その22
「む、無念……」
意識はあるようだが、左内の身体はピクリとも動かない。
倒れ伏した家老をちらりと見ると、殿は溜息をついてお麗に向き直った。
「お麗……、お前は自分を嫌いか?」
そう言いながら殿は毒天女をまっすぐに見据える。
思いがけない言葉に、はっと身を固くするお麗。
「お前のその美しさは、哀しい闇あってこその美しさ。お前には辛い人生だったかもしれないが、それは切り捨てていいものではない」
お麗の細い目が驚いたように丸くなる。
「すべての辛い経験が、今のお前となっている。過去を忌むな。わしの腕の中で甘く燃えていたお前は、悪い女ではなかったぞ」
「ええい、うるさい」
投げかけられる言葉に顔を背け、煙を上げる藁を殿の顔に向けるお麗。
「わしはお前のすべてが愛おしいのだ、お麗」
自分を陥れた娘に、殿は優しいまなざしを向ける。
その時。
ひとひらの雪を思わせる欠片が、お麗の目の前に降って、すぐに消えた。
「嘘をつけ、私のような汚れた女など……」
「だから言うとるであろうっ。哀しみを内に秘めたお前が好きなんじゃ。ふあああああっ」
ひとつ大きな欠伸をすると、半眼になった殿が膝から崩れ落ちるように倒れ込む。
お麗の視界の中には、右京ただ一人が映っていた。
「右京、とやら。お前にはなんの恨みも無いが、悪い仲間を持ったのが運の尽き。田沼様の下で、一生日の目を見ずに下僕として仕えるがいい」
お麗が煙の出る藁束を大きく振るが、右京には何の変化も起きない。
「え? 興味なんてないんだが……、私が聞くのか?」
右京はなにやらぶつぶつと独り言を呟きながら困ったようにお麗を見ている。
「お前、もしや薬が効かないのか……」
「私は毒を試しすぎて、もはやその程度の薬では効かないのだ」
「ふうん、特別に解毒剤を飲んでいるこの侍たちと同じでこの系統の睡眠薬の煙には耐性があるんだね。ま、左内も殿も寝ている今、お前一人を生け捕りにするなんざ朝飯前だよ」
お麗は後ろに控える侍を振り向いた。
「こいつを縛り上げちまいな」
「おいおい、もう勝敗は決まっているんだし、ちょっと待った待った」
慌てて右京が口を開く。
「なあ、お麗。私は男女の仲には疎いのだが、お前らのところに連れて行かれれば一生女とは縁のない生活だろう。後学のために聞かせてくれ。殿との夜はそんなに良かったのか」
お麗は緊張を崩さないまま、うなずいた。
「殿はどんなふうにお前を抱いたのだ」
「あの人は、優しかったね。娼婦ではなく、対等の女として扱ってくれたよ。包むようにそっと抱きしめて口づけをしてくれる、でもその最中にも殿の長い指はまるで忍び込むように……」
お麗はちらりと左内の方を見る。そして頬を上気しながらまるで自慢するかのように微に入り細に入り話し始めた。
後ろに居並ぶ侍たちが、思わず喉仏をごくりと動かすほどの臨場感。目の前に極上の肢体を持つ美女が居て生々しい艶話をしているのだから、それは無理もないと言うものだろう。
「あたしも震えが止まらなくなって……、そうなると、もうだめだね。声を上げても、身じろぎをしても、もう頭の芯が白くなるまで許してはもらえないのさ」
お麗は滔々と話し続ける。
その時。
ひら、ひら、ひら、ひら……。
空中から無数の雪が舞い降り始めた。
しかし、それは良く見ると、
「な、何だい?」
お麗の着物にはらりと落ちた桜の花びらにも似た炎は、たちまち身体に巻き付くかのように、うねりながら燃え上がった。
ざくり。
「お、奥方様……」
おけいは唖然として奥方様の方を見上げる。
奥方様は、いきなり懐剣を引き抜くと畳に突き刺したのである。
頭に椀型の脳波刺激装置を被った奥方様の様子がおかしい。
「奥方様、お気を確かにっ」
しかし返答は無く、奥方様の全身から白い炎が吹き出し、全身を包んで行った。
