その4
「御無礼した、茂平殿。それは御内儀か、仏様に謝らせていただきたい」
左内が慌てて茂平の前に手を突く。
「娘です……」
呟く茂平の顔は、朱く染まっていた。
左内の謝罪にもかかわらず、茂平の怒りは収まる様子をみせない。
「お引き取りください」
茂平は今までの物柔らかな態度を一変させて二人に迫った。
その鬼気迫る迫力に左内は息を飲む。
「なんだ、ちょっと見ただけじゃないか」
「だまれ、この無礼者」
不服そうな右京の襟首を掴み、左内は戸口に向かう。
しかし。
彼はくるりと振り向いて、茂平の目をじっ、と見つめた。
「茂平殿、これで帰ります。帰りますがその前に……」
一瞬言いよどんだが、左内は意を決したように言葉を続ける。
「朝顔の種を落されたことはありませんか」
茂平の顔に影がさす。が、彼はすぐさま左内から目を反らし、吐き捨てるように言った。
「ない。ただ、人に譲ることはある故、朝顔の種の行く末は知らん」
「わかりました」
左内はそれ以上何も言わずに、右京とともに長屋を後にした。
二人が去った後も茂平はしばらく部屋の中に座り込んで肩で息をしていたが、そっと顔を上げると仏壇を見つめる。
「お父様は私の気持ちなど全くわかっていらっしゃらない」
何処からか娘の声が聞こえたような気がして、茂平は息を飲んだ。
頬を染めて睨みつける在りし日の娘の姿が蘇える。
「わしが悪かった。もう責めないでくれ、およう」
茂平は深く頭を垂れた。
母を早くに亡くした娘には、寂しい想いをさせた。
しかし、揺れる藩の財政を切り盛りする勘定方として日夜奔走していた彼には、娘を構う暇など無かったのである。
乳母も手を焼く、奔放で強情な娘に育ってしまったのはすべて自分の責任だ、と茂平は歯噛みした。
今更後悔しても元には戻らない事を、目の前の戒名が冷たく告げている。
思えばあの男の事で、何度娘と揉めたことだろう。
「もう止せ、およう。武家の娘が、なぜ百姓くんだりと仲睦まじくするのだ、このことが他家に知れたらどうするのだ、嫁の貰い手も無くなるぞ。恥ずかしい」
「なぜ恥ずかしいの? 甚助様はとても才能のある素晴らしい方よ。見て」
おようが見せた朝顔は、光沢のある黒に近い真紅の美しい朝顔であった。中心から放射状に広がる細い筋はより黒く、まるで黒い星が輝いているかのような妖艶な姿である。
「なんだ、その黒い朝顔は、不吉極まりない」
吐き捨てるように言う父親に対し、これ見よがしに朝顔の鉢を抱きながらおようはうれしそうに話し続ける。
「甚助様はこれを『黒曜』と名付けられたの。私の名前と同じ。でもいつかもっと美しい黒い朝顔にしてみせるとおっしゃっているわ……」
「そんな黒い花、葬式の時に使うしか能が無いではないか。阿呆くさい。そんなことをしている暇に、百姓ならば米の収穫がどれだけ増えるかということに腐心すればいいものを」
「甚助様は、もちろん稲の事についてもよく勉強なさっておいでよ。どうすれば収穫が増えるか、日夜考えておられるの。あのような方がこれからの我が藩を支えて行かれるのだと思うわ」
実は気良村の甚助の噂は、茂平も聞き及んでいた。
娘のおようより十以上も年上であるが、周辺の農民たちを束ねる庄屋の家の総領息子で、以前から義に厚く大層賢い男だと評判である。
おようを生んですぐ亡くなった母親に似て、おようも花が好きであった。
二人がどのようにして知り合ったかは定かではないが、甚助とはおおかた花の取り持つ縁であったのだろう。
「藩を支えているのは、田畑を耕すお百姓の力よ。お父様たちはそれを忘れておいでだわ。お父様たちはすぐ百姓などと馬鹿にするけど、お金が足りなければすぐ税を上げることしか考えない、他の解決法を考えつかないお父様たちのほうがよっぽど馬鹿……」
「黙れっ」
慌てて娘を叱りつけ、茂平はあたりを見回す。
国家老粥川仁兵衛の下で、郡上藩の財政を司る勘定方を務める彼には娘の一言が深く心に突き刺さっていた。
藩主金森頼錦が、幕府での出世の第一歩である奏者番になり、様々な出費がかさんでいる。このままでは破綻することが明白な藩の財政をなんとか立て直すために、彼ら勘定方は税の徴収法を変更しようと画策していた。
これまでの郡上藩の納税は収穫に関わらず、一定の年貢を徴収する定免法であったが、それを詳細に農地を検分してその年の年貢を決める検見法に改正する方向で、茂平たちは動きつつあった。農民たちが開墾して作った新田にまで、税がかかる検見法は郡上の農民たちにとってはかなりの増税であり、それだけに反発も激しい。しかし、藩の方もなりふり構ってはいられないほど、財源の確保に必死だったのである。
