その6
「今だ、噴けっ」
右京の号令で胃液が管から勢いよく虫にめがけて噴射される。
ひるんだ灘奴は首をくねらせながらぴくぴくと痙攣し始めた。
しかし、灘奴は胃酸に身もだえしながらも執念深く二人の方ににじり寄ってくる。
鞘ごと刀を抜き、左内は灘奴の長い胴体を打ち据えた。
虫は一瞬ひるんだが、すぐさま身体を鞭のようにしならせ、円弧を描いて一閃させる。
虫の頭が左内の胴体を剥ぎ払い、彼は胃液を跳ね上げながら粘膜の上に吹っ飛んだ。
間髪を入れずもう一撃。
柔らかい粘膜の上と言えども、長い胴体から繰り出される打撃はかなりの衝撃がある。
左内はふらつく頭を抱えて、ようやく立ち上がる。と、同時に虫が鉄槌を振り下ろすがごとく攻撃を加えてきた。
左内の動きが鈍くなればなるほど、的が狙いやすいのか頭を狙って灘奴は執拗に打撃を繰り出す。
朦朧とする頭の中で、左内はぼんやりと考えた。
――もし、ここで死んだら、胃の中で溶かされて殿の血となり肉となるわけか。
で、昼夜を問わず繰り広げられるご乱交に付き合わされる……。
絶体に嫌だ。それだけは!
左内の目が、カッと開いた。
眼前に虫が迫ってくる。
彼は、傍らに垂れ下がっていた長い茎を持つ赤くて大きなイボを、引き寄せると、思いっきりそれを河童のような虫の頭に叩き付けた。
灘奴の頭が小刻みに揺れ、動きが止まった。
「左内、イボを斬れっ」
右京の声がする。
すかさず、左内はその赤いイボを切り取って、もう一度虫の頭に投げつけた。
イボは虫の頭を真正面から捉え、胃の壁にめり込ませる。
虫は、その姿勢を保てなくなったのか、力無く鎌首を粘膜の上に落した。
「茎を奴になすりつけろっ」
右京の言葉に、左内は虫に飛びつくと頭を押さえつけイボを斬った後の茎を倒れている虫の頭部に押し当てた。
茎からはどくどくと赤い血が流れている。
血が固まり、頭が朱い毛糸玉のようになった虫は、方向感覚を失ったのか粘膜の上を弱々しく這いまわるのみ。
茎を縛って止血すると、右京は足元の虫を見ながら呟いた。
「奴は、普通のサナダムシとは違う。きっと脳や感覚器が頭部にできるように卵の段階で改造されているに違いない。このような所業を成すとは、平賀源内、神をも恐れぬ気のふれた野郎だ」
お前が言えるか。
左内は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ええい、口惜しやっ。この上は、この上は……」
足元から、のたうちながら灘奴の悔しげなうめき声が聞こえる。
「皆一緒にあの世へと道連れだよ」
「待て、お前殿が好きではなかったのか」
「大好きだよ、大好きだから自分だけのものにしたいのさ。殿は可愛がってくれたよ、でも、殿の心の深い奥底の中心には、やはりあの方が居るんだよ」
「奥方様か……」
なんと、罪作りな主君だ。
一度爆発してみればいいのだが、そういう訳にもいかない。
左内はなんとか虫に思いとどまらせようと、説得を続ける。
しかし、灘奴は頑なだった。
「無駄だよ、あたしが脳波を送ってから、一刻で爆発するようになっている。あんた達も早く逃げた方が良いよ」
虫は血だるまになった頭を振った。
「さっき、頭を殴打されたせいか、なんだがだんだんいろいろなことが分からなくなってきちゃったよ。こうして人としての性を失っていくのかもしれないね。意識があるうちに、脳波を送らないと……あんなに望んだ殿と心中ができなくなる。悪く思わないでくれ、もうあたしには時間が無いんだ」
「やめろ、止せ」
