その14
今回(~次回)は残酷なシーンがあります。苦手な方は読み飛ばしてください。読み飛ばされても概略はわかるようにしますので。
「左内様っ」
眼下から、叫びや人のもみ合う音が聞こえてくる。淡い光が付き、一塊になった人影がまるで一匹の生き物のように激しく揺れているのが見えた。
左内様が敵に囲まれている。
おけいは、羽を広げて自分も闇の中に飛び込もうとした。
しかし、彼女の身体はしっかりと抱えられていて、後を追うことができない。
「お放しっ、放すんだよ、右京っ」
目を血走らせておけいが叫ぶ。
「馬鹿鶏、今行ってどうするんだ。足手まといになるだけだろう、鷹どもも動くなっ」
身じろぎをするおけいの身体に回された腕に力が入る。
「でも、でも、左内様が……」
「あの状態では助けられん。今、無力なお前が行って、鶏質にでもなったほうがあの博愛主義者には迷惑なことじゃないのか」
鶏の身体の動きが止まる。
「めずらしく、まともなことを言うじゃないか」
「ま、無力という点では、私もだがな……」
吐き捨てるように発せられた右京の言葉が静寂に吸い込まれる。
鷹姉妹たちの咥えるロープにしがみついた一人と一匹は、ねっとりとした夜風を顔に受けながら、一路藩邸にと向かった。
それは遠い昔の追憶。
甘美な一瞬は、むせ返るような芍薬の花の香りとともにあった。
「あっちに行け」
さすがに苛立ったのか門番が怒鳴る。
怒鳴られて、びくりとした少女は慌てて門から飛び下がった。
年の頃は4~5歳か、そこかしこに継ぎの当たったぺらぺらの着物を着た娘は、一間(約1.8m)ばかり離れるもまだ立ち去り難いようで、未練がましく門の方に何度も視線を送っている。
「隙間からでいいから、覗かせておくれよ」
しばらく門を遠目で見ていたが、意を決したように少女が門番に声をかけた。
「馬鹿言うんじゃない。お前みたいな汚いのにうろうろされては迷惑なんだよ、さっさと行け」
「一目だけでいいんだよ、だってこのお屋敷の芍薬がすごくきれいだって噂に……」
皆まで言わさず、門番は少女の肩を手に持った棒で強く突いた。
勢いよく道端に転がり、泥だらけになった少女の目に涙が浮かぶ。
「何を騒いでいる」
そこに通りがかったのは習い事の帰りか、お付の女性を連れた一人の少年。
まだ少年と言うには若干早いか、頬のふくらみが残る切れ長の瞳をした男児。
「お、おかえりなさいまし」
門番はまるで身体を二つに折れるようにして、頭を下げる。
彼は、道端に倒れている少女に目をやるとそっと手を差し伸べた。
「坊ちゃま、お手が汚れます」
「構わぬ」
抱えるようにして立ち上がらせると、袖で顔の泥をぬぐってやる。慌ててお付のものが取って代わって布で少女の顔を拭いてやった。
「どうしたのだ、何か手荒い真似をされたのか。ゆるせ」
少年の言葉に、緊張が解けたのか少女はしゃくりあげはじめた。泣き声の中にとぎれとぎれに、何か言葉が聞こえる。
「なんと言った? なにかこの屋敷に用があったのか」
少年は、少女の汚れた顔に耳を寄せる。
「芍薬、芍薬が見たかったのか?」
少年の問に、少女はコクリとうなづいた。
「一緒に来ればよい」
「坊ちゃま、そんなどこの誰ともわからぬ馬の骨……」
慌てて止めに入る門番を目で制して、少年は少女の手を取った。
「良い、責任は私が取る、門を開けろ」
少年に導かれ彼女が見たものは、まるで天国かと思うような色とりどりの芍薬が咲き乱れる庭。少女は泣いていたのも忘れ、息を飲む。
濃い紫、黄色、白、そして紅色。まっすぐに伸びた茎には細長い卵型の葉が互い違いに付き、そのてっぺんにはふうわりとした花びらに囲まれた大きな花が開いている。
風に吹かれて花々が揺れると、その色のさざめきがまるで美しい音楽を奏でているかのようで、少女はうっとりと立ちすくんだ。
なかでも、薄い桃色の大輪の花がひときわ美しく少女はその花に魅入られたように近づいていく。
少女はそっと花に顔を寄せた。二重の大きな花ビラの内側は、少し黄色みがかった細めの花びらがびっしりと埋めている。
「これは翁咲きというらしい」
少年の言葉を夢見心地で聞きながら、少女は匂いを嗅いだ。
驚くほど甘い香りが、彼女の鼻腔に飛び込む。
それは幼心にも、艶を感じる大人の香り。
「これは、伯母が丹精を込めて育てている芍薬達だ。芍薬というのは、美しいだけではない、薬としても人々の役に立つ」
少女はうっとりとして、背後の少年を見上げた。
