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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
寸白(すばく)
66/110

その5

「右京を下ろせっ」

 左内は思わず刀に手をかける。

「いいのかい? 殿の身体の中に我が子供たちがまき散らされるよ」

「お前の愛しい殿が死ねば、お前も死ぬのだぞ、いいのか?」

「もともと殿とは、心中する覚悟だったんだ。殿の全身を我が分身でむしばんであの世にお連れするのもまた一興かもしれないねえ」

「う、うわっ」

 卵が次々と孵る姿を想像した左内は、全身にかゆみを覚え身を震わせた。

「おや、じんましんかい? あたしも嫌われたもんだね。こう見えても灘奴姐さんは売れっ子だったんだよ、それにしても残念だねえせっかく話し相手ができたと思ったのに」

 サナダムシの灘奴はぶらりと顔を振った。

 その瞬間、左内の足もとに何か細長いギヤマン製の管が転がった。片側には細長い風船に似たようなものがついている。幸い透明な管は黄色い消化液の中に溶け込み、虫には気づかれなかったようだ。

 見上げると右京がそれを拾えとばかりに指をさした。

 左内の頭に右京の高い声が響く。彼も虫に巻かれてテンパっているらしい。

――早くスポイトを拾えっ

――な、何をする器具なのだ

――液体を吸って、出す器具だ。これで、胃液を吸って来て奴に噴射しろ。ここらへんは膵臓から分泌される液ですでに胃液がある程度中和されているから奴は平気だが、そのままの胃液の酸には平気ではおれまい。

 左内はくるりと踵をかえして、十二指腸から胃の中に逆戻りする。

「おのれ、逃がすか」

 ぬるぬるした粘膜に何度も足を取られながら左内は蛇腹のような管の中を進んで行く。

 サナダムシもそれほど速くは動けないらしく、伸びたり縮んだりを繰り返しながらそれでも、確実に左内の後を追ってきた。

 曲がり角を超え、左内は胃に通じる穴に手をかける。

 ふと、後ろを向くとなんと灘奴が追って来るでは無いか。

――胃の中には来ないって言ってたじゃないか

――すべての事象には例外もあるっ

 この期に及んで言い逃れかっ。右京の言葉に歯噛みしながら左内は胃の中を見渡した。

 しかし、左内一人分のドリアンコウの光では胃の中全体が見渡せるものではない。

 左内が見渡した殿の胃の中は健康そうにつやつやしているものの、残念ながら胃液は見られなかった。

――どこにあるんだ、胃液っ。

――もっと上だ。胃の中を足袋に例えると、踵の辺りだ。胃の上に膨らんでため池のようになっている場所があるはずだ。

 左内が向かおうとした時、ぐらりと足元が揺れた。

 急にサナダムシが入ってきた影響か、胃の中が動き出したらしい。

 壁全体が盛り上がり、波のように押し寄せてくる。

 胃はもともと食物を消化する器官である。歯こそないが、一旦動き出したらその圧迫は半端なものではない。

 胃の壁に挟まれ、つぶされて左内は前に勧めない。そればかりか、隙を見て前に進んでも徐々に胃の出口に押し出されていく。虫の方は慣れているのか、じわりじわりと右京を巻いたまま左内に近づいて来た。

 このままでは自分まで奴に巻き取られて、絞殺されてしまう。

 左内の背中に冷や汗が流れる。

 右京は。とみるとすでに左内に任せたとばかり目を瞑って巻き取られたまま腕組みをしている。というか、寝ているとしか思えない。

――このすっとこどっこいっ、何か考えろっ。

――お前がそんな下品な罵り言葉を知っていたとは意外だな。

 右京はめんどくさそうに目を開けた。

――どうにかしてこの胃の動きを止めてくれ。

――って、言われても自然の摂理だしなあ。果報は寝て待てというではないか。

――格言を適応する時と場所を考えろっ。

 右京は再び目を閉じた。

「ほうら、やっぱり果報は寝て待つのが一番いい」

 次の瞬間、彼はにやりと笑った。




「おい、お前、左内様と右京様が胃の中で苦戦しておられるときに何をしているのだ」

 殿の前に正座して、刻々と脳裏に映しだされる戦況を見つめる忠助。

「だって、兄上。なんだか退屈で口が寂しくなってきたんですよ。お菓子好きの右京様のことだから飴玉の一つでも転がってないかと思って」

 忠助はくんくんとあたりの匂いを嗅いだ。

「なんか、ハッカ玉の匂いがするんだよなあ」

 ガサゴソと右京の陳列棚を物色していた忠助だったが、しばらくしてギヤマンの瓶に入った透明な液体を持って来た。

「これ、ハッカ水だと思うんだけどな。兄上、これ舐めてもいいか右京様に聞いてみてくれませんか、そのドリアンコウで」

「おのれはアホかっ、お二人は今胃の中で強敵と戦っておられるのだぞ……」

 忠助の言葉が止まった。

「でかした、ですって? 右京様?」

 ドリアンコウから何か伝わったらしい。忠助が小首をかしげる。

「飲んでいいんですか」忠太郎が瓶のふたを開けようとした時。

「待て」

 兄はその瓶をひったくった。




 鋭利な刃物で切られての絶命もさることながら、このようにすりつぶされながら頓死するのも辛いものだ。襞に翻弄される左内の脳裏にふと不吉な想像が浮かぶ。もはや、襞を掴んでよじ登る元気も無い、天地などお構いなしの揺れに嘔吐を押さえるのに精いっぱいだ。

 その時、通気口を通じて何か爽やかな香りが鼻腔に飛び込んできた。

 だんだんその濃度が濃くなり、爽やかを通り過ぎて冷たい空気が鼻腔を刺す。

 と、その途端。

 あれほど激しかった胃の動きがすうっ、と止まっていくではないか。

「こ、これは……」

 左内が右京の方を見ると鼻高々の科学者が鼻高々で手を振っている。

――ハッカ水を入れた。一時的だが胃の動きを押さえる。

 どうやら、外の二人が胃に入れた管の中からハッカ水を注入したらしい



 後世、上部消化管内視鏡検査でもこの胃の動きは観察の妨げになるということで様々な方策がとられてきた。その中で、近年胃の中にハッカ水を注入することで胃の動きが抑えられることがわかってきた。人体に対する侵襲が少ないため、動きを押さえたい場合に内視鏡を介してハッカ水を注入する方法が実際に使われているのだ。



 今だ。

 襞から解放された左内は胃の中を走る。粘膜の坂を滑り降りると、そこには黄色の液体が貯まった液があった。

 胃液をスポイトに吸って、振り向きざまに背後に迫ってきた虫に噴射する。

 虫は苦しそうにのたうって右京を振りほどいた。

――そうだ! その管で胃液を吸って噴射するんだ。忠太郎合図をしたら口で吸えっ。

 胃の壁にしりもちをつきながら右京が叫ぶ。

 それはそのまま外の忠助に伝わっていた。

 左内は胃液の貯まった湖に管の先端をつける。管は勢いよく胃液を吸い上げた。



「はああ、兄上、ハッカの良い香りが口中に広がります」

 吸っていた管から口を離して忠太郎が目を閉じた。

「目の前に緑の草原が浮かぶようです」

 忠太郎は管を摘まんで差し出す。

「このような至福、私だけで独り占めしては申し訳ない」

「そ、そうか、気を使ってもらって悪いな」

 忠助はそっと管に口を付ける。甘くは無いが、口の中にハッカの涼やかな風が吹き込んできた……。その時。

「ぶおっ、苦い~~~っ!」

 胃液を吸い込んでしまった忠助は慌てて吐き出した。

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