その6
蔓に巻かれて空中にぶら下がった左内を、茂平は悲しげに見上げる。
短い交流であったが、熱心に朝顔を見る青年とのひとときは、老人にはるか昔の家族とともに過ごした穏やかな日々を思い出させた。
8年に及ぶ、妄執に囚われた日々。幻覚に現れる娘は常に彼を責め続け、ただ黒い朝顔を作るために模索することだけが、自らを救う唯一の手段だった。
今宵、やっとその成就の時が来る。
しかし、立ちふさがる最後の敵が、久しぶりの心の平穏をくれたこの青年だったとは。
笛を持つ手が小刻みに震えている。皺の奥の小さな瞳には、苦悩の色が宿っていた。しかし、茂平は意を決したように笛を口元に持っていく
「残念ですが、ここまでです。武芸では到底あなた様には勝てませんが、私にはこの娘がついておりますゆえ」
老人が笛を吹くと、蔓に入る力がさらに強くなり、もがいていた左内の身体はぴくりとも動かなくなった。
「ご安心ください、すぐにはお命をいただきません。あなた様にも是非お見せしとうございます。私が目指した真の『黒曜』。気品に満ちた、ぬばたまの闇が美しく開花するその瞬間を」
茂平は笛から口を離して、うれしそうに左内に話しかける。
笛を吹かないときの朝顔は動きを鈍らせてはいるが、左内をがんじがらめに縛り付けている茎はびくともしない。
「この黒曜は娘のおようと甚助の遺作です。おようは気品のある黒い朝顔を作りたがっていました。彼女が死んだ、ちょうどその日に開花した黒い朝顔は、驚くべきことに私の心がわかるかのように、嘆く私に蔓や葉を震わせて反応したのです。しかし、残念ながらその朝顔も短命で、わずか一日で枯れてしまいました。私はこの朝顔が冥界から会いに来た娘のように見えて仕方がありません、なんとかこれを蘇らせようと日本全国を渡り歩き、朝顔について無我夢中で研究いたしました。執念が実ったのか、娘が保管していた種を交配し、何年も何年も黒い朝顔を作ることを試みた結果、やっと真紅の花びらの中に広い星形の黒い曜がある短命な朝顔から稀に種を取ることができるようになりました。そしてこの朝顔を掛け合わせて、ついにこの私の心を解する黒い朝顔を誕生させることができたのです。だが、ごく稀にしかできないこの朝顔も残念ながら短命で、結実しませんでした。まるでその運命が子をなさずに他界した娘のように思えて苦悩していたところ、平賀源内様が尋ねて来られ、訳を知るとすぐさまこの朝顔を改良してくださったのです」
茂平の目が妖しく輝く。
「いただいたこの笛で私は娘に呼びかけることができます。そして、平賀様がおっしゃるには人の生き血を充分に吸えば、彼女は開花の後で結実するとのことでした。今までは結実しませんでしたが、必要な生き血はあとわずか。今宵美行藩の皆様の血であの娘は蘇えるでしょう」
「茂平殿、正気にお戻りください。あの朝顔はあなたの娘ではない。人殺しの手先として、奴らに付け入られて利用されているのです」
左内が叫ぶ。
「いいえ、我が愛しい娘です。もう私の手の中からどこにもやりません。種を作り、永劫の命をこれからも宿し続ける、私の愛しい娘です」
「茂平殿、あなたは狂っている……」
「ええ、それはわかっております。しかし、私は黒曜を何としてでも咲かせ、種を作らねばならない。そして、もう一つの我が願いは、この国をより良き方向に導こうとする田沼様の計画を成就させることなのです」
茂平の笛が再び音の無い振動を闇に響かせる。
屋敷がみしみしと音を立て、屋根の上がぐらぐらと揺れた。
つややかな黒い蕾は、幼子から娘に変化するようにゆっくりと紡錘形に膨らんでゆく。
その姿を目を細めて愛でる茂平。
「嫉妬深い娘でしてな。第二、第三の黒曜を私が作ろうと肌身離さず持っていた、この娘の親木の種を、蔓がばらまいてしまいました。」
「大岡殿の御屋敷の近くに落ちていたのは、この朝顔が自らばらまいたのか」
「ええ、私の唯一無二の存在でありたいのでしょう」
「そうだろうか……」
左内の言葉に、茂平の頬がぴくりと動く。
