その8
周囲を背の高い木の垣根で囲ったその家の中の様子は、背の高い二人が伸びをしても覗くことはできなかった。百姓屋にしては入り口の戸も背が高く、しっかりと作ってある。
「すごいぞ、すごい。これだけ毒草を集めるのは相当粘着質な収集癖と心の闇が無いとなかなかできないものだ」
傍らの右京が興奮している。早く入ろうと言わんばかりに足をバタバタしている彼を制すると、左内はおけいを抱えあげそっと戸を開いた。
「どなたか、おられぬか」
そこは広い庭で、母屋に続く細い道の左右に先ほど垣間見た毒草の群れがびっしりと植えられている。広さこそ劣っているが、小石川の御薬園と種類においては引けを取っていないようだ。
「訂正する、心の闇どころではない。ここまでくると邪悪さ……だ」
興奮の余り息も絶え絶えという風情で右京が庭にまろび出て、すぐさま花の傍らで座り込んだ。葉を裏返したり、臭いを嗅いでみたり、天災科学者はすっかりここに来た目的を忘れて楽しんでいるようだ。
「おい、遊びに来たのではないぞっ」
左内は押し殺した声で叱咤すると、座り込んでいる右京の首筋を掴んで立たせようとする。
「御役目で来たのだ。自分の趣味を全開させている場合ではない」
花をためつすがめつ眺めながら、右京は左内の手を振り払った。
「いいじゃないか、きっとお前の好きな親父も許してくれる」
「は? 親父?」
左内は連れが何を言っているのか理解できず、首を傾げる。
「孔子混同って言うだろう」
「お、お前な……」
聖人を親父呼ばわりしたばかりか、ダジャレに使う右京に対し、左内は身を震わせる。
「バチがあたるぞっ」
「へっ、死んだ人間がバチなんか当てられるものか。悔しかったら当てて見ろ」
右京は意に介せずとばかり鼻歌を唄いながら、傍らのヂギターリスに目を向ける。
「薄桃色の可憐なラッパのような外見をしているくせに、この内側の紫の斑点がまた禍々しくてよろしいのだな、ふふふ」
「おい、いい加減にしろ」
左内が身を震わせたその時、おけいが手の中から滑り降り、右京の尻を蹴っ飛ばした。毒草の群れに勢いよく頭から突っ込む右京。
「ふ、ふがっ! 何をする」
じたばたする右京に対して、またやってほしいか、とばかりに鶏は目を吊り上げてその節くれだった足をチラつかせた。
「お武家様、なにか御用で?」
二人の背後には、いつの間に現れたのか初老の男が佇んでいた。
痩せて、頭の半分は白いもので覆われている。しかし、その足取りは霜柱の上を歩いても崩れないのではないかと思わせるくらい、まるで猫のようにしめやかであった。
右京に気を取られていたとはいえ、武芸巧者である左内に気づかせぬほど気配を消すとは、ただ者ではない。
左内は右手をいつでも刀にかけられるように緊張しながら、男の目を見据える。
「申し訳ない。立派な庭なので、思わず入ってしまった」
男は上目使いでちらりと左内を見ると、腰をかがめて一礼した。
「端正を込めて仕上げた庭。そういっていただけると主人も喜ぶでしょう」
「できれば御主人とお会いしたいのだが」
「それがあいにく出かけておりまして。むさくるしい所でよければ、どうぞ中でお待ちください。申し遅れました、私は使用人の源三と申します」
そう言うと、男はくるりと背を向けて歩き出した。
左内は右京の襟首を掴んで引きずるようにして後に続く。油断なく広い庭を見回しながら進むと、庭の奥に全く植物が植えられていない一画があった。其処だけ最近土を掘り返したのか、色が違っている。
「ささ、こちらへ」
表玄関を入って、上げられたのは小ざっぱりした座敷だった。
ここだ、ここに違いない。二人は顔を見合わせる。
この畳の配置、そして床の間の調度。こここそ記憶再生装置の画像で見た、主君があの娘を押し倒した場所に違いない。
濃厚なシーンを思い出した左内は軽い眩暈を覚えて頭に手を添えた。
「ん、お前。あれはどうした?」
ふと、左内は右京の方を見て、彼が抱えてきたはずの脳刺激記憶再生装置が見当たらないのに気が付いた。
