁でもないわ……尻だけにな」
にやりと口元をゆがめると、殿はますます前傾姿勢を強めた。
「わしの最期は腹上死かと思ったが、真逆な最後とは皮肉なものよ。ま、逆もまた真なりと言うがな」
「そこは尻なり、と収めていただきたかったです」
籠の陰に隠れていた右京がぽつりと突っ込む。
「右京、辞世の台詞にケチをつけるな」
「そこは辞世、ではなくて自省にしていただきとうございました」
左内もつぶやく。
「どいつもこいつもこれが最後と思って、遠慮会釈なく突っ込みおるわ」
殿の乾いた笑い声が大路に響く。
灘奴の顔が一間ほどに近づいて来た。吾主教の人々も固唾を飲んで見つめている。
「もういいぞ、お灘」
殿の声に灘奴が勢いをつけるように鎌首をもたげる。
紡錘形の頭の先端が、標的にあわせるかのように心持ちすぼまる。
そして殿の臀部の中央に突進してきた。
「さらばじゃ、皆の者っ」
虫に貫かれ殿が真二つに裂かれる、と思った瞬間。
虫の頭はくるりと旋回して横に立つ左内の方に向き直った。そして。
ペトリ。
いきなり頭の吸盤が左内の顔に接吻するかのように吸い付く。
予想外の事態、声も出せずに刀を持ったまま硬直する左内。
虫は殿を振り返ると、まるでにやり、とでもするように残った吸盤をゆがめる。
そしてぱたりと地上に落ちてぴくぴくと痙攣した。
「吾主様が昇天されるっ」
虫にすがって泣き崩れる吾主教の人々。
「お、お灘っ」
力無くだらりと横たわる頭を抱えあげ、頬ずりする殿。
「最後に、わしに一矢報いて行きおって……」
傍らには全身にじんましんを吹き出しながら、左内がへたり込んでいる。
「さすが、深川のお灘、男心を掴む術を知っておるな。わしの心を嫉妬の炎で焼いていきおって……どう懲らしめてやろうか、許さん、許さんぞ」
詰りながらも、殿が虫を固く抱きしめて接吻する。
虫は身体を数度ぴくぴくと震わせた。
「右京、なんとかお灘を助けられないか?」
殿の問いに右京は首を振る。
「屋敷が壊れて徒手空拳の状態、この大きさの虫を助けることはできません。多分脱水を起こしているようですから。応急処置としてこの不忍池に入れておくしか仕方ないと……」
「あそこは、寛永寺の寺領で殺生禁断の池、ちょうどいいかもしれんな。なんとか後で手を回して許してもらおう」
殿も頷く。
吾主教の人々が灘奴を担ぎ、そっと池に入れる。
「灘奴~~、気が向けばまたわしの布団の中に来い」
殿は大声で叫びながら手を振る。
虫は名残惜しげに二度、三度、ゆらゆらと揺れると、沈むように池の中に消えて行った。
不忍池には大蛇がいるという伝説がある。そしてこの池が埋め立てられた時、美女が池から現れて人力車でどこかに立ち去ったとの言い伝えも残っている。
もしかすると遺伝子の組み換えが行われている灘奴が池の水の中で生き延びて、姿を現したのかもしれない。
藩邸に帰った後、左内は布団の中に潜って出てこようとはしなかった。
手を付けていない朝餉は、屋敷が壊れて帰る場所が無くなった右京がすました顔で食べている。
左内が現実逃避している原因は、もちろん、そう、アレが怖いのである。
「御家老様~~っ」
忠太郎が、けたたましく叫びながら走り込んでくる。
「大変です、瓦版がっ、瓦版がっ」
来たか。
激しい眩暈を感じながら布団から起き上がって、渋々瓦版に目を通す左内。
大名があのような場所でふんどし姿になったことが御公儀の耳に入ったら、藩の存亡にかかわる。
心臓に悪いが、見ないわけにはいかない。
御留守居役の勤めとしてなんとかこの火種を揉み消さねば……。
「な……」
しかし、瓦版を手に取った左内は別な衝撃で絶句した。
そこには大きく虫に口づけされる、自分の姿が描かれていたのである。
傍らには大きな活字で『虫をも蕩かす色男』……と。
「左内様の魅力で虫が昇天したことになっているようです。黒山の人だかりで娘たちがキャーキャー言って飛ぶように売れていました。御家老様さすがですね」
ふんどし一枚の殿の話題は、女性層の購買を狙ったためか全く書かれていない。
俗にいう『絵にならない』というやつだろう。
「また、錦絵が売れるんじゃないか。色男が大蛇に巻き付かれる娘道成寺みたいに歌舞伎になったりしてな。はははははは」
気楽に右京も大笑いしている。
「お、お前っ」
左内が拳を震わせたその時。
床を踏み鳴らして瓦版を持った殿が真っ赤になって飛び込んで来た。
「左内っ、わ、わしの活躍が一行も書いていないじゃないかっ」
一世一代の見どころを無視されたとあって、悔しくてたまらないのであろう。
「お前は家臣の癖にわしよりもてて、怪しからんっ」
「左内様、売り時は今ですよ。また、錦絵を書かせて売りましょうっ」
「そういえば、成功報酬の菓子はどうしたんだっ」
耳元でてんでに叫ぶ人々。
「ああ、もう静かにしてください……」
寄生虫のようにひっそりとどこかの体内で静かに暮らしたい、そう切望する左内であった。
やっと「寸白」編、完結です。下品な最後ですみません~~。歌舞伎編もいつか書いてみたい(番外編かな)。この次は、やっと書きたかった大奥編、煩悩にまみれて書きたいと思います。下調べに今少し時間がかかりますので、開始は5~6月ごろかもしれません。(資料が集まるったらもう少し早くできるかもしれませんが)
今後も誤字脱字をちょこちょこ更新するかもしれません。再開は早くて四月後半ですのでそれまでは、メンテナンスと思ってください。