その最中に、まさか娘が父親の敵対する農民の一人に心を寄せるなど、茂平の中ではあってはならないことであった。身分違いも甚だしいとうろたえる茂平など眼中にないように、反対すればするほどますます娘は歳の離れた甚助にすり寄っていく。
まるで、自分が求めていた父性がそこにあるかのように。
「お父様は鬼だわ。人間の皮を被った鬼だわ」
どう謝っても、娘は私を許さないであろう。
いったい、自分はどうすればいいのか。
今の自分の行いは、果たして娘の意に沿っているのか。
わからぬまま、彼は無我夢中で漆黒の闇の中を歩いている。
茂平は正座した膝の上に置いた拳を震わせた。
「答など見つかるはずもない。もう、私の気はとうの昔に触れているのだ」
畳に倒れ伏す、喪服を着たおようの姿を見つけてから……。
その年、娘の育てた朝顔に黒い花が咲いた。
「あいかわらずきれいな朝顔だな、茂平」
障子ががらりと開いて、ずかずかと長身の男が入ってきた。
「さすが名手の名に恥じぬ見事な仕事。そもそもお前と知り合えたのも物類品隲をまとめるために、松山朝顔を調べていたおかげ。それを考えれば縁を取り持ってくれたこいつらに感謝せねばなるまいな」
朝顔を眺めまわしながら暑そうに頭巾を取ると、その頭巾でパタパタと顔を扇ぐ。
「よくぞおいでくださいました、平賀様」
茂平は慌てて戸口を向くと、手を付いて礼をした。
「あいつは元気か?」
「ええ、おかげさまで日一日と元気になっております」
平賀源内は小さい目をきょろきょろと部屋の中に走らせた。
「先ほどこの界隈で、美行藩の片杉左内と呉石右京を見たという繋ぎが入ったので、慌てて来てみたが変わったことは無かったか」
茂平はあっ、と息を飲む。
「何か、あったのか」
「いえ、今二人のお武家様が来られて……。一人は物静かな礼儀正しいお方で、もう一人は傍若無人な……」
「右京だな」
間髪入れずにつぶやくと、源内は両腕を組む。
「何か聞かれたか? 感づいた様子はあったのか?」
「いえ、変化朝顔に興味をお持ちのようで、そればかり話を聞いておられました。あ、そういえば最後に朝顔の種を落したのではと聞かれましたが……」
「それで?」
「私の種は、様々な方に御譲りしております。私は存じませぬとお答えしました」
目を伏せて、源内が額に皺を寄せる。
「美行藩の連中は抜けているようで、なかなか侮れぬ奴らよ。これは悠長に構えてはおれぬな」
「と、いうことは……」
「敵が準備を整える暇が無いように決行は急いだ方が良い。予定通り、今夜だ」
茂平は戸棚の中にちらりと目をやる。
「これで三日目、我が願いは成就するでしょうか」
「ああ、見ればわかるであろう」
「ええ、あなた様の薬と笛のおかげで今まで一日で枯れていたあの花が、意思を持ち、つぼみを付けながら生きながらえております。ご覧ください」
茂平は戸棚を開けようとしたが、慌てて源内はその手を止めた。
「よせ、朝顔は夜が来てからの時間で開花が決まる。今から闇の中に入れておかないと咲かないぞ」
「ああ、源内様にも是非お見せしとうございます。娘は月光の下、美しく開花いたしました。今宵はまた生き血を吸って、よりいっそう美しく咲き誇ってくれることでしょう」
茂平の目の中に妖しい光が閃く。
「いや、遠慮しておこう」
源内の言葉も耳に入らぬように、視線を宙に泳がせて憑かれたように語り続ける茂平。
「おようが蘇ってくれるなど、思いもよりませんでした。もう、何処にもやりません、あの娘は私だけのものでございます、私だけの宝物……」
源内は、その場をそっと立ち去った。
「茂平殿は元武士だ」
藩邸に急ぎ足で戻りながら左内がつぶやく。
「どうしてそう思う?」
「一介の町民にしては、茂平殿は数理に明るく、教養がありすぎる」
「町民でも、学のあるものはいくらでも居よう」
右京は納得がいかないとばかりに首を振る。
「戒名に大姉と付けることができるのは、おおむね武士以上の身分の者に限られるのだ」
それにあの洗練された立ち居振る舞いは、一朝一夕に培えるものではない。
「今の境遇にあの方を陥れた、何か禍々しいことがあったに違いない……」
左内の心は、稀代の朝顔の作り手である茂平に対する疑いを打ち消したい衝動に駆られている。
しかし。
「今宵、茂平殿と対決せねばならぬようだ」
幾多の戦いを経験してきた彼の本能がそう告げていた。
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