その2
暗闇の中、前方に何か輝くものが見える。左内は、右手を刀の束に置くと、目を凝らしてすり足で近づいて行った。
徐々に明らかになるその光源は、なんと柔らかく光る牡丹を思わせる桃色の大きな花。ふうわりと宙に浮くその花の花弁はまるで天鵞絨のようで、彼は思わず魅入られたように手を伸ばす。
――なぜこのような所に、花が?
考える間もなく、徐々にその花がゆっくりと回転を始めた。
気が付けば、花弁はまるで研ぎ澄まされた剣のように変形している。
慌てて手をひっこめるも、一瞬遅く、彼の白い指には一条の赤い筋が走り、玉のような血がポタリと落ちた。
「きれいな花が、そのまま心まで清純だと思ったら大間違い」
しわがれた声とともに、闇をつんざく様な笑い声が響く。
気が付くと、目の前には両手に刀様の細長い手裏剣、飛苦内を持った桃色の小袖を着た若い女が立っていた。
「おのれ、物の怪」
左内の刀が一閃し、飛んで来た飛苦内をはじき飛ばした。さすが、百戦錬磨の美行藩、万難題解決係。危うい橋は嫌というほどわたり慣れている左内は、この異常事態に眉ひとつ動かさず、次から次へと流星のように向かって来る手裏剣を難なくかわしていく。
しかし突然、ぎぎぎぎ、とばかり何かがきしむ音がして、左内は妙な風圧を身体に感じた。
ふと、横を見ればいつの間にか暗闇は消え、そこは木立の中。なぜかくさび形に飛苦内が突き刺さった巨木が、今まさに彼の方に倒れて……。
「うわああああああっ」
顔面に鈍い衝撃を受けた左内は、声とともに目を開ける。
ゆ、夢か。左内は安堵の溜息を洩らす。
ん。
目の前に、何か固い足のような棒が……。
顔に乗せられた足を手荒く退けるとともに、左内はかけ布団を掴んで、引っぺがす。
「お、お前っ」
左内の足の方を頭にして、太平楽に寝ていたのは、他でもない右京であった。
ふと、部屋の中を見ると、左内のために用意されていたと思われる朝食の膳がきれいに平らげられている。
「なぜここにいるっ」
「おお、目覚めたか左内」
「それは、こっちの台詞だっ。悪夢の元凶めっ」
顔を赤くして、左内は今度は敷布団の端を持ちあげると盛大に右京を放り出す。
「真綿の布団か、いいところに寝ているもんだな。さぞやいい夢がみられることだろう」
柱で頭をぶつけたのか、頭をさすりながら右京がちらりと左内を睨む。結構な金額を要求するが、あればあるだけ湯水のごとく発明に金を注ぐこの男の懐はつねに厳寒である。
「奥方様からの賜りものだ」
左内は、大切に布団をたたみ押し入れにしまった。
「この怠け者、朝食を盗み食いしに来たのか?」
「私が殿の御看病に駆けずりまわっている時に、ぐっすり丸一日寝ていたくせに何をいうか」
「な、なんと……」
左内の顔が真っ青になる。
そういえば、殿の看病をしていたころから急に記憶が無い。確か、峠は越したという右京の言葉までは聞いた記憶があるのだが。その後、緊張の糸が切れて昏倒してしまったらしい。
「そ、それで殿は……」
「ああ、元来の悪運の強さか、一命を取り留められ今朝からおかゆも召し上がっていらっしゃる。殿の御体調を拝見してから、お前の方に寄ってみたら、美味しそうな朝食も食べずに、ぐうすか寝ているではないか。私も眠くなって、寝てしまったという訳だ」
「私の布団にもぐりこむ必要は無いだろう」
「布団が減るわけでもあるまいに、けちけちするな。それに起きた時、お互いの顔があったら気まずいだろうと思って、わざわざ足の方に頭を持ってきて寝てやったんだ。この配慮に気が付かんか」
「人の顔の上に足を投げ出しおって、何が配慮だ」
二人が、眼を血走らせて顔を突き合わせた時。
勤番長屋のあたりから何か争うような声が聞こえてきた。そのうちばたばたと何かを倒す音、人の走る音がし始め、些細な喧嘩が大きくなっているようである。
「喧嘩か、最近多いな」
左内が勤番長屋の方を向いて溜息をつく。
「変な輩にこの藩が付け狙われているということで、お前が不要不急の外出を控えるようにお達しを出しているから皆欲求不満が貯まるのだろう」
「我が藩がなぜ標的にされているのか、わからないからだ。現に殿は誰かに毒殺されかけている。浮かれて出歩かれては、またいつ何時忠太郎のような目に遭う輩が出るかもしれぬ」
「国許ではお前の親父様、城代家老の片杉左衛門殿が藩士の手綱をきびしく引いておられるから、江戸勤番のおりに命の洗濯をするのが美行藩士の楽しみなのになあ……」
右京の視線は左内に向かって、厳しすぎるのではないか、と言っている。
貧乏な小藩の家臣達であるから、遊興といっても大したことはできるはずもない。それでも、田舎育ちの彼らにとって、きらびやかな花のお江戸の散策は心弾むものであるに違いなかった。それを禁止され、妻子と離れての江戸暮らしでは、確かにうっぷんもたまるであろう。
「武芸でも、奨励するか」
「馬鹿だな、余計士気が落ちるのは目に見えている」
およそ努力と名の付くものが大嫌いな天晴公、もちろん武芸にも全く興味が無い。藩主がこうであるから、出世にもつながらないのにこの太平の世にどうして、と藩士達も武芸に対して懐疑的だ。
「同郷の者どうし、諍いなどして欲しくは無いのだが。さて何とかならないものか……」
左内は唇をぐっと引き締めて、宙を見上げる。
「まず、一つ一つ問題を片づけねばなるまい。緊喫の問題は、殿がどこで誰に毒を飲まされたかということだな」
生真面な江戸家老は、柱に寄りかかって欠伸をしている右京の方をちらりと見る。
――こいつには頼りたくないのだが。
だが……。
彼は正座した膝の上に置かれた両方の拳をぐっと握り締めた。