その3
その日の午後。
ここ美行藩江戸藩邸の門に、風呂敷に包まれた畳ほどもある大きな平たい箱を持って紋付を着た小柄な初老の男が姿を現した。
「おお待っていたぞ、露草堂」
忠助、忠太郎。二人のお小姓が走り出て、御菓子屋がうやうやしく掲げている箱に飛びつく。
「お待たせいたしました。何分急なお申し付けで……、ご希望にそって柔らかめに仕上げましたが、しかし本当に砂糖が三倍でよかったのでしょうか」
乏しい白髪を銀杏髷にした露草堂の店主がおそるおそる尋ねる。
「さ、砂糖が三倍だと」
忠太郎が目を剥く。
「極甘でございます。先ほどこれを食した職人が胸やけで苦しんでおりますが」
「ああ、結構だ。砂糖を食べるうわばみが我が藩にはおるゆえ。で、そいつが脳天が割れるほど甘い物を持って来いとほざいていてな……」
何処からともなく現れた御家老様が、腕組みをして頷く。慢性的な疲れのためか透き通った顔と生気のない姿は、もしそれが柳の下であれば幽霊と見まごうばかりである。
「これを機会に甘味が嫌いになってくれれば我が藩の財政も助かるのだが」
「これはこれは、御家老様。いつもご贔屓を賜りまして誠にありがとうございます」
左内を見つけた露草堂の主は、皺の目立つ額を自らの膝に擦り付けんばかりにしてお辞儀をする。
「いや、こちらこそ急な注文悪かったな」
「今回のご注文はお値段もそれなりに張りますがよろしいでしょうか。私ども、最近はもっぱら高価な白砂糖を使っておりまして」
「白? あのこくのある黒い砂糖ではなくてか」
砂糖の甘みを思い出したのか、ごくりと忠太郎が喉を鳴らす。
「ええ、やはり白い砂糖を使うと癖の無い風味というか、私どもの目指す典雅な甘みが実現できるのです。残念ながらほとんどの砂糖が阿蘭陀や中国から高値で買い付けているので、割高になるのですが」
「そうか、吉宗公が大事な金銀が流出するのを懸念されて、我が国での生産を奨励されてから四十年の年月が立つが、白砂糖の生産が軌道に乗るのはまだまだのようだな」
左内が首を傾げる。長門の国で白い砂糖を作っているという話は聞いたことがあるのだが、まだまだ製法は囲われていて一般に普及してはいないらしい。
「いえ、それがようやく少しですが白い砂糖が我々の手で作れるようになってまいりました。大師河原村の名主池上幸豊様が、方々に白砂糖の作り方を伝授して回っておられます。つい先日も田沼意次さまの御屋敷で甘蔗を絞って煮詰める工程をご覧に入れ、ついには何と、土をかぶせて白くする奇想天外な方法で見事白砂糖を作って見せられたとのこと……」
「田沼様の御屋敷だと」
左内が眉をひそめる
「例の黒星の御方か……」
黒い丸を中央に一個、その周りを丸く取り囲むように黒丸を六個配した七曜の家紋を持つ田沼意次は、吉宗に見いだされて先の将軍家重の小姓となった男である。
家重に仕えるとすぐに、彼はその有能さで頭角を現した。言語が不明瞭だった家重は、敏く言葉の意を解する意次を重用したのである。代が変わって家治の御世になってもその状況は変わることが無かった、家重の助言通り意次は現在も政治の中枢にとどまっている。
2万石の天晴公と比べて現在1万5千石の側用人である意次は、石高こそ低いが、家治の側用人として今や飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
それだけならいいのだが、最近この美行藩に対し何やら胡乱な一味が暗躍している。妙にカンの良い殿はここに田沼意次が関与しているのではと睨んでいるようだが、昇竜の勢いのある男が、ほおっておけば自壊する可能性の高い、この問題の多い弱小藩に一体何がしたいのやら。
