その5
柿の種のような形の寝待月が、南の空高くに上がっている。
すでに町に人声は無い。
辺りには耳鳴りを大きくしたような虫の声が、引っ掻くように湿った空気を震わせているだけである。
風は無く、底知れぬ闇の肌触りはねっとりと重い。
丑三つ時を少し過ぎたころ、世間ではすべての物が動きを止めたように見える。
しかし、ここ天晴公の屋敷では、土塀に沿うようにして一つの影が動いていた。
それは、頬かむりした小柄な男である。
男は体をすぼめやや俯き加減で、月の光を避けるように土塀の陰に隠れながらひひたと歩いている。男が通り過ぎた後には、止まっていた空気が乱されてかすかな風が巻き起こった。
一見無造作に見えるその男の足運びであるが、遅からず速からず。灯りも持たないのに器用に小石を避け、極力音を立てぬように足先から踵に至るまで、ぴんと注意を張り詰めている。
左手に下げられた細長い風呂敷の隙間からは、一本の蔓が垂れていた。
風呂敷包みはまっすぐに平衡を保たれているというのに、なぜだかその蔓だけは蛇が舌を覗かせるかのようにちらちらと小刻みに揺れている。
目的のところまで来たのだろう、男は歩みを止めると美行藩の土塀に身を寄せるようにして、そっと風呂敷包みを解く。
中から現れたのは見事な行燈仕立てにされた朝顔であった。
男 は頬ずりをするかのようにその鉢を目の高さまで抱えあげて満足そうに目を細める。茎に鈴生りになった形の良い葉をそっと撫でると、その男は紐に結わえて首にかけていた銀色に輝く小さな笛を取り出し、口にくわえた。
男の肩が興奮を抑えきれないように上下して、笛に添えられた手が震える。
男の頬が膨らむが、笛の音は聞こえない。
しかし、急に朝顔の葉がざわざわと震えだし、何本もの蔓が勢いよく伸び始めた。行き場を探すように蔓は惑いながらも次々に土塀を這い始める。
「そこまでだ、茂平殿」
闇の中から、静かだが凛とした声が響いた。
身体をびくりと震わせて、男が振り向く。
その視線の先には、まろやかな月光に縁どりされて、すらりとした武士の輪郭が照らし出されていた。
「化け物朝顔の作り手は、やはりあなたか……」
「なぜお分かりになった、片杉様」
頬かむりの下の、落ちくぼんだ目が鈍く光る。
老人の口から笛が外れると、朝顔の動きはぴたりと止まった。
「事件の現場にあった朝顔の種、あの芽きりはあなたの仕事だ。だが、私は予想が外れていることをどれだけ願ったか……」
左内は右手を刀に乗せ、相手との間合いを狭める。
「お逃げください、片杉様」
茂平は絞り出すような声で、呼びかける。
「花を咲かせるには生き血が必要。今日はそれを頂きに参りました。だが、あなたは悪い方ではない、できれば生き延びていただきたいのです……」
左内は微動だにせず、無言で老人の前に立ちはだかっている。
ここで茂平が思いとどまったとしても、彼には幾多の無実の人々を死に追いやった茂平を逃すことはできない。
そしてお上に捕えられれば、もちろん残忍な極刑が待っていることは間違いないのだ。
と、すれば彼が取るべき道は一つしかない。
左内の沈黙を見て、茂平は溜息をついた。
「決着を付けねばならない、ということでしょうな」
「なぜ、このようなことをした、茂平殿」
大きく息を吸って、茂平は意を決したように口を開いた。
「茂平は仮の名前、私は元郡上藩に仕え、勘定方をしておりました」
「やはり、元は武士であったか」
左内の脳裏には、茂平の家で見た難しい書物の数々が浮かぶ。あの達筆といい、時折垣間見せる教養の高さ、勘定方としてもかなりの重職にあったのは想像に難くない。
「郡上藩は資金繰りに困っておりました。我々は、藩の財政を立て直すために何としても税を増やさねばならなかった。農民達に増税を受け入れされるため、一旦締結した約束を反故にしたり、力で押さえつけたり……、私達も必死だったのです、人と人とも思わぬことをやってまいりました」