幼いながらも凛々しい、すっきりとした顔だち。そしてその細い眼からはなんとも言えない優しい光が漏れている。
「見栄えだけではなく、真に人のためになる人間になりたいものだ」
なにか、自分に言い聞かせでもするように少年がつぶやく。
ああ、これは夢だ。
こんな幸せな瞬間があるなんて。
帰り道、土産にと切ってもらった一輪の芍薬の花に顔を埋めながら少女は溜息を付いた。
暗闇の中で、桃色の花びらが舞う。
頭に響く高笑いとともに、まるで背後から強い光源で照らし出したように女の影が浮かび上がる。
そういえばこの夢は以前にも見た。
殿がヂギターリス中毒になって帰って来たその次の日の夢だ。
左内は夢とうつつを行きつ戻りつしながら、暗闇の中をさまよう。
むせ返るような、芍薬の匂い。
今思えば、殿の着物からかすかにこの匂いがしていた。
芍薬。
遠い昔の記憶に何か引っ掛かりを感じたが、彼はそれを思い出すことができなかった。
「幸せになっちゃいけないね、その後の不幸が余計辛くなる」
何処からともなく、聞こえてくる寂しげな声。
そして細い光に彩られているだけだった女の姿は次第に明度を増し、その顔かたちが浮かび上がる。
その顔は……。
「おのれ、毒天女」
左内は大きく息を弾ませて、飛び起き……ようとしたが、何か台のような物に手を上げた状態で腹這いに括りつけられているようで、動いたのはわずかに首から上だけであった。
身体を動かしただけで、背中と足に強い激痛を感じ、左内は思わず息を詰めた。
「おや、お目覚めかい」
声の方に顔を動かすと、そこには夢と同じ、禍々しい凶女が嬉しそうに口角をあげて、鮮やかな色を付けたギヤマンの器や細長い入れ物を持って佇んでいた。
「ずいぶん早いお目覚めだったね」
捕まったのか。
結構な高さから落ちて、闇の中脚を引きずりながら素手で敵と渡り合ったのは覚えている。
多勢に無勢、というよりももみくちゃと言う方が正しい。何人かは倒したが、背後から斬られて、鳩尾を木刀で突かれてからの記憶が無い。
身体じゅうが重く、ぞくぞくとした寒気が走る。
熱を出すことの多い左内は、経験からこれが高い熱が出る前の症状だと知っていた。
「おお、目覚めたか」
聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
「わしの竪穴牢を破ったいつらのからくりの力は、看過するわけにはいかない。右京について聞き出せ」
「わかりました、源内様。私にお任せを」
お麗が楽しげに答える。
「今まで、私のいたぶりに耐えたものはいません」
お麗は、左内の破れた着物の間から覗く背中の傷を爪でそっと触れた。
固まった血でかろうじて塞がっていた皮膚が爪ではがされて、泥で汚れた傷口が開く。
声は上げないが、苦痛は相当のものなのだろう、左内のこぶしが白くなるほど握り締められている。
「その冷血ぶり、わしが見込んだとおりだ。お麗」
満足そうな源内の声。
「まず、聞きたいのは、あの右京は何者なのだ」
「知らんっ」
アイツの頭が奇天烈な訳など、こっちのほうが聞きたいくらいだ。左内は心の中で絶叫する。
「これでも、わからないとお言いかい」
背中に何か冷たい物が垂らされる。
そして傷口が何かでごしごしとこすられる。
開かれた傷口に走る激痛。左内の固く握り締められたこぶしの骨が白い皮膚を突き破りそうなくらい浮き出る。
「この必死で耐えている姿、楽しいねえ。痛いだろうねえ、生傷だから。それもとびっきりに新鮮な……覚悟しなよ」
声とともに、傷口に刃物が付きたてられる。
たまらずに左内の口からうめき声が漏れた。
血の匂いと、芍薬の匂いでむせかえる室内。
「うっ」
嘔吐を催したのか、源内がうずくまっている。
「わ、わしはちょっと休んでくるから、お麗、死なない程度に痛めつけてやれ」
声とともに、そそくさと立ち去る足音が朦朧とした左内の耳に響いた。
「あらあら、これくらいの痛さで参ってもらっては困るわね、左内様。今からが本番よ」
つきたてられた刃が傷口で動く。
左内の額に生汗が浮きでる。
周りで警備している者達も動揺しているのだろうか、静かなざわめきが伝わってきた。
「もう一度、聞くわ。右京はどうしてあのような天才的な頭を持っているの?」
答えを知らないのを知っているかのように楽しげなお麗の声。
傷が裂かれる痛みが、頭の芯を貫き左内の全身を硬直させている。
悪態を付きたくても、左内は歯を食いしばったままで声を上げることができなかった。