「殿、他の女に身体は許しても、心は私の元にあると言ってくださったのは偽りだったのですか」
奥方様の目は吊り上り、白目は赤く、そして黒目は金色に輝いている。
髪の毛を結い上げていた櫛や笄 はあたりに飛び散り、自由になった髪の毛はヘルメットの下から這い出て奥方様の顔を中心にまるで触手をのばすかのように広がっていた。
「お、奥方様が発動した……」
おけいは嘴をぽかんと開けて、源氏物語の六条御息所も真っ青の変身を遂げた奥方様を見つめる。
「あちちっ」
そっと奥方様に触れた鶏は、全身に揺らめく炎の熱さに飛び下がった。
「ふんぬうううううっ」
奥方様は両足でたたらを踏む、と同時に身体を包む炎から激しい火花が散る。
本人は元気に燃え上がっているので、この炎は人体に危害を及ぼすものではなさそうだが、火に焼かれる感覚は現実的である。
焼き鳥になるとはこういう事か、とおけいは身震いした。
「ちょっと、やりすぎたかしら」
鶏は奥方様の嫉妬を引き出し興奮させるために、右京を盛大に煽ったことを後悔し始めていた。
熱いのだろうか、お麗は白い炎に執拗に絡みつかれて身体を折り曲げて苦しがっている。
彼女の背後の侍たちも、いつの間にか炎に包まれて悶絶しながら畳を転げまわっていた。
「奥方様、脳刺激装置の能力以上の力です。あなた様の脳はすばらしい」
右京は意識を失って倒れているお麗の元に近寄ると、その手から薬の染み込んだ藁束を取り上げる。その上に手近の屏風を倒して足で踏みつける。じゅう、という音とともに立ち上っていた煙が止まった。
右京が室内を見回すと、暴れまわっていた白い炎がいつしか跡形も無く消え去っている。
どうやら暴走していた奥方の気持ちが落ち着いたらしい。
「もう、いい頃かな」
右京が指笛を吹くと、三羽の鷹が滑るように室内に入ってきた。
「待ってました、暴れるぜっ」
舞鷹が戦う気満々で室内を旋回するが、すでにそこには失神して倒れた侍が積み重なっているばかり。
「えーーっ、つまらないっ」
貴鷹が室内の適当な調度に留まって声を上げる。
「まてまて、お前達を呼んだのは戦うためではない。このよれよれの左内をどうにかして運んでもらうためだ。で、こちらは起こすか」
右京は懐から瓶に入った液体を取り出す。
「この薬の解毒には、多分これでよいはずだ」
殿の鼻に数摘入れると、殿の目がぱっちりと開いた。
「おお、片付いたか。ごくろうごくろう」
復活した殿があたりを見回す。
ふと殿の視線が、一点に留まった。
そこには乱れた着物から半分胸をあらわにして仰向けに倒れているお麗がいた。
「おお、お麗ではないか。ちょうど良い、迷惑料代わりに我が藩邸に連れて帰ろう」
殿がにんまりと好色な笑みを浮かべた、瞬間。
ぶわっ。
部屋中が白く燃え上がった。
「平吉どん、暑いねえ。一休みしようかい」
田んぼの雑草を抜きながら、妻のおはなが話しかける。
「ああ、頭がくらくらしそうだ。雨のひとつもパラついてくれれば丁度いいって感じだな」
「あたいはいっそ天から雪が降ってきて欲しいよ」
おはなは雲一つない青空を見上げた。
次の瞬間、眼が丸くなる。
天空一面を覆い尽くすように、いきなり白い雪が降ってきたのである。
「あんれ、太陽がかんかん照りなのに、雪だ、雪だよ、あんた」
しかし、その歓声は、すぐさま悲鳴に変わった。
長閑な田園では、人々が逃げ惑い。
賑わいを見せる街並みでは、半鐘が鳴り響き。
江戸城では火消が駆け付け、幕閣が呼び集められるという大騒動……。
「右京、とめろ、止めてくれっ。あぢぢぢぢぢっ」
炎に巻かれて殿が転げまわる。
「お、奥方様がまた暴走したようです。止まりませんっ」
右京も尻に火を付けて走り回る。
「な、なんと。これは奥方の仕業か」
「というか殿の自業自得です」
右京の目には逃げ惑う鶏と飛び散る火花が映っている。
「大変です。お江戸中、炎が吹雪のように」