「この朝顔の親木は、娘さんが育てた種だ。もしかしてこの朝顔はどこかに娘さんの記憶を宿し、誰かにこの種を見つけてもらいたかったのではないか。あなたを修羅の道から救い出すために」
勝ち誇った茂平の顔に影がさす。
「我が娘は私を憎んでいました。私のことなど思いやるはずがありません」
「茂平殿、この朝顔は娘さんの意志を継いで、あなたが呪縛から解放されることを望んでいるのではないか。なぜだかわからないが、私にはそう感じられるのだ」
左内を取り巻く茎についている葉が、かすかに揺れた。
「な、何をおっしゃる」
「娘さんは、もう大人だった。あなたのなすべきだったことは、娘さんを庇護することでは無く、娘さんを大人として認めてやることだったのだ。娘さんは娘さんの人生を全うされた、あなたは娘さんの幻影に囚われることなく、朝顔とともに心静かに送ってやるべきではないのか」
「いいえ」
茂平はかぶりを振った。
「いいえ、娘は私が殺したのです。そして娘は私を憎み、私に人生をかけて償うように朝顔を残したのです」
「茂平殿、すでに娘さんはいないのだ……」
なおも口を開こうとする左内、しかし茂平は怒りに燃えた目で笛を吹き、容赦なく左内の身体を締め付けた。
「一緒に黒曜の開花を見ていただきたかったのですが、あなたには最初の贄になっていただきましょう。あなたのその純粋な魂が、きっとあの娘を一段と美しくしてくれるに違いありません」
左内の首が蔓で締め付けられる。
目の前が暗くなり、左内の手から刀が落ちて屋根の上を転がり落ちて行った。
彼は、飛び去ろうとする意識をなんとかつなぎとめながら、鉄くずを両手に抱えて難しい顔をしながら立ち去って行ったあの男の名前を呼ぶ。
だが、答えはなく、徐々に虚無が彼の意識を覆い始める。
どうやら、時間稼ぎに失敗したようだ。
「さらばです、片杉様」
茂平がとどめのひと吹きをしようとした、その時。
朝顔の動きが止まった。
左内は急に全身を締め付けていた、蔓の力がなくなってだらりと垂れさがるのを感じる。
次の瞬間。彼は蔓が緩んで支えが無くなり、空中から屋根の上に転がり落ちた。
「こ、これは、なんと」
茂平が慌てて、笛を吹くが朝顔の蔓は力無くぴくぴく痙攣するのみで、笛で操れていた時のような大きな動きは見られなくなっていた。
「待たせたな、なかなか調整が上手く行かなくて」
力持ちの舞鷹が咥える梯子を左手の肘窩で挟み、横笛を持った右京が屋根に上がってきた。
後ろでひとつに束ねた髪は乱れ、目の下には深い隈ができている。
そして、目は泥酔した鬼のようにらんらんと赤く輝いていた。
「お、お前は呉石右京。一体何をした……」
「あんたの笛の音を消したのさ」
右京は吹いていた横笛を口から外して、振って見せた。
「あんたが朝顔を操っていた笛は、犬には聞こえるが人間には聞こえない高い音の笛だ。この化け物朝顔との交信にはその音がちょうどよかったんだろう」
右京は左内の横に降り立つと、いつでも吹けるように横笛を構える。
「音と言うのは波のようなもんだ、波の横幅が小さくなると高い音、そして波の幅が大きくなると低い音が出る。音を消してやろうと思ったら、相手の音と真反対の波を作ってやればいいのさ。で、相手の音を感知するとすぐに真反対の波を出すように細工をした笛であんたの音を消した上、こちらからさらにかく乱の音を出したって訳さ」
茂平が笛を口に当てて吹く、しかし、右京が現れてからというもの、朝顔は痙攣するかのようにぴくぴくと震えることはあっても、もう律動的に動こうとはしなかった。
自由になった美鷹が屋根の下にひっかかっていた剣を左内に届ける。
しかし、左内はその剣をもう構えようとはしなかった。
眼前の茂平は屋根の上に蹲り、しゃくりあげながら顔を赤くしてただ、ただ空しく笛を吹くのみ。
「茂平殿、もう終わりです。あなたが償わなければならないのは、罪も無い人々の命を奪ったことです」
「終われませぬ、これでは終われませぬ」
茂平は決然と刀を拾うと、右京に向かっていきなり斬りかかった。
「おのれ右京、その笛を渡せっ」
