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その1

「黒曜」編はコメディ色を極力排した短編です。(多分数回で終わらせると思います)いつもと雰囲気が違うかもしれませんが、よろしくお付き合いください。

 明和3年6月19日丁巳(ひのとみ)、丑の刻から虎の刻に変わろうかと言う頃。

 昨日の夜に出た居待月(いまちづき)はすでに南の空高くに昇っている。満月として煌々と輝いていたのはつい3日前なのに、今ではその右側をはっきりと欠けさせ、ずいぶんとまろやかな光で江戸八百八町を照らしていた。

 通りには人影も無く、どこかで犬の遠吠えが聞こえるだけ。

 梅雨明けした江戸の静かな夜である。

 しかし、ここ岩槻(いわつき)藩の江戸藩邸では穏やかならぬ異変が起こっていた。

 最初に気づいたのは、藩邸で飼っている犬が先程からえらく吠えるため、邸内の見回りをしていた宿直(とのい)の者である。

 その侍は、玄関先にたどり着いた時妙な音がするのに気が付いた。

 ずるり、ずるり。

 何かを引きずるような音。

 怪訝(けげん)に思った侍は、そっと提灯(ちょうちん)を音の方に向けてみる。

 提灯の灯りに照らし出されたものは、まるで意思を持つかのごとく屋敷のほうに這っていく細い(つる)であった。

 それは鎌首をもたげるように時折首を左に振りながら進んでいく。そして軒先に繋がる柱に触れると、引き寄せられるように巻き付いてするすると登り始めた。

「なんだ、これは」

 蔓をたどって、その出所を確かめようと侍が振り向いたその瞬間……。

 背後から忍び寄ってきた別の蔓が、鞭のようにしなってその首に絡みついた。手で引きはがそうとしても蔓は素早く侍の気道にくい込み、ひと声すら上げる事ができぬまま侍は絶命してその場に崩れ落ちた。

 蔓は軒を伝い、屋根を這い。いつしか数も増え、見る見るうちに屋敷は蔓で編まれるように覆い尽くされていく。まるで緑色の血管が浮き出た生き物のように屋敷が変貌したころ、いきなり、蔓にくっついた三叉槍(さんさそう)に似た無数の葉が、風も無いのに一斉に揺れ始めた。

 それを合図に、蔓がきしみ屋敷を万力のように締め上げる。

 ぎりっ、ぎりっ……。

 屋根がたわんで、瓦が宙に舞う。と、同時に柱の折れる鈍い音が辺りに響いた。

 中からくぐもった悲鳴が聞こえる。が、それはびっしりと貼り付いた葉と蔓によって外界から遮断され、外にはかすかな音しか漏れなかった。

 屋敷は、緑に編まれた獄に容赦なく締め付けられ、元の形が想像できないほどに姿を変えていく。

 すると地中から蔓よりも少し細い管のような物が次々に飛び出してきた。白い管は蔓が崩壊させた屋敷の隙間に入り込み、脈打つように屋敷の中から何かを吸い上げて行く。

 しばらくして、屋根の上にななめに絞って閉じた西洋傘のような物が出現した。

 そして、それはゆっくりと絞りを解き始める。

 はおおおおん。

 泣き声とも、咆哮(ほうこう)ともつかぬ音があたりに響きわたる。

 薄い月光に照らされて、夜空に漏斗型の輪郭が金色に浮かび上がった。




「御家老様っ、大変です」

 忠助が瓦版を手に、美行(みくだり)藩邸内にしつらえらえた左内の居室に駆け込んでくる。

「これで、立て続けに2件か」

 町中で配られているという瓦版を手にして、左内は溜息をついた。

「なんと面妖な、この世に物の怪などいないと思っていたが……」

 ちらりと後ろを振り返って右京に聞こえるように呟いた左内だが、当の右京はわれ関せずとばかり、左内がもらった干菓子を頬張っている。

 左内は、読んでいた瓦版を相手の鼻先に突き出した。

 瓦版には、無残に瓦礫の山になった大名屋敷が描かれている。

「お気の毒な事だ。不幸中の幸いで大岡忠喜(ただよし)様の御一家は下屋敷に行かれており不在だったようだが、上屋敷は勤番長屋に至るまでことごとく粉砕され、側室や御家中の武士達は皆この異変に巻き込まれたらしい。しかし解せないのは、なぜこのような事件が立て続けに起こるか……」

