その8
江戸の朝は早い。
闇の衣を脱ぎ捨て、青い光にその姿を浮き上がらせたばかりの江戸の町に、目覚めを告げる鶏の鳴き声が響く。今日の普請場が遠いのであろうか、木戸番が路地口を開けるとともに肩をすぼめ職人衆が数人、表通りを足早に行き過ぎて行く。
ここは朝もやの中に佇む、こじんまりとした一軒家。
胎動を始めた表通りとは違い、まだ深い眠りについているような一画だが、先ほどから何やらガタガタと不穏な揺れがこの屋敷を襲っている。
それは徐々に大きくなり、周囲を巻き込んで大きく揺れ始めた。
「この化け物屋敷、また何が起こったやら」
「美行藩の藩医が住んでいるという話だが……」
周りの長屋や屋敷から目をこすりながら出てきた人々は、屋敷を遠巻きにしながらひそひそとうわさ話をする。彼らが、おそるおそる中を窺おうとしたその時。
「だめだ、逃げろおおおおっ」
いきなり中から長身の男が叫びながら飛び出してきた。
厚い人垣が崩れ、人々が我先に逃げ出す。
だが、一瞬、揺れがぴたりとおさまった。どうしたのだ、とばかりに振り返った人々の視線が屋敷に集まる。
次の瞬間。
轟音とともに屋敷の屋根を、何かが突き破った。
屋根瓦を四方に吹き飛ばしながら、それはまっすぐに天に向かって柱を突き上げるように伸びていく。
何事かと次々に人が飛び出して来る。そして一様に、砕け散った家とその面妖な物体を見ると、腰を抜かさんばかりに震えあがって逃げ出していった。静寂な朝が一転、あたりは騒然とした空気に包まれる。
「ありゃあなんだっ。一反木綿かっ」
「ふんどしの化けもんかっ」
10間(約18メートル)もの高さに空に突きあがったその柱は、よくよく見れば1尺のほぼ半分くらいの幅(約1.5m)で、白い布をつなげたような段のある奇妙な姿である。
それはいきなり伸びるのを止めると、空中で何度か身体を波打たせてそのままドスンと地面に落っこちてきた。その拍子にまた周囲の家が揺れ、ばらばらと瓦が道に滑り落ちる。
布のような胴体の先端は、毛の生えた紡錘形の頭がついていた。
「河童だあああ」
「河童の付いたふんどしの化けもんだあああ」
人々の悲鳴が悲鳴を呼び江戸の町に響き渡る。どこかで半鐘が鳴りはじめた。
その生き物、拡大した灘奴はうねうねと身体をくねらせると、それは蠕動をしながらズルズルと道を這い始めた。
濡れた体が、差し込む朝日に照らされててらてらと光る。
「この、妖怪めがっ」
手に刺又や大槌を持った火消しの男衆が勇敢に立ちはだかる。
しかし、寸白の胴体が一旋すると、彼らはなす術も無く薙ぎ払われて一間ほども飛んで行った。寸白は何かにとり憑かれたように、前に立ちはだかるものを排除しながら一心不乱に進んでいく。
「ま、まずい。奴が向かっているのは藩邸のある方角だ」
寝不足の目を血走らせた右京が瓦礫の上で呆然と立ちすくんだ。
「なんだ、朝っぱらから騒々しい」
ここは美行藩江戸藩邸。
殿は白い布団の上に仰向けに寝ながら目をこする。
右京の痛み止めのおかげで、一寸ほどの腹の傷は痛まないが、それにしてもなんだか身体が重い。
頭もぼんやりしているせいか、遠くで聞こえていた半鐘の音が徐々に近づいているような気がする。
「殿、大変でございます」
早朝というのに、髪一筋の乱れも無く服装を整えた左内が飛び込んできた。
「もうその大変は聞き飽きたぞ」
独りでごろごろと休みたい殿はうんざりとした面持ちである。
「す、寸白……、いや灘奴が」
「どうしたんだ、お灘が逃げたか?」
「その通りでございます、こちらに向かっているようで……」
「はっ、はっ、はっ。愛い奴だ、よほど儂との逢瀬が忘れられなかったに違いない。悪さをしなければ、また腹の中に入れてやっても良いのだが」
「殿、話はすんでおりません。奴は巨大化しているのです」
「何、巨大化?」
殿の目が丸くなる。
「おい、入って来い」
左内の声に、右京が顔を出す。慌てて走ってきたのだろう、泥と埃にまみれたいつにもましてみすぼらしい姿だ。
「珍しい生き物なので飼おうと、水槽に入れておいたところが、水槽から逃げて拡大装置に当たってしまったようで……」
「しかし、拡大縮小装置は、柱の高いところに制御する突起がついていたはずだろう」
「いや、縮小した時に拡大するためには、背が低くなっても届くように足元に突起を持ってこないと、この前のように縮小してから戻れなくなる。だから昨日お前達が帰ってからまた工事を行って改善させたのだ」
「水槽から逃げた灘奴が知ってか知らずか、拡大装置に触ってしまったというわけか」
左内は腕組みをする。
「勇猛果敢な火消したちもあの巨大な虫にはひとたまりもなかったようで、あの虫がこちらに来るのも時間の問題、殿の体内に戻りたいのかもしれません。急いで避難を」
「や、奴はもしかして」
殿の顔が蒼くなる。
「わ、儂の尻を狙っておるのか……」
「そういうことでしょう」
笑いの欠片も無い渋面で左内がうなずいた。
「しかし、どうやって奴を迎え撃つのだ」
左内が口をへの字にして腕組みをする。
胃の中の戦いで、あの河童頭が回旋して当たった時の衝撃は生半可なものではないと知っている。きっと、火消したちも軒並みなぎ倒されて撤退したのであろう。
「落とし穴も作っている暇はないし、火責めは他の家に延焼する可能性があって危ない」
左内は額に皺を寄せる。
「右京、奴をまた縮小することはできぬのか」
「家が崩れちゃなあ……、装置は瓦礫の下でへしゃげているに違いない。他の発明品もみいいいいんな、おじゃんだ」
半ば自棄、というように両手の平を天に向けて右京は肩をすくめる。
「なんだ、その緊張感のなさはっ」
顔を赤くした左内が怒鳴る。
「もともとは、お前の不始末からこのようなことにっ」
「だから、私としては破格の努力をして、走ってここまでやって来たではないか」
睨みあう2人。不意に訪れた静寂に、半鐘と人々の叫びが飛び込んでくる。
「まあ、いがみ合うのは止せ」
藩主は咳払いした。
「まあ、これが本当の『腹の虫がおさまらない』って奴だな」
静まり返った部屋に、能天気な殿の笑い声が響き渡った。