その5
消火は夜半までかかった。
煤けた顔の左内と右京は黙りこくって燃え残りを集めた焚火で暖を取っている。春は間近とはいえ、夜風はまだ冷たい。藩士たちも、元自分達の居室であったはずの黒焦げの地面に呆然と座りこんでいる。
幸いにも周囲への延焼は無かった。神田川に面した立地と、ドリアンに放水していた給水システムの一部が残っていたため迅速な水の供給ができたことがその大きな要因であろう。
もちろん火災を知って慌てて帰ってきた藩士たちの献身的な消火活動も、特筆すべきである。まるで、普段惰眠をむさぼっている後ろめたさを一気に解消するかのようなその目覚ましい活躍もあって、町火消しが駆け付けて来るまでに火はあらかた消し止められていた。大きな爆発の割には周囲への広がりが少なかったのは、安普請の藩邸が早々に燃え落ちてしまったためであろう。
「ま、いいじゃないか、左内。これで将軍にドリアンを持参できない言い訳になる」
「甘い」
地の底を這うような声。焚火を見つめながら左内が大きく首を振る。
「何年か前、紅毛達が宿泊する長崎屋が火災にあったことがある。その時長崎屋の人々は、まず献上品を一番に避難させたそうだ。そのために自分達の家財は一切持ち出すことができなかったという。町人ですらそうなのだ、ましてや武家が火事ごときで献上品を失いましたなどという言い訳は許されるものではない」
ふん、と右京が鼻を鳴らす。この男は身分や武家の建前など、鼻からバカにしきっている。
左内はじっ、と坐ったまま目の前の炎を見つめていた。彼の目の中にオレンジ色の光が揺らめくも、その目はどんよりと輝きを失っている。
「もう一息だったんだがな。ちょっと危険域と有効域の間が狭すぎた。ま、実験に失敗は付き物」
幼馴染の真剣な表情にさすがにまずいと思ったのか、右京が肩をたたく。
「次は必ず成功させて見せるさ」
「明日中にできるか?」
右京の方に顔を向ける、左内の目に色が戻ってきた。
「何とかなるだろう。ただ……」
焚火に無造作に木切れを放り込む右京。藩邸の残骸はぱちぱちと軽い音を立てて炎の中に消えていく。
彼は言い出しにくそうにちらりと傍らの左内を横目で見た。
「困ったことが一つ……」
「なんだ、それは」
左内の眉間に皺が寄る。やつれた顔に落ちくぼんだ目をギラギラさせて、せっかくの美男子が台無しである。
「実はドリアンの種が無いんだよ。予備に小屋に置いておいたものはすべて焼失してしまった。時間を進ませることはできるが、元が無いことにはな」
ああ、万事休す。左内は目の前が真っ暗になるのを感じた。期待しただけにこの衝撃は半端が無い。
「おい、しっかりしろ。誰か、コイツを何とかしろ」
右京が叫ぶ。慌てて飛び出してきた藩士たちが焚火の横に倒れ込む御家老様を急ごしらえの小屋に運び込んだ。
藩士たちが小屋の中に姿を消した時。
「ちょいと、ちょいと先生」
仇っぽい声が焼け跡の残骸の中から、右京を呼んだ。
振り向いた彼が見たものは、汚れた羽を繕いながらよろよろと出てきたふわふわした生き物。すなわち美行藩が飼っている雌鶏であった。
「なんだ、おけいか」
「冗談じゃない、危うく焼け死ぬとこだったよ。いくら殿様の懐が寒々しいからって、藩邸焼いて温めるこたあないじゃないか。それともこれは何かい、断末魔の藩の送り火かい」
藩邸で飼われている鶏の中で唯一食べられていないのは、彼女がそこいらの藩士たちより高い知性を持っているからに他ならないのだか、その高い知性から繰り出される辛辣な嫌味は時として藩士の怒髪を天に突き刺さらせるのであった。
鶏になじられて、さすがの鉄面皮の頬もぴくぴくと動く。
「ね、先生。匿っておくれよ。さっきから藩士たちの視線が怖いんだよ。あいつらまるであたしを焼き鳥にしたいってようなギラギラした目で見てさ」
キュルルルルー、右京の腹が鳴る。彼も人の子、実験が終わって我に返った後は空腹も感じるようになる。おけいを前にして彼は激しい食欲を感じていた。何しろ、昼に茶菓子を食べて以来ほぼ何も口にしていないのだ。