「つむじ風かなんかじゃないのか」

 右京は瓦版を一瞥してさっさと傍らに置くと、干菓子が載っていた懐紙を掲げ持ち、口に中に懐紙の上に残った砂糖を注ぎ入れる。

「解せないのは、2件とも瓦解(がかい)した屋敷の中から発見された御遺体はまるで木乃伊(みいら)のようにすべて干からびていたことだ。つむじ風ならこのような怪異は起こらないだろう」

「最近、暑いからな」

「馬鹿、人間が干からびるほど暑くは無い」

 左内は右京を睨みつける。右京はどうもこの面倒事に関わりたくはないらしい。

 こいつは、菓子を食べる時にはすり寄ってくるが、菓子の切れ目が縁の切れ目とばかりに、菓子が無くなってからは手のひらを返したようなつっけんどんな態度をとる。

 さて、と立ち上がる右京の襟首をはっしと掴み、左内は無理やり畳の上に坐らせた。

「実は気になることがあるのだ」

 左内は昨日尾根角(おねずみ)兄弟が持って来た瓦版を懐から引っ張り出す。

「一昨日犠牲になったのは、元郡上(ぐじょう)藩主、金森頼錦(よりかね)殿の御子息がおられる御屋敷だ」

 聞いているのかいないのか、右京は懐から飴玉を取り出して舐めながらぼんやりと庭の方を向いている。こんな反応には慣れている左内は、意に介さず話をすすめた。

「頼錦殿は、一時将軍の近くでお仕えする奏者番(そうじゃばん)を務められたほどの有能な方であったが、何分華やかな職にはそれなりの散財も必要、強硬に国元の税率を引き上げてしまわれた。それに反発して農民が12年前に、大きな一揆をおこす、これが世に有名な郡上一揆だ。その後4年にわたって続いた一揆は先の将軍の知るところとなって、異例とも言える百姓一揆に対する幕府評定所(ひょうじょうしょ)詮議(せんぎ)が行われた。結局頼錦殿に不行き届きがあったということで詮議の結果身分を剥奪され、領地を没収されたのだが、その詮議に活躍したのが、他ならぬ田沼意次だ」

「はあ」

「はあ、じゃないだろう、意次が関係しているんだぞ」

「単なる偶然かもしれないじゃないか、壱から十まであいつが悪いってことは無いだろう。百姓一揆の原因を作るほうも罪を問われて然るべしだ。それに第一、もう金森殿の息子は改易されて力も無くなっているわけだし」

「田沼意次はあの詮議の捌きが素晴らしいという事で、この一件以来台頭してきたわけだが、あの時処分されたのは金森殿だけではなく、幕府の要職にある老中や若年寄までもが責任を問われ罷免されている。いずれも、先進的な意次とは政治理念を異にする者達で、政争に負けたと言っても良いだろう。しかし、12年後の今、その子息たちが水面下で反意次勢力を形成しようかと動いているらしい」

「で、昨日、屋敷が木端微塵になった大岡殿もそうなのか?」

 なんだ、こいつ瓦版を見てない様で見ているではないか。

 左内は右京をちらりと見るが、相手はごろりと寝転がってそ知らぬ顔で瓦版で顔に風を送っている。

「大岡忠喜殿のお父上は大岡忠光(ただみつ)殿、6年前に亡くなられたが先代の家重様の御側御用人(おそばごようにん)として田沼意次と覇を競い合った方だ。もちろん御存命中は意次との仲は悪く、息子の忠喜殿も現在反田沼勢力の一員だ」