左内は傍らの右京を振り返る。
「殿と交信はできないのか?」
「殿は、薬を飲ませて眠らせている。明日の朝ぐらいまで寝たままだ」
「あんた達もう、あきらめな。殿はあたしと逝くんだよ」
「やめろ、藩主が居なくなれば藩士一同路頭に迷う。お前の身勝手な所業は、たくさんの人に迷惑をかけるのだぞ」
「不思議だねえ、昔はちっとは人の事も考えていたが、恋に落ちてそんな心持はどこかに捨てて来たよ。あたしはね、あたしのしたいように欲望どおりに生きて死ぬんだよ」
「お前、人としての誇りは無いのか」
「お侍さん、あんた達は生まれながらにして威張る権利をもらっているけど、あたし達下々の者は、ずっと人としての自尊心を踏みにじられながら生きなきゃなんないんだよ。人としての矜持とか誇りとかはどこかへいっちまったさ」
開き直った灘奴の言葉に左内は黙り込む。
「ま、一寸の虫にも五分の魂って奴だね」
いや、一寸どころの話じゃないねえ、と乾いた笑いが頭から漏れた。
「またぼんやりとしてきたよ。そろそろお別れだ」
「止せ、灘奴っ」
頭からカチリというかすかな音がした。
「それではあんた達、逃げるんなら一刻しかないよ」
虫はそういうと、ぐったりと頭を垂れた。
「灘奴は死んだのか、右京?」
「生物としては死んではいないが、人としての性を失ったのだろう。ある意味、人としては死んだと考えてもいいかもしれない」
「こうしてはいられない。ば、爆弾を探さなければ」
二人は胃の出口に駆けだした。
サナダムシはぐったりと身体を胃の中に横たえたままで、二人を追おうとはしなかった。
「胃酸がある胃の中は、灘奴が入れないところだから爆弾の隠し場所としては違うだろう。と、すると十二指腸より下だ」
十二指腸から、空腸へ。丈の低い輪状の襞を纏うのっぺりした管腔を二人は調べながら下って行く。
しかし、爆弾など影も形も無く。時間は容赦なく過ぎるばかり。
「待てよ」
右京が立ちどまった。
「大切な爆弾が落ちないように見張っておくように、やはり灘奴の頭部の近くにかくされていたのではないだろうか」
「とすれば、見過ごしたのか」
左内は、元来た方に視線を向ける。
探索に結構な時間がかかった。運び出す時間はあまりないだろう。
「そう言えば……」
右京が首を傾げた。
「殿は最近、黄疸が出ることが多かったな。酒の飲みすぎか、あの虫の性で体調を崩されていたためかと思っていたが」
言葉半ばにして、右京は十二指腸に向けて走り出した。慌てて左内も追う。
「胆のうがくっ付いている胆管という管が、十二指腸に口を開いている。胆管は胆汁の流れる管だが、その管に石が詰まったりすると胆汁の流れが悪くなって黄疸が出ることがある」
右京は十二指腸の襞をひっつかむと登り始めた。
「その他に、粘膜が小さな袋状に外に飛び出している所が原因になることもある。胆管が十二指腸につながっている近くにその袋状の構造ができることがたまにあって、その袋が胆管を圧迫して胆汁の流れを悪くするんだ。ただ、大きさによっては襞と襞の間に隠れて内側から見てもその袋がわからないときがある」
右京は、胆管の出口である乳頭のような突起の周囲の十二指腸の粘膜を掴むと手当たり次第広げ始めた。
「あ、あった」
右京は、襞に隠れていた袋状の突出部、後世では傍十二指腸乳頭憩室と呼ばれる部分、から一抱えもある丸い爆弾を取り出した。
しかし、それは取り出した途端、さらに増大し始めた。
「こ、これはまずい。過度の刺激を与えたら一気にドカンと行きそうだ」
表面を見た、右京が息を飲んだ。