今回の殿の一件に、田沼意次が関与しているのか。
そしてあの首領も……。
湯屋での一件を思い出して、左内の全身に悪寒が走る。
「どうされました、御家老様」
御菓子屋が心配そうに顔を覗き込む。
「ずいぶんお顔の色が」
「あ、すまない。最近とみに疲れることが多くてな」
左内の沈んだ声を聞いた主は懐に手を突っ込むとごそごそと何かを探し、懐紙に包まれた小さな塊を取り出した。
「これは?」
主人は飴玉のような丸い目をしばたたかせながら、おずおずと左内に差し出す。
「氷砂糖です。些少で申し訳ありませんがご笑納ください、滋養になります。残念ながらこれは外国で作られたものですが、このような大きな塊は日の本ではついぞおめにかかりません」
長いこと懐にはいっていたのであろうか、包み紙はよれて薄汚れている。
「腐りませんし、長持ちします。危急の際にも役立ちます」
「これはすまない。ありがたくいただくとしよう」
主の心遣いに感謝して、左内は鶏の卵ほどもある塊を手にした。
「殿にお伺いしても、毒を盛られた前後の記憶が無いとのこと。あれは、本当に忘れておられるのか、それともしらばっくれておられるのか」
「さあな」
左内のぼやきに耳を貸さず、右京は血走った眼で露草堂の持って来た畳一畳分ほどもある平べったい包みの結び目を解く。なかなかとけない結び目を震える指先でもどかしそうに解くその姿は、なんだか女性を前にした殿にも通じるものがありそうだ。
風呂敷がはらりと畳に広がると、薄い木の板で作られた箱が姿を現した。
蓋を開けると、色づけされた羊羹で作られた水草や金魚が散りばめられた、見た目にも涼しげな美しい透き通った金玉羹が姿を現した。ふん、と僅かだが甘い香りが立ち上る。
左内が切れ長の目を細めて歓声をあげる。
「おお、なんと美し……」
左内の言葉が終わらぬうちに、箱を両手で抱えた右京はその隅に口を付けてまるで枡酒を飲むかのように一気に垂直に傾けた。
じゅるじゅるじゅるじゅるっ。
「ぷはーーーっ、ん?」
傍らで白目をむいて固まっている左内の方を不思議そうに見る右京。
「どうした?」
「お、お前には、情緒を楽しむとか、味わうとかいう思考がないのかっ」
一瞬にして、このうわばみの胃の腑に吸い込まれてしまった涼味あふれる水槽の景色を惜しんで左内は目を伏せる。
「なぜだ。甘い物はこの天才的な脳が欲しがるから摂取しているだけだ」
肩をすくめて右京は箱の底を叩いて、払い落とした残りの寒天を吸い込む。
これは物の怪だ。人間様の物差しで判断してはいけない。と、左内は自らに言い聞かせる。
ここはひとつ、建設的に話を進めるしかない。
「先ほども言ったように殿の記憶が無くなっている。どうにかして、殿の行動が知りたいのだ、何とかしてくれ」
「ううむ、発明をひねり出すにはあともう少し甘味が足りない」
右京が大げさに首を傾げる。
「こ、これではどうだ」
左内は懐から先ほど露草堂の主人からもらった氷砂糖を取り出す。
「おお、これは大きい。それではありがたくいただくとしよう」
片手で氷砂糖を掴み、あんぐりと右京は口を開けた。
カクっ。
右京の頬が嫌な音を立てる。
彼の顎はまるで支えを失ったかのようにだらんと垂れている。細長の顔がいつもの2倍に引き延ばされている。
「はふれは~~」
大きな塊を口に入れようとして、顎を外した右京が氷砂糖を取り落して畳の上をのた打ち回った。
「ば、馬鹿すぎる」
こんな男に藩の命運を託していいのだろうか。
左内は激しい不安に頭を抱えた。