鋭い太刀筋。左内には手加減をしている暇が無かった。
頸部に走った銀の光、そして吹き出す血潮。
「こ、黒曜を……どうか」
最後の一瞬、左内の目を見つめると茂平は屋根の上から転がり落ちる。
頭から地面にたたきつけられた茂平は苦しい息の下で最後の笛を吹く。
右京が横笛を構える、しかし、左内はそれを制するとそっと首を振った。
笛に導かれるかのように、茂平の周りには朝顔の細くて白い根が集まり、育ての親の血を吸い取っていく。茂平の身体は蒼白となり、干からびて徐々に収縮していく。
と、見る間に絞り染めの糸が解かれるように、固く閉じられていた蕾が開き始めた。
漆器を思わせるしっとりとした黒い朝顔が花びらを広げる。
それは艶のある、闇よりも深い闇。
月の光に照らし出され、正円を縁取る金色の砂子がキラキラと輝いた。
茂平が襲撃を闇夜にせず、わざわざ月の南中するこの時刻を選んだのはこの光景をその目で見たかったからに他ならないだろう。
「見えるか、茂平。なんと美しい花だ……」
左内が感極まった声でつぶやく。
「あの親子への弔いの花だな」
右京が目を閉じた。
はおおおおおん、はおおおおん、はおおおおおん。
黒曜は、別れを告げるように何度も寂しげに哭いたあとゆっくりと花を萎ませた。
「左内、この花を切り落とせ」
左内は凍りついた顔で、右京の方を振り向く。
「私は、茂平殿からこの花を頼まれたのだ……」
「これは人間の血の味を知ってしまった花だ、子孫を残すとどんな禍が起こるかもしれん」
右京は足もとに落ちていた茂平の刀を突きつける。
「人間の敵として憎まれるのはこの花にとっても、あの親子にとっても不幸なことだ。朝顔栽培の最後の弟子であるお前が切ってやれ」
左内は眼下の茂平の乾いた躯を見る。
彼は目を閉じて、題目を唱えると黒曜に向き直った。
左内が飛びあがり、刀が一閃した。
ぼとり、と蕾が屋根に落ちる。と、ともに黒曜の茎は見る見るうちに枯れて四散して行った。
まるで無数の涙が飛び散るかのように金色に輝きながら。
日中の熱気も、日が西に傾き始めると風と共にどこかに行ってしまうようになった。
夏にどことなく陰りが見え始め、確実に秋が忍び寄っているのを感じる。
あの日から元気がない左内は、縁側に座り、庭を見ながら物思いに沈んでいた。
「左内」
声とともに突然庭から現れたのは、奥方様であった。
侍女も連れずに、何やら大きな風呂敷包みを携えている。
左内は慌てて庭に降り、手を貸そうとするが、奥方様は首を振ると、風呂敷包みを縁側に置いた。
「殿がこれをお前にと」
奥方様は、手に下げた風呂敷包みをほどいた。
はらりと落ちた風呂敷から出てきたのは、美しく行燈仕立てにされた朝顔。三叉槍に似た濃い緑色の葉が茂り、そして茎には蕾と一つ二つの実がついていた。
赤い花弁に黒い筋の入ったその蕾を見たとたん、左内は息を飲む。
「こ、黒曜の親木……」
多分、黒曜を作り出すために交配した朝顔の一つであろう。
「茂兵衛の家にあった最後の朝顔です」
「なぜ、ここに……。茂平の朝顔と種は茂平の失踪とともに狙っていた朝顔の栽培者たちにことごとく持ち去られたはず」
左内は、鉢の前に跪き、しげしげとその繊細に育てられた美しい植物を見つめた。
「茂平の落した種をあなたが育てても、すべて結実せぬまま一日で枯れたという事を聞いた殿が忠助と忠太郎に命じて、江戸中探させたのです。左内はきっとこれを育てたがるのではないか、と言って……」
震える手で、鉢を撫でる左内を奥方は優しい目で見守る。
「まさに、これこそ私の心残りでございました。お心遣い感謝いたします」
「日ごろのそなたの忠勤に対する、せめてもの感謝のつもりなのでしょう。それなら、あなた様自身がお渡しになればいいのに、と申し上げても頑なに首を縦に振られぬのです。へそ曲がりというか、いつも人のことなど考えずにやりたい放題の癖して、妙な所で照れくさいのかしらね」
奥方様が苦笑しながら首を傾げる。
「大切に、いたします……」
左内は、鉢を抱かんばかりにして頭を下げた。
