その17
「こんな昼間から討ち入りとは……」
殿の居室で支度を手伝いながら、忠太郎が大きな溜息をつく。
いつもは弟のやる気の無い発言を咎める兄の忠助も、不安なのか上目づかいで殿を見上げているだけである。
「お前達何を物騒なことを言っておるか、大石内蔵助ではないのだぞ。なあに、ちょいとヤキを入れに行くだけだ」
戦いに行く、というのに殿は流水柄の入った青苔色の着流しに深い光沢のある孔雀碧の羽織といった緊張感の欠片も無い装い。まるで、今からひと遊びといった風情である。
勝算は……、いやそれ以前に戦う気があるんだろうか。
だいだい脇に刺された立派な鞘の中身は錆びだらけの役立たずであることをお小姓である二人は良く知っている。
「あの青二才には負けておれんからな……」
鼻息も荒く殿は傍らの手鏡に顔を擦り付けるようにして鬢を撫でつけた。
「青二才?」
怪訝な顔をして忠助が殿を見上げる。
「おお、お麗はわしが最初に目を付けた女だ。あんな小股の切れ上がったいい女初心者の左内には百年早い、火傷して寝込むのがオチじゃ。お麗にわしの雄姿を見せて惚れ直させてやる」
殿は妙に左内に敵愾心を燃やしている。いつも浮気は遊びと割り切っている殿にしては珍しい。むざむざ毒草を食べさせられたり、今回ばかりはどうも殿はお麗の手中にはまってしまっているようだ。
「わしの武器は武芸十八般ではなくて色気十八般じゃ。この必殺の笑顔の前に女どもは死屍累々。ふははははははっ、待っていろよお麗」
殿は手鏡のなかの自分に口づけせんばかりに顔を寄せて、様々な表情を作っては満足そうにうなずいている。
「大丈夫なのかなあ」
尾根角兄弟はそっと顔を見合わせた。
蝉しぐれの中、藩邸の左内の部屋の中央に、右京はもう半時(1時間)も微動だにせず坐っている。
固く結ばれた唇、閉じられた目、そして規則正しい呼吸……。
「何、寝てんだよっ」
廊下から助走をつけて駆け込んできた鶏が、右京の頭に鋭い飛び蹴りをかました。
不意をつかれて、部屋の隅っこに吹っ飛ぶ右京。
「な、何をする」
「どうせお前の事だ、いい考えが浮かばずにさっさとあきらめて逃避していたんだろう。左内様があちらに残されているっていうのに、なんて体たらくだい。許さないよっ」
図星をさされたのか、右京は頬を膨らませて顔を赤くするのみで二の句が継げない。
「ほら、奥方様から菓子の差し入れだ」
「奥方様から……」
鶏が、身体を振ると羽の間から数個の大きな丸い飴玉が落ちた。
おけいはそれを右京に向けて蹴り始める。
さすが食べ物に対しては素早い反応を見せ、先ほどまで眠そうにしていた目をかっ、とばかりに開き、右京は飛んで来た飴玉をつぎつぎに口に放り込む。
頬に詰め込んだ様子はまるで冬籠り前のリスである。
「音沙汰が無いので、上手く行っているか奥方様が心配しておいでだよ」
糖分が頭にまわり、やっと目覚めた右京におけいが話しかける。
「私は軍師ではない、どうやって敵方を攻めるか決まってないのになんとかしろと言われても、何を発明していいかわかるものか」
右京は肩をすくめる。
「それに私のこの崇高な頭脳は、人を傷つける目的の発明は生まれないのだ……」
「でも、あの唯我独尊の殿のこと、自分が標的にした女性じゃない限り、相手をうまく懐柔するなんて芸当はできっこないよ。相手を怒らせでもしたら下手をすると左内様が殺されてしまうかもしれないんだよ、いいのかい」
「って言われてもなあ、武器は思いつけないのだ」
口先を尖らしてそっぽを向く。左内の事だけに何とかしたいとは思っているのだろうが、うまい考えが浮かんでこないので彼も苛立っているようだ。
「ほれ、いつものあんたの人騒がせな発明のように、あんたは武器のつもりで作らなくても、使いようによっては周りに甚大な損害を与えるような何かは無いのかい」
「そうか、それもそうだな」
右京はおけいの言葉に何かを思いついたのか、腕組みをして口をへの字に曲げる。
その黒目が徐々に金色に光り始めた。
