その3
「それでは、さっさと行こう。こちらの穴に運んでくれ」
女性の小指の爪より小さくなった右京は、管の入っていないほうの鼻腔を指さした。
「鼻の穴の中は狭いから、管があると邪魔だからな」
左内と右京は、忠太郎に助けられて殿の鼻腔の穴に四つん這いで入り込む。ドリアンコウが照らし出した鼻腔は、周囲からびっしり生えた黒い毛が揺れる、ねちゃりとした洞窟だった。
おそるおそる先に進む左内。まるで鞭が生えているような鼻毛の林を抜けると同時に、彼の目には妙な光景が飛び込んできた。
それは、不思議な曲線の世界。頭上には行く筋もの太い襞が走り、天井からナマコのようにどんよりと垂れ下がっている。ただでさえ蛇行した鼻腔の道筋を、更に遮るように襞はぐねぐねと走っており、先が見通せない。
つるつるとした粘膜に付いた手が滑り、左内は慌てて襞にしがみ付いた。
「馬鹿、ここらの壁は出血しやすいんだ、おいそれと触るな。血の海になるぞ」
右京がぞんざいに叫ぶ。
いつもどれだけ世話をしていると思っているんだ、と左内は拳を握りしめるが、水先案内人の機嫌を損ねることは避けねばならない。彼は大きく息を吸い込んで、心の波立ちを整えた。
心静かに眺めると、確かに壁には赤い筋がいくつも走っている。これが血の走る管、というわけか。
左内は慌てて壁から離れると、ぬるぬるする足元を確かめながら一歩を踏み出した。坂になっているため、ともすれば滑って暗い闇の中に勢いよく落ちていきそうになる。
「なんでまた鼻の穴ってこんなにぐにゃぐにゃした構造なんだ」
左内の独り言が聞こえたのか、右京が得意げに解説をし始めた。
「鼻腔の中には襞があって、これがあることで小さな空間にも関わらず粘膜が広くなっている。粘膜が広いと、空気に触れる広さも広い。ここの場所は冷たい空気が急に肺臓に入らないように、温度調節をしているようだ」
「わかった、わかった。先も見えないし下も滑りそうで気を散らせたくないんだ。ちょっと静かにしてく……」
その言葉が終わらぬうちに、右京はいきなり左内の背中を突き飛ばした。どうやら左内の一言が勘に触ったらしい。
鼻の中で御家老様の絶叫が響き渡る。
「とにかく下に滑ればいいんだよ。全ての穴は喉に通じているんだ」
ひゃっほう、とばかり右京は歓声をあげて、自らも腰を下ろしてその滑らかな傾斜を滑り降りた。
殿の顔を見つめている尾根角兄弟は、鼻から聞こえる大声に顔を見合わせた。
「兄上、なにやら楽しそうでござるな」
「何を不謹慎なことを言うのだ、忠太郎。お二人とも命を賭して殿のために……」
興奮した右京の叫びが二人の耳に届き、忠太郎が口をつぐむ。
この声は明らかに楽しい時のものだ。
「やれやれ、右京様は殿の身体を遊具と間違えておられるようだ」
「兄上、我々もここでこうしている場合では」
「うつけもの、我々が後を追ってなんとする。いざという時お二人を外からお助けするのが、我々の職務だ」
忠助は忠太郎を叱りつけた。
その頃。
「こっちじゃない」
風音のする暗い穴に入りかけた左内は襟首を掴まれて引き戻される。
「そちらは空気の通る道だ。食べ物が入る道はこちら」
右京が指さす場所、空気の通り道のすぐ横にはまるで上下からぴたりと閉じたような筋目があった。
「入り口は左右二つあるんだ。どちらからでも入れるが、管の通ってない方から入ろう」
「これが本当に入り口なのか? 食べ物が通る道がこんなに狭くて良いのか」
「つくづく想像力の無い奴だなあ。考えても見ろ、ここにいつもぱかっと食べ物の道が開いていたらどうする。万一胃から食べ物が逆流してきた時に空気の穴に入って窒息するだろうが」