「ふうん、それで」

「それで、じゃないだろう。被害に遭われたのはみな田沼意次に敵対している方々だ」

 左内はそう言いながら、大小の刀を腰に差すと立ち上がった。

「行くぞ」

「行くって?」

 寝転がったまま、顔だけ左内の方を向けて右京は尋ねる。

 左内はその背中をつま先で小突いた。

「次に狙われているのは、我が屋敷かもしれん。この事件を調べに行くぞ」

 右京の襟首を掴み、なかば引きずるようにして左内は居室を後にした。




 岩槻藩江戸藩邸の周りには物見高い江戸っ子たちが群れている。大きな屋敷が一夜にして瓦礫の山になったと聞けば、これは見ないではいられないと思うのは無理もない。中には互いに肩車をして覗き込もうとするもの、中には梯子を持って来てよじ登るものまで出る始末。奉行所の役人がいくら追い払っても、その喧騒は収まることがなかった。

 その群集の中に、左内と右京も居る。

「こりゃ、無理だぞ。帰ろう」

 面倒くさいことが嫌いな右京が首を振る。

 左内は待て、とばかりに右京を制すると、人波を掻き分け進み始めた。

「見たんだよ」

 左内の向かう先に、人々の中に声高に話す男がいる。

「まるで、2間(約3.6m)はあろうかって大きな丸いもんが、屋根の上に……」

 その男は、大きく手を広げて見せた。

「その話、もっと聞かせてくれ」

 左内は男の手首を掴むと、喧騒から離れた場所に歩を進めた。

 慌てて右京も二人の後を追う。

 屋敷から離れた人気(ひとけ)のない路地裏で、左内は男に尋ねる。

「そのほう、何処でそれを見たのだ」

「へえ……」

 先程まで無料(ただ)で話していたくせに、金の匂いがしたとたん男は黙りこくってしまった。左内を値踏みするかのように、上目づかいで見つめている。

 左内は黙って財布の中から豆板銀(まめいたぎん)を取り出し、男の手に握らせた。

「あっしは向いの屋敷に奉公しているもんですがね、昨日はえらく犬の声がうるさくて目をさましたんでさあ。月も綺麗なもんだから、つい庭に出て眺めるともなく外を見ていたら、御向かいの屋敷の方から地を這うようなみしみしという音が聞こえて来て、いつもはあちらの御屋敷なんぞ見えないんですが、急に屋敷が小山のように盛り上がってきて」

 男は、そこで言葉を止めて、肩をすくめる。

「あんな禍々しいもん、思い出したくもねえ」

 左内は、財布の中から豆板銀を取り出し男に与える。

 男は何事もなかったかのように話し始めた。

「月明かりの中、2間くらいの大きな丸いもんが吠えてるんでさあ。低い声で。あっしはなんだか見ちゃいけないもんを見たような気がして、これは夢だと自分に言い聞かせながら早々に布団にもぐりこんじまったって訳で」

「大きな丸い物? それは獣か?」

「月は出てましたが、何分暗くて丸い輪郭しか良くわかりませんでしたよ。あんな化け物見たことねえ、怖くってさっさと逃げちまいました」

「そうか……、時間をとってすまなかった」

 左内がその場を離れようとしたその時。

「お待ちください、お武家様」

 左内が振り向くと、男は意味ありげににやりと笑った。

「どうした?」

「翌朝、早めに起きて隣の御屋敷を確かめに行ったんでさあ、そこで……」

 男は懐に手をやった。

「場合によっちゃあ差し上げてもいいんだが、少々値がはりますぜ」

 武家にしてはみすぼらしく見えたが、話が分かる奴だと踏んだのだろう、男が交渉を仕掛けてくる。今度は銀の欠片くらいじゃ手の内を明かしませんぜ、とばかりに男は左内の方をじっ、と見つめた。

 左内は黙って先ほどより大きな銀の塊を、開いている男の左手に押し付けた。

 騙されているのかもしれないが、ここは少しでも情報が欲しい所だ。

 男が懐からゆっくりと右手を出す。

 開かれた掌には、数粒の黒い種が載っていた。

「道にこれが散らばっていたんでさあ」

「こ、これは」

 園芸好きの左内にはおなじみの形。

 左内は傍らの右京を振り返った。右京も同じ考えだとばかりに首を縦に振る。

「朝顔の種……」

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