俯き加減であった顔をあげ、まっすぐに左内の顔を見た茂平の目が月光に照らされ、きらりと光る。
「天罰でしょうか、なんと娘は親の敵ともいえる郡上一揆の首謀者の一人と身分違いの恋をしてしまいました。そして相手が捕えられ殺された時に、娘も後を追ったのです」
嗚咽をこらえるかのように茂平の声が、しゃがれていく。
「それが、あの位牌か……」
「ええ、私が藩を出奔するときにともに連れてまいりました。残しても、道ならぬ恋に殉じた恥ずかしい娘として、十分な弔いは受けられないことが目に見えておりましたから」
「なぜ、出奔されたのだ。あなたは才のある方だったに違いない。娘さんのことは残念だったし、君主金森公は改易されたが、武士のまま仕え続けるのもまた一つの手であったとは思うが……」
「すべてがわからなくなったからです。自分の信じてなしてきたことが、正しかったのかどうか」
「あなたは間違っていなかった、あなたは藩主の命令に従ってことを成しただけだ」
茂平は首を傾げる。
「片杉様は疑問に思われたことはありませんか? 藩主の命令が絶対なのか、と」
「な、何を……」
急な問いかけに左内は口ごもる。
「私に刃を向けておられるという事は、あなたは田沼様に敵対している、ということでよろしいのですね」
左内の無言を、肯定と解した茂平はさらに問いかける。
「片杉様、あなた様は何のために田沼様と戦っておられるのですか」
「我が藩主を守るためだ」
「羨ましいことです。あなた様のような真っ直ぐな方が、そこまで信奉できる天晴公はそれだけの人物なのでしょう。そして天晴公もあなたを信頼しておられる。今日この屋敷から逃げずに残っていることがその証です」
茂平は目の前の若い侍に向かって、寂しげに微笑みかける。
「私は、そうではなかった。いつも農民達に重税を課することを疑問に思い、悩み続けたが藩主は幕府の方ばかりを見て聞く耳を持たなかった。私は常に自分をだまし続けなければならなかった、そしてそれが武士としてのあるべき道だと思っていた」
低く落とされた声だが、左内には茂平が声限りに叫んでいるかのように聞こえている。
武士として辛酸をなめてきた人生の先達の言葉に、左内は一言も発しえず、ただ拝聴するのみであった。
「財政が足りなければ、税を増やせばいい。そのような藩の経営によって郡上一揆は起こり、そして結果的に我が娘は命を落とすことになりました。一揆がなければ、娘が家を出ることはあっても、後を追って死ぬことはなかったでしょう。すべては私のせいです、私が命じられるまま、硬直した考えのまま、政策を推し進めてしまったのが、悲劇の原因でした」
「あなた一人のせいではありません、茂平殿」
「いいえ、私には何かできたはずなのです。だが、私は武士という身分に縛られ、何もなしてこなかった。私はほとほと武士としての生き方が嫌になり、浪人となり朝顔を売って身を立てるようになりました。そして朝顔の研究をされていた平賀様にお会いし、あの方を通して私は田沼様の事を知るようになったのです」
「あなたはあの悪党どもに騙されているのだ、目を覚ましてください。あなたは周りの人々の死に目がくらみ、全体が見えなくなっている」
「片杉様、あなたこそ周りを見るべきです。敵対されている田沼様の政策は御存じですか? 今まで通りの財が足りなければ絞ればいいという単純な考えでは、いつかこの国は破綻いたします。私は、田沼様の商業を盛んにし、輸出を伸ばすという舵取りに賛成なのです。いくらやり方が汚くても、結果的には方向性は正しい。今のままでは、この国は破綻いたします。疲弊し、諸外国から付け入られれば、人々は再び安定と他国との対等な付き合いを取り戻すまでに幾多の犠牲と困難を必要とするでしょう。私は財政が破綻した悲劇をいやというほど見てきました」