奥方様が去って、しばらくして。
黒曜の親木をしげしげと眺める左内のところに、ふらりと顔を出したのは、右京だった。
あの一件以来、ついぞ顔を見せていなかったのだが、どういう風の吹き回しだろうか。
「久しぶりだな」
それだけ言うと目もあわさないでいきなり縁側に座り込む。
「菓子はないぞ」
にべもない左内の返答など気にも留めない様子で、右京は傍らの朝顔を覗き込んだ。
「これが、あの茂平の遺産か」
「心配には及ばん、至って普通の朝顔だ」
この花は守るぞ、とばかりに左内が花を後ろに庇い右京に対峙する。
「誰も、枯らせとは言ってない」
右京は、なぜか帰りもせずに朝顔をぼんやりと見ている。
結構な時間がたってから、やっと右京が口を開いた。
「すまん。蕾は花好きのお前では無くて、私が切れば良かったかもしれんな……」
突然の右京の謝罪に左内はびっくりして相手の顔を見る。
暫く顔を見せなかったのは、彼なりに気を遣っていたのかもしれない。
「いや、考え込んでいたのは蕾を切ったせいではない」
「左内、みんなお前が元気がないと心配していたぞ」
左内はちらりと右京の方を見た。
「おい……」
「なんだ」
「聞きたいことがある」
左内は飲み込んでいた思いを吐き出すように、ひとつため息をついた。
「田沼意次の行っている政治は正しいのか。お前が最初、あの事件に首を突っ込むことに乗り気ではなかったのもそのせいか?」
目を吊り上げて真顔で聞く左内の勢いをかわすかのように、視線をそらして右京は首を傾げる。
「正しいかと言われれば、迷うところだが、現在成しうる財政の立て直しの手法としては間違っていないだろうな」
「では、田沼殿に敵対する我々は間違っているのか?」
「間違っているという事はないだろうが、ただ……」
「お前らしくも無い、口ごもるな」
「ただ、必要悪というのもあって、私はこの世の中は勧善懲悪という訳にはいかないと思っているのは確かだ」
「私は小事にこだわり大義を見失っているのか?」
「正しければ何を行ってもいいという訳ではない。それが通れば、権力の専横を許すことになってしまう。政治や金の動きに確固たる正解は無い、今は良くても長い目で見れば間違っているということも良くあることだ。だが事の成否にのみ拘り、それを成就するための方法に規範を作らねば、世の中の倫理が乱れる。倫理が乱れた世は政に心ある人材はいなくなり、人心も離れ、取り返しがつかな……」
右京は言葉を止めた。
彼の眼下で、うなじを垂れた左内の肩が震えている。
「ずっと、一人で考えていたのだが、茂平殿のように、もう、よくわからなくなってしまったのだ。私は茂平殿を斬ってしまったが、もしかしたら茂平殿のほうが正しかったのか」
「馬鹿、藩主ご一家と藩士の命がとりあえず一番大切なのは当たり前だろうが」
左内は聞いているのかいないのか、俯いた顔を上げようともしない。右京は困ったように頭をぼりぼりと掻いた。
「おいお前、いやしくも江戸家老だろう。こんな姿を見られでもしたら……」
右京は当たりを見回す。幸いにして人影は無い。
目に自らの右腕を押し付けた左内からは返事が無く、代わりに喉から漏れる押し殺した嗚咽が響くのみ。
そして、それは堰を越えてしまったかのように徐々に大きくなる。
「お、おい……」
今、立ち去ると、人が通りかかった時左内の姿が丸見えになる。
右京は立ち去りもできずに天を仰いだ。
左内の号泣は終わる気配を見せない。
いつの間にか夕陽に当たった朝顔の鉢の影が長く伸びている。
「仕方ないさ、簡単に答えが出る問いではない」
右京はあきらめたように溜息を付いた。
「俺達は、まだそういったことを論じるには若すぎるのかもしれんな……」
藩邸の隅、右京と左内の影はゆっくりと夕闇に溶け込んで行った。
「黒曜」編はこれで終了です。ちょこちょこ文章の修正をするかもしれません。
次回からは、この章と同じキャラとは思えないほど弾けたおバカ下品展開となりますで、ご了承ください。11月末から12月ごろに再開予定です。