「小さく変形できるのだ。たたんで懐に入っている」
左内の視線に気が付いたのか、安心しろとばかりに右京が懐を叩いた。
「お待たせいたしました」
源三が茶を持って来た。
家の中はしんと静まり返り、彼以外の使用人の声はしない。
「主人は、もう少しで帰ってまいります。それまでここで粗茶でもお飲みになりながら、お待ちください」
源三が一礼して立ち去った。
そっと茶托に置かれた湯呑の蓋を取り、右京が湯呑に顔を近づけて茶の匂いを嗅ぐ。大きく息を吸って、右京の顔が輝いた。
「おお、これは極上の……」
急に右京の目が寄り目になって、身体がぐらりと前に倒れる。
茶托の転がる音がして、こぼれたお茶が畳の上に広がった。。
「ど、どうしたっ」
「あ、阿芙蓉だ……ひひひひひ」
常軌を逸した右京の声。
「阿芙蓉……、阿片の事か」
左内が慌てて、右京を抱き起す。右京の身体はぐにゃぐにゃで、顔には恍惚とした薄ら笑いを浮かべていた。
「す、すごいぞ左内。煎じ薬の吸入だけでこんなに激しい薬効を引き出すなんて、まるで鬼神の仕業、けけけけけ」
通常、阿片を吸う時には阿片芥子の実から流れ出る乳液を煮詰めて飴状にしたものを炙ってその濃い気体を吸入する。だが、阿片を混入したであろう茶から湧き出る湯気のみでこれだけの作用を及ぼすというのは、何やら恐ろしく強力な改良が加られているのであろう。
もちろん右京も、庭に毒草がある時点で出された食べ物には手を付けないつもりであったろうが、茶の臭いを嗅ぐくらいでこのようになるとは思いもよらなかったのであろう……。想像を絶する効果に左内は歯噛みをする。
「大丈夫か、右京。おい、源三。何をするんだ」
左内は、ヘラヘラ笑いを浮かべて心そこに非ざるといった体の右京を左肩で支えながら、片膝を立てて鯉口を切る。おけいも羽を広げ、嘴を突き出して男を威嚇した。
「腕に御覚えがおありのようですが、こちらも年季を入れておりますゆえ」
源三は、にやりとほくそ笑んで一瞬顔を下に向けた。
そして次に彼が顔を上げた時、その顔は先ほどまでの源三とはうって変わった形相に変化していた。
眉間から鼻梁を伝い、顎まで切り下げられた刀傷。引きつりを残して分けられた顔は右が紅潮し充血した憤怒の形相、そして左は抜けるように青白く、鋭い目に冷ややかな笑み。
「二分相の源三、お見知りおきを」
源三は懐からおもむろに二つに折りたたまれた鎖鎌を出した。鎌の刃のほうから分銅が付いた鎖が繋がっている。彼は左手で鎌の柄を持ち、そして、右手でゆっくりと鎖を回し始めた。風を切る分銅の唸りが徐々に高くなり、源三の頭上に小さな銀色の円盤が出現した。
「下がれ、二人とも」
左内は芯が抜けたような右京の腰に左手を回し、すらりと刀を抜く。
おけいも、これは足手まといになるだけだと察知したのか、大人しく左内の右後方に隠れた
「へーっへへへへ、冷やし飴の中に飛び込むぞーっ」
頭がどこか違う場所に行ってしまっている右京の笑い声。
その笑いを打ち消すように、鎖の回転で巻き起こる風が障子をガタガタ鳴らした。さすが手練れ、この狭い部屋にちょうど良い大きさの円弧が作られている。
広い場所であれば、あの先端の分銅から逃げられるが、この部屋はあまりにも狭い。左内が部屋を一瞥するが、残念ながら鎖を絡まらせるにちょうどいい柱や欄間は見当たらない。
あの分銅は、当たり所が悪ければ人を死に至らしめることができるほどの威力を持っている。
狭い部屋に、敵と自分。そして守らなければならないのは一人と一匹。
そのうち一人は御酩酊と来ている。
極めて形勢不利……。
左内の額に、汗の粒が噴出した。
「御二方、美行藩の片杉左内殿、そして呉石右京殿とお見受けいたす」
やはりばれていたか。
左内は、源三の顔を正面から凝視する。
「殿の一件もやはりお前達の仕業か。なぜ、このような狼藉を働く」
源三の顔に敵意に満ちた笑みが浮かんだ。
「お待ちいたしておりました、片杉様、呉石様。あなた方をここにお呼びするのが今回最大の目的でございました」
「なぜ私達を狙う。お前達はやはり田沼……」