左内は返答に窮する。
「枝葉を見て、その幹を見ないのはあなたのほうではありませんか、片杉様」
畳みかける茂兵衛。
「あなた方が田沼様を潰せば、この国は破綻します。そして第二、第三の郡上一揆が起こるでしょう」
そう言い終えると、茂平は口に銀の笛をくわえた。
今まで動きを封じられていた鬱憤を晴らすように、蔓は枝分かれし、緑の洪水のように土塀を乗り越える、そして藩邸の周りを取り囲んだ。
その一翼が左内の方にも襲い掛かる。
ざっくりとその蔓の束を切り落しても、四方から次々と蔓がうねり左内の身体に巻き付き始めた。伸びて太くなった蔓は茎になり、直角に生えた白い針のような毛でびっしりと覆われている。もともとこの毛は虫よけのためのものだが、攻撃用に変化させられているのか、巻き付かれるとその針が皮膚に刺さって容易に振りほどけなくなっていた。
白い針のため、四肢に激痛が走り左内の動きが鈍くなる。
藩邸内のそこかしこで、叫びが上がる。
家治の方から殿に、この件は表ざたにせず内々に処理しろという命令が下っているため、他の藩や町方の役人たちに助力は求めることはできない。今宵の藩邸は藩士達のみで警護している。
左内がしつこく逃げることを勧めたにも関わらず、藩主夫妻は頑として上屋敷から逃げようとはしなかった。自分達が今逃げれば、罠に仕掛けた餌が居なくなるのと同じ。次の標的になるのが無防備な他の藩であれば、それだけ犠牲が増えるかもしれないと言うのがご夫妻の弁である。
限られた時間で、左内は藩士たちを総動員して屋敷の警備体制を整えて待ち構えていたが、この蔓の勢いは尋常ではなく、邸内では藩士たちも劣勢に陥っていることが予想された。
藩主の居室にもこの騒ぎは聞こえているであろう、なんとしてでもご夫妻を守り抜かねば。左内が振り下ろす刀に力がこもる。彼の四肢に巻き付いた蔓は季節外れのかまいたちが周囲を廻ったようにすぱりと切断され、地面に落ちてのた打ち回った。
しかし、それはまたむくむくと顔をもたげ、左内に向かって来る。切っても切っても蔓は尽きることが無く、四方から彼を襲い続けた
血だらけの家臣たちが、蔓に巻かれて空中に舞う姿が、土塀の外の左内からも見える。
藩邸はびっしりと蔓に覆われ始めた、葉がそこかしこにぺっとりと貼りつき藩邸内の人々を閉じ込める。
同時に屋根にずりずりと太い蔓が登り始めた。
茂平の周りには緑の網がまるで彼を守るかのように出現し、彼は恍惚とした表情を浮かべて月明かりに照らされる屋根の上の蔓を見上げていた。
「あ、あれは」
月明かりに照らされて、左内は屋根の上に這った蔓に葉の付け根から短い茎が伸びているのに気が付いた。
「花枝だ」
その短い枝の先には白い毛におおわれた細い紡錘形の蕾が付いている。
花を咲かせるために生き血が必要。
茂平の言葉が左内の脳裏に蘇える。
もう、時間が無い。
彼は、塀の中から手元に巻き付いて来た蔓を握り締める。短いとげが彼の手を血に染めるが、そのまま彼はその蔓を胸元に引き寄せ、身体を弾ませると土塀を蹴った。
「しまった」
土塀を駆け上がる左内を見て、茂平の血相が変わる。
茂平は笛を咥え、ひときわ頬を膨らませて吹いた。
その笛の音に導かれたのか、刺さらないように白い毛を平らに収めた蔓が茂平に巻き付き、彼を守る緑の網から出た茂平をそっと邸内に招き入れた。
左内が塀の上から見下ろすと、朝顔の茎で十重二十重に巻かれ藩邸は緑の籠と化している。
彼は今度は視線を上げ、蕾を携えて勝ち誇ったように屋根の上で旋回する朝顔の茎を睨みつけた。
茂平の我執はあの花を咲かせ種を得ること。それだけが、今の彼に力を与えている。
