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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
お江戸に炎の雪が降る
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その16

 一方、こちらは美行(みくだり)藩の上屋敷。

 殿の部屋は人払いされ、右京とおけい、尾根角(おねずみ)兄弟そして奥方様だけが呼び集められている。右京は傍らの冷やし飴を飲んで脳を活性化させながら、彼にしては真面目にこれまでのいきさつを語った。

「それで右京、左内は無事なのですか」

 奥方が身を乗り出す。

「そ、それは何とも」

 暗闇に落下して行った左内。

 闇の中から、斬り合う音とかすかな叫びが聞こえた。

 聞き慣れた声の……。

 右京は口ごもる。

「無事です、無事ですとも、一騎当千の左内様がむざむざと敵に命を奪われるなんてこと、ありえません」

 目を剥いておけいが叫ぶ。鶏の発言に殿は軽くうなずいた。

「そうだな。奴はか弱そうに見えて、実は殺しても死なないくらい妙なしぶとさがあるからな」

「敵も我が藩を利用したいと狙っている様子。むざむざ取引材料を殺すようなまねはしないでしょう。安心なさい、おけい」

 奥方様の理論的な慰めに、おけいは白い羽で目をぬぐった。

「万事について小姑のように口うるさい奴だが、居ないとなるとそれはそれで一大事。なんとか早く取り戻さねばならん」

 殿の頬がぴくぴくと痙攣している。平静を保った物言いとは裏腹に、臣下に手を出されて相当怒りに燃えているようだ。

「それで、黒幕は間違いないのか右京」

「殿に罠をかけ毒草を食べさせた女毒師を操っていたのは、平賀源内。そしてその背後には殿の御慧眼(けいがん)のとおり田沼意次が……」

「そうか」

 女毒師の話が出たところで、殿はちらりと横の奥方に目をやり、右京にそれ以上は突っ込んだ話をするなとばかり目配せをする。

「その女毒師、殿が狙いならばなんでその場でお命を取らなかったのか……」

 奥方が首を傾げる。

「房事の最中なら、いくらでも寝首をかけようものに」

 お茶を口に含んでいた殿は思いっきり吹き出した。

「お、お前っ、知っていたのか」

「御戯れをいちいち気に病んでいてはあなたの奥方は務まりませんよ、ほほほほほ」

 ふっくらとした手を口元に当て、高らかに笑う奥方様。

「怒ってないのか?」

「御冗談を。火事と情事は江戸の花、と言うではありませんか」

 殿と臣下の目が点になる。

「違いましたか? 忠太郎」

 お前がこんな下らぬことをお教えしたのか。兄の忠助が弟を睨みつける。

 周囲が固まっていることなど意に介さず、奥方様の大胆発言は留まるところを知らない。

「怒るどころかあなた様には少し外で発散していただかないと、私の寿命が短こうなってしまいますからね、ほほほほほ」

 まるで掌の上で弄ばれているかのような殿は、口をへの字に曲げていつもより小さく見える。口うるさく浮気を糾弾されるのも苛立つだろうが、全く意に介されないと言うのもうれしくは無いのだろう。

「奴らの狙いは、この大天才右京の秘密を知りたいという事と、大した名声もないのになぜか家治公の寵愛を得ている、諸藩きっての奇人大名の殿を味方に加えたいとのことでした。あのお麗を使い殿を耽溺させた後で、その工作をしても良かったのではないかと思いますが……」