頼りなくさまよっていた視線はこれ以上無いくらい左斜め上に張り付き、白目は盛り上がった血管で紅に染まっている。
「やった、クレージー右京が発動した」
おけいは安堵のため息をついた。
しばらくして、右京がすっくと立ち上った。
「何かいい考えが浮かんだのかい」
「これが上手く行くかどうかは、すべて奥方様にかかっている……」
部屋の隅に転がっていた椀型の脳刺激記憶再現装置を小脇に抱え、右京は足早に廊下を進んで行った。
部屋中がガタガタと揺れる音で左内は目を覚ました。どうやら外からこの部屋を打ち破ろうとして壁を叩いているらしい。ただ、ここは緊急に逃げ込むためにしつらえられた部屋らしく相当に頑丈にできているのだろう、音の割には壁はびくともしていないように感じられた。
左内は膜をかぶったような頭を数回振って、あたりを見回す。
どのくらい寝ていたのだろうか、身体を動かそうとすると全身が鉛のように重く、感じられる。
あのお麗とかいう女は一体なんなのだ。人とも思えぬような残虐なことを平気で行う割には、転倒しそうな時に肩を貸してくれたり。しかし、それで優しいかと思うと源三に嘘偽りを吹き込み自分をここに追い込んだり。
一つ言えることは、あの女は殿を罠にはめて毒を飲ませたという事だ。
主君に危害を加える者は、本人がどのような者であれ左内にとって憎むべき敵である。次に会う時は、この命をかけてでも成敗しなければならない。
左内は、ふと昏睡していた時に唇に感じた冷たい感覚を思い出した。
あれは何だったのだろうか。
理性を失わせ尋問するために阿芙蓉(阿片)でも飲まされたのか。
あまりにも思うままにされたことに憤りを感じ、左内は身を震わせた。
「何とかここを切り抜けねば」
左内は大きく息を吸って、気持ちを鼓舞する呪文を小声で唱え始めた。
「借金、利息、お家断絶。借金、利息、お家断絶、借金……」
「わ、私がですか……」
渡された椀を両手で抱え、奥方様は困惑した表情で右京とおけいを見つめる。
「先ほど、奥方様はこの脳刺激記憶再生装置で映像をご覧になった時近くの物を浮遊させておられました。おそらくこの装置はあなた様には特に適合が良く、脳を刺激して人外の力を引き出したものを考えます」
「でも、私が意図して何かした訳では……」
「私の知る限りこのような現象を起こせたのは奥方様ただ一人。無意識のうちに起こったこの怪異、その力を制御できればすごいことになります」
「ということは……」
奥方様はごくりと生唾を飲む。
「ええ」
右京は奥方様の目を見てうなづく。
「またあの画像を見ていただきます」
「二度目であれだけ興奮できるかしら……」
目を真ん丸にして、奥方様は小首を傾げた。
「相手の刀ごと敵をすべて舞い上げるくらいに、強い力を出していただきたい……」
「と、急に言われても」
困惑を隠せない表情で、奥方様は脳刺激記憶再生装置を頭にかぶった。
正午も過ぎたころ、美行藩邸に一人の小柄な男が訪れた。油断ない足運びで周囲を見回すその顔には、うっすらだが額から顎にかけて刀傷が走っていた。
若干猫背のその初老の男は、門番に何かを告げる。あらかじめ、何か言い含められていたのだろう、門番は慌てて中の藩士に声をかけた。
「殿、殿っ、敵から使者が参りましてございますっ」
忠助が天晴公の居室に駆け込んできた。
「その使者はどうした……」
「門のところで言いたいことだけ言うと帰ってしまったようですが、今、美鷹が追跡しています」
「で、敵は……」
「殿と右京様だけであの屋敷に来いと」
「わしら二人か」
殿は腕組みをして、天を見上げた。
腕には全く覚えのない殿である。右京と二人で行くということはむざむざ殺されに行くに等しい。
「替え玉を御用意……」
「必要ない」
殿は、目を閉じた。
「藩士の一人くらい救えないでどうする。わしには武芸の腕は無いが……」
殿はにやりと笑った。
「この世の女どもを虜にする、天からの恩寵というべき魅力があるのだ。なにしろ色気十八般免許皆伝だからなあ」
この状況でそれが何の役に……、忠助は言葉を飲み込んだ。