とすれば、あの花を切り落とし茂平の気持ちを挫かねば勝機は無い。
左内は、土塀から飛び降りた。
朝顔の侵入とともに掲げられた篝火に照らし出され、蔓に襲われた藩士たちがそこかしこでのたうちまわる姿が見える。しかし、左内がもともと注意していたとおり、首には注意しているのか、命を取られたものはまだ居ないようだ。
左内は抜いた刀を口にくわえ、網目のように巻き付いた朝顔の茎を足掛かりに藩邸の屋根の上に登り始めた。
しかし、すぐさま彼に向かって周囲から蔓が迫ってくる。
左手で茎を掴み、右手に刀を持って茎を切り落としていく左内。
だが、一瞬の隙を突いて彼の首に蔓が巻き付いた。
気道をぐいぐいと締め上げられ、左内の眼前が暗くなり手の力が抜ける。屋敷から引きはがそうとばかり、蔓は彼の首をひっぱり空中に放りだそうとした。
あわや、首を吊られそうになるその瞬間、風を切る音が左内の横を通り過ぎた。
左内の首を絞めつけていた蔓がするりと落ちる。
舞い散る茎と葉を突き抜けて、月を背にして大きく広げられた羽が黒い影になって映し出された。
「おお、美鷹」
口に短刀をくわえた鷹は挨拶するようにひょいと首を曲げると、左内の周りを小さく旋回して彼の周りの蔓を次々と切断していく。
おけいが呼んでくれたのだろう。
左内は奥方の横にいるであろう鶏に、心の中で感謝の言葉を贈る。
庭から藩士たちの叫びが少なくなっているのは、後の2羽もやって来て加勢してくれているに違いない。
左内は屋根の上に上がると、花枝に向かった。
蕾は、先ほどよりも長くなり斜めに巻かれた花弁の形がはっきりとしている。
月明かりに照らされたそのつぼみは闇よりも漆黒。花弁の縁だけが黄金色の砂子をまいたかのようにきらきらと輝いている。
「悪あがきもそこまでです。左内様」
蕾を守るかのように、左内の前に茂平が降り立った。
「娘には指ひとつ触らせません、たとえあなたのお命を奪うことになっても」
いつの間にか、茂平の手にも刀が握られている。
頬かむりはすでに無く、ざんばらになった白髪が燃え立つばかりに輝いている。
それは月明かりのせいばかりではなかった。激しい闘気が彼の全身から湯気のように立ちのぼりその姿を白く浮き上がらせているのである。
美鷹は左内の周りに迫る蔓を懸命に遮るだけで精一杯で、左内の加勢ができるだけの余裕は無い。
正眼に構えた左内の動きが止まる。
茂平は刀を立てて鍔を顔の右に寄せる、八相の構え。
ぴたりと決まったその形は、往年の修練をそのまま現している。
実直な能吏は研ぎ澄まされた武芸者でもあったのだ。
彼らは足場の悪い屋根の上で、対峙しながらじっと相手の出方を窺っている。
「片杉様、どちらが勝つにせよこれがあなた様との今生の別れでございましょう。心残りと言えば、あなた様にもっと朝顔の事をお教えして差し上げたかったことです」
「茂平殿……」
討たねばならない敵ではあるが、左内の心は冷酷になりきれない。
かすかな動揺だが、相手が見逃すはずは無かった。
ひらりと打ちかかられた切っ先は左内の逆胴を狙う、すかさず左内は相手の柄の真ん中に刀を振り下ろす。老人の刀は反動で跳ね上げられ上段に逃げる、左内は間合いを詰め、脳天に刀の峰を振り下ろした。
しかし、彼の刀は勢いよく空を飛んできた緑の鞭に絡め取られる。
蔓に捕まったのか、背後から美鷹の苦しげな叫びが聞こえてくる。
同時に左内の身体にも蔓がぐるぐると巻き付いて、一瞬のうちに彼の自由は奪われてしまった。
この時代の先駆的なことを調べていると、高頻度に平賀源内の名前が出てきます。しかし、朝顔の事を調べていて、平賀源内の名前が出てきたときにはさすがに驚きました。さすがですねえ~~。
11/8でこの「黒曜」編は完結です。