 殿が奇人呼ばわりされてに怒らないのは、「貴人」と聞こえているからであろう。

「そうだな、あの娘は房事に長けているだけではなく、充分に賢い。わしを上手く罠にかけたのに、毒を盛ってわざわざ藩士から疑われるようなまねをしたのが解せんところだ」

 右京は三杯めの冷やし飴をすする。

「薬草を使うものの気持ちはわからぬではありません。どのような効き目があるのか、どのような害があるのか、時に試してみたくてたまらなくなるもの」

 右京の目が好奇にギラギラと光る。

「変人の気持ちは変人にしかわからぬという訳か……」

 殿が大きくうなずく。

「毒を試してみたかった、そういう考え方もありますが、もう一つ」

 右京の陰にちょこんと座っていたおけいが口を挟む。

「殿が罠にかかっていることを伝えようとした、という事も考えられませんか」

「我が藩のためにですか?」

 奥方が首を傾げる。

「いいえ、違います。むしろ殿が餌に使われた……と」

「わしが餌? 何のために」

 殿の問に、一瞬躊躇(ちゅうちょ)したおけいだが、意を決したように口を開いた。

「お麗の左内様を見る目が尋常ではございませんでした……」

 おけいの脳裏にはあの毒天女の柳を思わせる切れ長の目がよぎる。

 睫毛の下の鈍色(にびいろ)の瞳からは、まるで濁った沼の水がからみつくようなどす黒い視線が左内に向けられていた。

 憎悪を練り込んだような、暗い瞳。

「彼女を使うものの思惑とは別にして、毒天女がおびき寄せたかったのは」

 怒りと不安で鶏の頭の毛はまるでハリネズミのように逆立っている。

 身を震わせて、おけいはつぶやいた。

「実は左内様だったのかも」




「お麗」

 台の上にうつ伏せに縛り付けられた左内がかすれた声を出した。

「おや、もう気が付いたのかい」

 お麗が慌てて振り返る。

「頼みがある、縄を解いてくれ」

 意識を失う前に比べて不思議と熱感は引いている。

 背中をそっと動かしてみた左内は、頭の芯に響く様な痛みで息を飲んだ。しかし生傷をえぐられるような拷問の後にしては、その痛みは軽いように感じられる。

「何をバカな事をお言いだい。解くわけないじゃないか」

 左内に背を向けて、なぜか焦った様子で台の上に散らばった薬を整理するお麗。

「御不浄だ。お前に迷惑がかかるようなまねはしない」

 下から見上げる目に殺気は無い。

「わかったよ」

 しばらくの沈黙の後、お麗が頷いた。彼女が結び目をその細い指で触ると、なぜか縄は簡単にほどけて台の下に滑り落ちた。

「源三も、見張りも今は居ない。便所はこの部屋を出て右に曲がったところだよ」

 起き上った左内は、苦痛に顔をゆがめながら立ち上がる。

 右足に力を入れた途端、その痛みで彼はぐらりと体制を崩した。

「気をお付け」

 慌てて左内に駆け寄ると、毒天女は左内の左腋の下に自分の右肩を入れるようにして支えた。

「もみ合った末に泥だらけの刀で背中と足を切られているんだ、身体は相当参っている。そおっと動いておくれ」

「お前、優しいんだな」

 左内の言葉に、毒天女の顔色が変わった。

「大切な人質に何かあって、責任をなすりつけられてはたまったもんじゃないからね」

 吐き捨てるように言い捨てると、左内の背中に回した手で背中を叩く。

 突然傷口を触られて左内は思わず声を上げた。

「私を舐めるんじゃないよ。油断すると、とんでもない目に遭わせるからね」

 左内が便所に入ったのを確かめて、お麗は部屋に戻った。

 このまま、あの男は逃げるだろうか。

 お麗の脳裏にあの屋敷での記憶がよぎる。

 満開の芍薬の花のあの御屋敷。

 そこで出会った少年と、まさかこんな出会いをするとは。

「これでもう、貸し借り無しだよ……」

 そのとき、部屋の引き戸が開かれて足を引きずった左内が入ってきた。

「待たせたな」

 お麗の口が半開きになり、信じられないとばかり左内を見つめた。

 言葉を失って立ちすくむ彼女に気が付かない様子で彼はよろよろと今まで寝ていた台の上に再び横になった。

「約束だ。縛っていいぞ」

「逃げなかったのかい、ふん馬鹿正直な奴だよ」

 お麗は、唇を噛みしめる。

 左内は、眼の下に隈のできた顔をお麗に真っ直ぐに向ける。

「お前に迷惑がかかる」

 切れ長の優しい目。痛めつけられても、その瞳は凛とした輝きを失っていない。

 あの真っ直ぐな目をした少年はそのまま歪むことなしに真っ直ぐに育っていったのだ。

 心をときめかして見上げた幼い日を思い出して、お麗は一瞬目を閉じた。

 その時。

「お麗様、危ないっ」

 左内に向けて、鎖に付いた分銅が飛んで来た。

 思わず身を翻して、分銅を避けると左内は台から転がり落ちた。

 袋からこぼれた塩が床に散乱している。

 その傍らには、鎖鎌を構えた源三が仁王立ちになっていた。

「お麗様を(たばか)って、縄を解かせたな」

 お麗の危機とばかりに、源三の形相は一変している。眉間から顎まで顔を二つに割ったような刀傷の右は猩々(しょうじょう)のように赤く、そして左側はまるで厚い氷のように青白い。