いきなり、円弧がほどけて銀色の分銅が空を切る。
しかし、左内の反応が一瞬早かった。
高い音がして、峰で薙ぎ払われた分銅はぼとりと畳に転がる。
源三が鎖を手元に引き寄せるその隙に、左内は右京をひきずるようにして廊下の方に駆けよる。
逃がさじとばかり、すぐさま分銅が反対側から向かってきた。
人を抱えている分、動きが鈍くなる。
左内の反応が一瞬遅れ、鎖は幾重にも刀に巻き付いた。源三の半分の顔が赤く染まり、手が震えだす。渾身の力で引っ張られ、刀を握る左内の手も真っ白になる。
鎖のその先には、獲物を待つ鎖鎌が不気味な光を放っていた。
「若造め、観念しろっ」
源三がさらに力を入れて引っ張ったその時、狙いすまして左内は分銅ごと大刀を源三に投げつけた。
大刀は源三の眉間を襲い、額に一文字の傷をつけて畳に突き立った。
「おのれっ」
激高した源三。しかし、刀に絡まった分銅はすぐにほどけず、自由になるのは左に握られた鎌のみ。
左内はその瞬間を逃さず、右京をそこに残して小刀で打ちかかる。
源三も鎖鎌に付いた鎖ではっしとそれを迎え撃つ。左内の刀を押し返しながら素早く源三の右手が円弧を描いた。右手とともに一回転した鎖は刀の周りで弧を描き、刀はちょうど鎖で一巻きされた状態となった。
そのまま内の間合いに踏み込んだ源三は、鎖を左内の後方に回す。源三が持つ鎖は小刀を捉えたまま、左内を後ろから鎖で囲う状態となった。一瞬のうちに劣勢となった左内の首に鎖鎌が振り下ろされる。
万事休す。
小刀を離し、左内の手が懐に滑り込んだ。
鎖鎌があわや首筋にめり込もうかという直前、火花をあげて源三の鎖鎌は行く手を阻まれた。
「お、お前っ、それは氷砂糖を割るためのもので、喧嘩に使う道具じゃないぞっ」
脳天気な右京の声が響く。
右京から取り上げたままであった、矢床ががっちりと鎌の刃を捕らえている。
そのまま左内の鉄拳が相手の喉元に打ち込まれた。
白目をむいて崩れ落ちる源三。
飛び下がると、左内は大刀を畳から引き抜き右京とおけいの元に走り寄った。
「お、おけい……」
「左内様、日の出とともにあなたのお子様を毎日御生みいたしまする~~」
湯が飛び散ったせいであろうか、なんとついにおけいまでもが座り込んで正気を無くしているではないか。背の低いおけいには、畳にこぼれた薬がゆっくりとだが効いてしまったのだろう。
ともかく、なんとかして二人を担いで帰らなくては。
右京を担ぎ、おけいを抱いた左内の背後で、源三が立ち上がる気配がする。
「待て、左内……ごふっ」
よろよろと立ち上がったはいいが、源三はすぐに膝をついてしまった。
鎖鎌はすぐに使えないように、もみくちゃにして縛って部屋の片隅に放り投げてある。まだ、時間は稼げるだろう。
左内が障子を蹴破って外に飛び出そうとした時。
「源三」
高い声とともに障子が開き、内から小花を散らした鶯色の小袖を着た若い娘が姿を現した。
「帰りが遅れてすまなかったね、この食えない面々をお前一人に相手をさせるのは、少々酷というものだった。しかし、源三を破るなんてさすが殿御自慢の家臣、片杉左内殿」
にっこりと笑むと、細い目がまるで三日月を思わせるなだらかな曲線を描く。どことなくあどけなさを残した鼻筋の通った整った顔立ち。その中でも口角が深く両端がちょっと吊り上っている細い紅色の唇は震い付きたくなるような色っぽさを漂わせていた。
「すまん、降りてくれ右京」
左内が急に右京を床に落とすと、慌てて鼻を押さえる。
「ててて、どーしたんだ、おい、武芸バカ。鬼のかく乱か?」
右京が覗き込むと、左内は必死で鼻を押さえている。
「鼻血か? お前、本当に嫁もらえねーな」
「だ、だって、ほ、本人だぞっ」
左内の脳裏はあの殿との一夜が大写しになって揺れている。
「興奮しなすったのかい。全く、噂通りのウブだねえ」
透き通るように白い華奢な手が口に当てられて、ころころと鈴を転がすような笑い声が響いた。
ひとしきり笑った後に、娘は嫣然と微笑んで軽く頭を下げた。
「ようこそ、毒天女の館へ」