室外の様子を見に行った美鷹が慌てて舞い戻る。
「奥方よ、悪かった、わしが悪かった。すまん、すまんっ、すみません。わしが真に愛しているのはお前だけだっ」
殿の悲鳴が毒草屋敷に響き渡る。
はた迷惑な炎の雪は、その後半刻ほど江戸中に降り続いた。
この天変地異を報じた瓦版でお江戸中が埋め尽くされた事を、昏倒していた左内が知らなかったのは、せめてもの幸いだったのであろうか。
「いたたっ、もう少し丁寧にできないのか、右京っ」
数日後、美行藩、江戸藩邸の左内の自室。
布団の上に横になった左内は、右京に背中の傷の手当てを受けている。
「我慢しろ、お前が金が無いって泣きつくから、特別に無料で治療をしてやっているんじゃないか」
やる気がなさそうに、傷の上に塩水をかけて洗うと油紙を乗せる。
御世辞にも丁寧とは言い難い仕事だ。
「ちゃんと藩医らしい治療はしないのかい。塩水で洗うだけでいいんなら、別にあんたじゃなくてもあたしだってできるよ」
横に鎮座しているおけいが嘴を尖らかす。
「馬鹿を言え、変に刺激の多い消毒薬を付けるより塩水で洗ったくらいの方が治りが良いんだ」
すまして手を洗いながら右京が、首を振った。
「第一、泥の中の乱闘でその傷は結構汚れているかと思っていたけど泥が付いたと思われる汚い部分がしっかり切除されていたし、縫い目も綺麗だったから、こちらとしては何もすることが無いんだ」
「縫われていた?」
驚いて左内は体を起こす。
「ああ、気が付かなかったのか。下手したらばい菌が入って命を落としかねん傷だったろうが、最初の治療が良かったんだろう、きっときれいに治るぞこの傷跡は」
「治療? 誰が」
お前は馬鹿か、という風に右京が眉をひそめて左内の方を向く。
「あの毒女しかおらんだろう」
「しかし、お麗は私を拷問にかけた……」
「そりゃ、敵が周りにいるんだから痛みを取って治療をするわけにはいかんだろう。苦しがってもらわないと、相手の疑念を呼ぶだけさ」
左内の記憶の中に、あの台の上での光景が蘇る。そういえば、お麗は何か痛いことをする場面では、必ず声をかけていた。『覚悟おし』などという嫐り言葉ではあったが。
「腫れもないし、膿も出ていない。これはばい菌が巣食っているような傷じゃないな。どこかでばい菌を殺す薬を飲まされていないか?」
「いや、そんな覚えは……」
否定しようとして、左内は言葉を止めた。
そういえば夢うつつの中、冷たい陶器のような感触が何度も自分の唇に触れた。
そして……。
「飲んだ、かもしれない」
身体がうそのように楽になったのも、一旦失っていた意識を回復した後だった。
「実は毒天女、お前を救おうとしていたんじゃないのか」
右京がぽつりとつぶやく。
『なんでこの侍たちが倒れているかわかっているのか』
源三の言葉が今更のように左内の脳裏に蘇えった。
確かに、左内を眠らせるために使うのなら、侍たちが耐性を持っている眠り薬を使えば良かった。しかし、あの時彼女が燻していた薬は逆で、侍たちは倒れたのに左内には効かなかった。
もしかすると、解毒剤をあらかじめ飲まされていたのかもしれない。
見張りを眠らせて、自分を逃がすために。
『左内様は、左内様だった……』
あの時、お麗がはらはらと流した真珠のような涙。
「もしかして、殿をわざと中毒にして我が藩に返したのも、我々に迫っている危機を知らしめるためだったかもしれないな」
「殿を害するためじゃなくて……か」
左内はがくりと両手を畳に付いた。
「私は、鈍感だ。どうしようもないうつけ者だ。助けてもらったのも知らず、お麗を罵り、そして貶めた」
源三を害した自分に向けられたお麗が自分に向けた憎悪の瞳。
「とんでもないことをしてしまった。ああ、どう償えばよいのか」
愕然とする左内。
「おい、教えてくれ。私はどうすればいいのだ」
「後悔しても仕方ないだろう。きっとお前とお麗はそんな運命のめぐりあわせなのさ」