はああ、とこれ見よがしに溜息をつく右京。
詳しいのを鼻にかけ、罵詈雑言を投げつける右京の態度、左内の白い額に青筋が立つ。
「何してるんだ、さっさとここを押し広げろ、もぐりこむんだ」
右京が左内に命じる。
唇を噛みしめながらも、口答えを飲み込んで入り口を押し広げて顔を突っ込む左内。目の前には桃色の滑らかな洞窟が見える。その中には反対の方から入ってきた管が通っているのが確認できた。しかし、その食べ物が通る道は常に開いている訳では無く、激しく広がったり狭まったりを繰り返している。
「これが胃に通じる管、食道だ。それにしても視界が悪いな……」
そう言うと、突然右京が忠助に呼びかける。
「おい聞こえるか」
「は、はいっ右京様」
突然名前を呼ばれて驚いたらしい。忠助の慌てた声が聞こえる。
「送気してくれ」
忠助はかねてからの打ち合わせの通りに、管に繋がった機械の黄色い突起を押した。黄色いボタンが輝き、管の接続部からかすかに気体が入る音が漏れる。
右京と左内のドリアンコウが送る映像は、逐一忠助の額のドリアンコウを通してまるで自分が見ているかのように脳に再生されていた。額の子供ドリアンコウは二つの画像のうち、良い物を自分で選んでいるらしく、今、彼の脳裏で展開されている光景は先頭の左内のドリアンコウが送ってくる映像の様だ。
左内の眼前に、送気とともに今まで絞った巾着のように萎んでいた視界が急に広がり、目の前にすべすべした桜色の洞窟が現れた。管の先端は胃の中に開いているが、途中に開けられた数個の穴から、食道にも送気されたようだ。
「いいか、左内。管を掴んでここから滑り降りるんだ」
胃に入れられた管にしがみ付くようにして、勢いよく食道を滑り降りる二人。
さしずめ現代ならば、ジップラインや、ジェットコースターで味わえる感覚であろう。
未知の快感を予期させる光景を目の当たりにして、さすがの忠助も心が揺らいだようだ。
「た、楽しそう……」
思わず発した言葉に、忠助は煩悩を払うかのように目を瞑って首を振る。
ドリアンコウを付けたのが自分で良かった。こんな映像、忠太郎に見せたら大人しくしているはずがない。弟はとっとと理性をかなぐり捨て、本能の命じるままに快楽の海に飛び込むであろう。
唇を引き締め、続く言葉を飲み込んだ忠助。しかし、
「あっ、に、う、え。何か楽しい物を見ておられるんでしょ」
快楽に対する忠太郎の嗅覚は人間離れしている。横合いから、妖しい笑いを浮かべてすり寄ってきた弟は、あっという間の早業で兄の額のドリアンコウを掠め取った。
「何をする」
忠太郎は、忠助の制止を振り切り額にドリアンコウを付ける。と、たちまち忠太郎は恍惚の表情で座り込んだ。
食道の降下を終えた二人は食道のどん詰まりに立っていた。ここも、巾着の入り口のように絞られている。
「食べ物が通る道筋というのは、このように閉じているところが多いのだな」
「逆流すると困るからな。もちろん食物ばかりではない、胃の中の強い酸が食道の方に上がると食道を痛めてしまうから、それを防ぐ意味もある」
右京はそう言いながら、胃と食道の境目に手を突っ込むと思い切り広げた。
暗い胃袋の中に、ドリアンコウの光が射し、ぼんやりとその異様な姿を浮かび上がらせる。
左内と右京は手を突っ込むと身体を通せるぐらいの胃との境を広げる。
「さあ、この管を伝って入れ」
恐る恐る透明な被り物をした頭を突っ込む左内。
目の前にはまるで足袋を中から覗いたような、袋状の空間が広がっていた。