鶏と天才科学者はじーっと見つめあった。
次の瞬間。
「な、なにすんのさ~~」
いきなり抱えあげられて、鶏は羽をはばたかせ、足をばたつかせる。
「ええい、この減らず口の畜生め、焼き鳥にして鋭気を養ってやるっ」
「あんたがあたしをこんな体にしたんだよっ」
「人聞きの悪いことを言うなっ」
「あたしに知性を付けたのはあんたじゃないか、責任とってよ、責任」
すわ痴話げんかか、と疲れているにも関わらず物見高い藩士たちが小屋から出てきて右京の方に視線を向ける。
「ち、違うんだ、コイツだ、コイツ。例のアホウドリだ、ぎゃっ」
右京の手を嘴で刺し、鶏が地上に飛び降りた。
「右京様、食いましょうよ。いくら賢いと言っても、コイツは食べ物なんです。食べ物」
わらわらと腹を空かせた藩士たちが掘立小屋から湧いて出る。
「おお、その件に関しては私も激しく同意だ」
右手をさすりながら右京が血走った目でおけいを見つめた。
「お、お待ちよ。あたしを食べたら、この藩は御終いだよ。あたしはあんた達を救う情報を持ってんだからね」
「苦し紛れの嘘は見苦しいぞ。鶏としての本分を全うしろ」
いつもやりこめられている藩士たちがこの時とばかりに彼女を取り巻いた。
「ふうん、いいのね。泥餡の種のありかが、あんた達の胃の腑に永久に封印されても」
「な、なんだと」
右京の目が大きく開かれ、血に染まった右手が今にも飛び掛からんとする藩士たちを制した。
「左内、左内を起こせ」
青い顔で筵の上に横たわる左内はまるで息をしていないように見える。激動の一日で、虚弱な彼の生気が尽きてしまったらしい。しかし右京は下級の藩士たちに命じて、情け容赦なく左内を揺さぶらせている。
「おい、昏倒している暇はないぞ」
しかし、いくら呼びかけても動かしても左内は目覚める気配を見せない。
「こっちは急いでいるんだ。もっと揺さぶれ、何かでひっぱたいてもいいぞ」
「そ、そんな無茶な」
「大丈夫だ、コイツとは長い付き合いだ。前後不覚に寝ていた後は、起こした時の事は全然覚えてない、おいちょっと叩いてみろ」
藩主の御覚えのめでたい右京の言葉に、藩士の一人が意を決して家老の頬をぴしゃぴしゃと叩く。
「手ぬるいぞ、これで足でもひっぱたけ」
右京がどこかからか、太い木切れを持って来る。
「いや、そ、それはあんまり……」
見るに見かねた藩士が右京に声をかけた。
「右京様、何か御家老様に気付けの薬湯でもないのですか?」
「は? そんなもの医者に頼め」
藩士たちに軽いざわめきが起こる。が、そんな事を気に留める藩医ではない。
「おい誰か、この眠り姫をどうにかして起こせ。どうせ眠ってるんだ、起こせるのであれば、コイツを好きにしていいぞ」
無防備にさらけ出された白いうなじ、細い鼻筋につんとした唇。伏せられると目立つ、実は長い睫毛。
臈たけた姿はまるで男装の女性と見まごうばかり。
「右京様、く、くすぐってもいいのですか?」
若い藩士が目を血走らせておずおずと聞く。
「そ、それは、また艶っぽい……」
藩士たちは何を思ったのか、鼻の穴を膨らませて肩を上下させる。
右京はにやりと笑って藩士たちに向きなおった。
「それよりもお前らいいことを教えてやろう。外国のおとぎ話ではな、眠り姫を起こす方法といえば……」
うおおおおおっ、右京の言葉に国元に妻を残して赴任している藩士たちがどよめく。
「こ、これは任務であるからにして……、御家老様御無礼をお許しください」
藩士の中でも体の大きな熊衛門が進み出ると、ふるふると震える手で左内の細い肩を抱く。熊衛門の身体が前傾し……。
皆が喉仏を動かして、生唾を飲んだ瞬間。
いきなり熊衛門の左手首が細い指に掴まれる。
ひらりと捻られた手首を軸にして、大男はくるりと宙に舞った。
どすーーん。
「ん? 皆集まって、また何かあったのか」
目をこすりながら、左内が周りを見回す。
彼の足元には白目をむいた熊衛門が長々とのびていた。
「アイツの寝起きは人一倍危険だからな。クワバラ、クワバラ」
右京は肩をすくめた。