左内が両手で右京の肩を掴んで、揺さぶる。
右京は、もう何も言うことが無いとばかりに口をへの字に曲げ、ただ揺さぶられるままになっていた。
そんな左内をじっ、と見つめる二つの目。
「負い目を愛に錯覚する、なんていう事にならなきゃいいけど……」
傍らに座ったおけいは、心配そうにつぶやいた。
「だから、誰が許可したんだっ。この催しをっ」
青筋を立てて叫ぶのは、昨日晴れて床上げとなった御家老様である。
「いいじゃないか、あの事件以降、田沼意次がいつ何時どこから狙って来るかもわからず、みんな不要不急の外出を禁じられて鬱積がたまっているんだ」
「し、しかしっ」
目を血走らせて叫ぶ御家老様の肩を叩いて、右京がそっと障子を開ける。
そこには美行藩に仕える男性、侍から下々のものまでがぎっしりと、たいして広くない部屋に詰め込まれていた。
障子の隙間からはムンムンとした熱気が漂い出て、左内は思わず顔を背ける。
「見てください、御家老様。もう木戸銭がこんなに」
尾根角兄弟がうれしそうに、じゃらじゃら言わせながら木箱を抱えてきた。が、左内の厳しい目つきをみるとあわてて踵を返して逃げていく。
「収益は我が藩の台所を潤すし、藩士のうっぷんも解消。一石二鳥の美味しい思いつきだと思うがな」
「いったい、誰がこのようなことを……」
左内は叫んでから、はっ、と息を飲んだ。
「もしかして」
「ああ、我が藩の誇る花形役者様の思いつきだ」
と、殿……。頭を抱える左内。
「皆さま、長らくお待たせいたしました。十日に一度のお楽しみ、淫ら動き絵の時間がやってまいりました。今宵はいずこの美姫か、小町娘か……」
いきなり響いて来た声に左内が障子から覗き込むと、キラキラの羽織袴を着込んだ忠助と忠太郎が人々の前に出て呼びかけている。
うっおおおおおおおおおっ。
人々の叫びが安普請の屋敷を大きく揺るがし、左内は柱にしがみ付いた。
「今日の演目は、花魁十六夜の乱れ咲き。場所は三浦屋、殿と桔梗太夫との恋の一戦はこれいかにっ」
部屋の正面に掲げられた大きな黒い板にいきなり映し出される濃厚な濡れ場。左内は反射的に鼻を押さえる。
「画面が鮮明になったろう、改良した脳刺激記憶再生装置だ」
後ろから得意げな右京の声がする。
口をぱくぱくして画面を指さす左内、取り乱していて声にならないらしい。
「安心しろ、花魁たちは宣伝になると言って喜んで格安で協力してくれている。なあに心配ない、殿の記憶なので殿の御姿は直接映ることは無いから心配するな」
右京は楽しげに画面を見つめる。
「煽情的すぎだっ」
局部が映りそうになって、逆上した左内が叫ぶ。しかし幸いにもそれは杞憂で、何かもじゃもじゃした画面の汚れで危ない部分はぼやかされていた。
「ほうら、大切な所は藻細工をかけているから大丈夫だ」
「馬鹿、またお前達はお江戸を炎の海にしたいのか」
左内は右京の胸倉を掴み上げる。
「え? 奥方様も先日の一件をいたく反省され、もう少し寛大な心を持たないと、とばかり今回の催しを推奨していらっしゃるのだ」
「ほほほ、その通りです左内」
がばっ、と後ろを振り向くとそこには、
「お、奥方さ……」
唇に指を当て、左内に微笑む若衆姿の奥方様。
「いやしくも主君の妻ともなれば、これくらいの事で心を揺るがすなどということは羞恥の極み。それよりも、殿を夢中にさせるために最新の手技を学ばねば。さ、行きますよ、おけい」
鶏を従えて、意気揚々と部屋に紛れる奥方様。
全身から力が抜けた左内は、がっくりと柱にもたれかかる。
ああ、女心はわからない。
彼は大きく溜息を付いた。
お江戸に炎の雪が降る編はこれで完結、お付き合いいただきありがとうございました。次回はコメディ色一切なしのシリアス一直線の短編予定。10月あたりに書ければいいなあ。(ギャグを入れずに書けるのか、書けるのか、自分)