 血走った眼を吊り上らせて、二分相の源三は再度鎖鎌に付いた分銅を振り回した。

「止しとくれ、ここでそんなものを振り回されたら高い薬が粉みじんになっちまう」

 お麗が慌てて源三にすがりついた。

「私が……」

 と、言いかけてお麗は左内の方を見た。彼は、台の陰に隠れながら源三の出方を(うかが)っている。

「源三、騙されちまった、逃げるよっ、あいつ逃げるよっ」

 お麗は左内を指さして叫ぶ。

「な、何を言う。私は逃げるなどとは……」

 お麗の突然の裏切りに左内の顔が強張る。

「下がっていろ、お麗。手負いとはいえ、こいつは危険だ」

 源三はお麗を後ろにかばいながら、鎖鎌を振り上げた。

 殺気に溢れた闘気が源三から立ち上っている。とても左内を殺さずに捕獲するといった小細工ができるような状態ではない。たとえ投降したとしても、激高した源三の鎖鎌が容赦なく振り下ろされる可能性が極めて高い。

 この消耗した体でどこまで奴の攻撃をかわせるか。

 こんなところで犬死なんて……、左内は唇をかみしめる。

「さっさと捕まえとくれ、じゃないと後ろの隠し戸から逃げちまうよ」

 お麗が叫んだ。

 隠し戸。

 左内は二人を睨みつけながらゆっくりと立ち上がると、背後に回した手で壁を探る。手の先にごくわずかな丸い凹みを感じ、それを押してみる。

 と、ぐるりと壁が周り、左内は物置のような部屋に押し出されていた。明り取りの小さな窓はあるが、残念ながら他の部屋につながっているという気配はない。

 視界は(もや)をかぶったようにけぶっている、体力は限界に近い。

 かすかな光を頼りに、すばやく仕掛け扉に内から(かんぬき)をかける。分厚い扉のようで、外敵からの攻撃の時に逃れるように作ってあるらしい。簡単には破れないらしく、外から扉を叩くガンガンという音は響くが扉はびくともしない。

「光が漏れるという事は、もう夜が明けたという事だな」

 右京達は無事に藩邸に着いただろうか。

 しばらくはここで籠城できそうだ。

 時間を稼げばきっとあの変人が何かしでかしてくれるだろう……多分。

 また、瓦版が出るほどの大騒動にならねば良いが。

 極限を通り越した彼は、壁にもたれてずるずると腰をついた。




「奴らから、交換条件の文などは来たか」

 朝餉を取りながら、殿は傍らに控える尾根角兄弟に尋ねる。

「いいえ、我ら交代で見張っておりますが、使者はおろか矢文の一本も参りません」

「そうか、やはりな」

 殿にとっては予想範囲内の答えだったらしい。

 平然と朝の味噌汁を一口すする。

「奴らは証拠となる文を我らに渡すようなまねはしないだろう、我々がのこのこ出かけていくのを待っているに違いない」

「我ら、もし合戦になれば、一命をなげうつ覚悟でございます」

 忠助が悲壮な顔で叫ぶ。

「その覚悟は無駄じゃ」

 殿は、緊縮財政のため2枚に減らされた漬物をかじる。

「意次も今から政治の中心に躍り出ようとする正念場だ、弱小藩であっても他藩の江戸家老を拘束したと表沙汰になればその経歴に傷もつこう。美丈夫の上、家治殿の知恵袋であるわしをなんとかねじ伏せようと躍起になっているのはわかるが、できれば穏便に収めたいところであろう」

「では、話し合いで左内様を取り戻すことが」

 忠太郎の顔が輝く。

「まさか。わしの懐柔が上手く行かないときには、左内の命は無いだろう。今の奴らの力はまさに日の出の勢い、左内一人の命くらい闇から闇に葬ることなど簡単だ」

 そこで殿は箸を置き、手を合わせる。

「もちろん、わしの命を取る事も奴らにとっては簡単なことだ」

「なぜ、奴らは殿のお命を取らなかったのでしょう」

「わしにまで手を出したら、家治殿が黙ってはおられぬだろう。いや、やっぱり、殺すのが惜しくなるほどの奇跡の美貌が原因かもしれんな」

 傍らの鏡台で自らの顔を見ながら殿がうっとりとしながら(びん)を撫でつけた。

「ま、奴らの思い通りにはさせん、十重二十重にあの住宅を精鋭に囲ませているだろうが、我々はなんとしても左内を奪還するぞ。右京の力を借りてな」

 不敵に笑った殿は、歯に着いた海苔をそっと懐紙で拭った。

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