眼下には、黄色い液体の貯まった池があり、幾筋ものくねくねとうねった襞がびっしりと袋の中央まで走っていた。
交差させた足と左右ので管を挟み、サルのように管にぶら下がって滑る左内。
彼は不安定な襞の上にも関わらず、見事に着地した。
「まったくあいつは動物並みに身体の勘が良い」
右京は管を掴んだものの滑り落ち、胃酸の池の中に落ちてしぶきを上げた。
「大丈夫か」
駆け付けた左内が助け起こす。
「なんだ、これは」
左内の視線の先には、まるで野苺のような赤い物が垂れ下がっている。
「胃のイボだな」
右京は興味無げに、手で払う。それは長い茎を持っていてぶらぶらと揺れた。
胃袋の先には半寸ほどの小さな黒い穴が開いている。
「あの穴を超えたら腸だ。寸白は胃の酸にあまり強くない。だから胃に上がってくることはあまりない。だが、腸に入ったら油断できないぞ」
左内は、右手をそっと刀の柄にかける。
「気を付けろ、むやみやたらに切ると虫の卵がばらまかれる」
し……ん。
「寸白にもいろいろな種類がある。無害なものも居る一方、中にはその卵からかえった幼虫が全身をむしばむこともある。一体、殿はどんな奴を飼っておられるのやら」
静かな左内の方を向くと右京は目を丸くした。
透明なギヤマンの被り物を通して見た左内の顔は、発疹が吹き出し評判の美男が台無しである。
「どうしたんだ?」
「虫とか卵とか散らばるとか。想像したら、急にぞくぞくっとして気分が悪くなったんだ」
我慢の限界らしい、左内はしゃがみこんだ。
「こんなことで大丈夫なのか。お前が役に立つのは、虫と戦う場面だけだっていうのに」
右京は大きく溜息を付いた。
左内は無言だ。
「さ、行くぞ。胃の奥の穴を抜けたら十二指腸、ここら辺から遭遇する可能性が出てくる」
十二指腸は、まるで袋のようだった胃とは違い、蛇腹の目立つ細い管であった。
青い顔をしている左内を従え、今度は右京が先に立つ。
「この穴から胆汁が出てくるんだ」
右京が壁についた小さい穴が開いた突起を指さす。
穴から出たと思われる黄色い液が十二指腸の襞と襞の間に貯まっている。
「ここから十二指腸の曲がり角だ」
垂直に近い、曲がり角が眼前に見える。左内は気分が悪そうにとぼとぼと右京の後をついていく。
「大丈夫か、しっかりしろよ」
後ろを振り向いた右京は、左内が口を半開きにして目を丸くしているのに気が付いた。
視線は自分の肩越し、後ろに向けられている。
右京は慌てて正面を向いた。
「わあああああっ」
右京は慌てて左内に飛びつく。二人はもんどりうって、襞の間に倒れ込んだ。
彼らの目の前に現れたのは、彼らの頭くらいの大きさの白いのっぺりとした顔だった。
顔、というには語弊があろうか、それは先端が膨らみ、頂点に河童のような髭が生えている。蛸のいぼのような構造物が三個、毛の下に横並びに開いている無表情な生き物であった。
顔のような先端から長い首が続いている。身体の全体は曲がり角に隠れ、見えないが先端の動きが安定していることから考えると、かなり長いように見える。
それが二人の前でふらふらと首を揺らしている。
「左内、おい、逃げるな左内っ」
「無理、これは無理」
不気味すぎる形態に、左内はすでに戦意喪失しているようであった。
「これは、まずい方の寸白だ……」
右京は眉をひそめた。
今年一年お付き合いいただきどうもありがとうございました。次回は来年。1/3以降の更新予定です。良いお年をお迎えください。正月お色気特番は、もうしばらく気長にお待ち(多分誰も待ってない……)ください。