その13
「お前ら、天晴藩のものだな」
こちらは大伝馬町一丁目の通りで5人の男たちにぴったりと囲まれたおけいたち。男たちのなかでもひときわ筋骨隆々とした男が低い声で彼らを問いただす。まるで灰色の冬の海を思わせる殺気を漂わせた暗い鈍色の瞳、忠太郎はその男の独特の目の色を覚えていた。ドリアン騒動の時に自分を連れ去った一味の中の一人だ。
「ここで何をしている」
頭二つ分高い男が上から覗き込むように彼らを尋問した。
こいつらは左内様たちを監禁している一味の分派か。
双子の顔色は蒼白となる。
腰の物に掛けられた右手は大きく震え、引き抜くどころではない。
「た、たすけ……」
叫び声を上げようとした彼らの鼻と口がいきなり塞がれた。背の高い男たちの垣根の中にすっぽりと閉じ込められた二人と一羽の姿は外からは目を凝らしてもなかなか見えない。
暮れ六つもとうに過ぎ、ここ大伝馬町の通りもめっきりと人通りが少なくなっていた。
時折脇を通り過ぎる町人たちも、佇む男達の姿を見て見ぬふり。面倒事にはかかわるまいとばかりそそくさと足を速めるばかり。
酸欠のあまり、双子は身を震わせて失神しかけている。
ここで私が反撃しても、焼き鳥になるのが関の山……。
忠助の腕から地上に飛び降りたおけいは身を震わせて打開策を模索した。
その時。
忠助が、半眼になっていた目をぱっちりと開けた。
と、同時に右手の人差し指から薬指までをまっすぐにのばしてサシを作り、自分の真後ろの男に向かって突き出す。
指は狙い過たず、男の喉仏の下に突き刺さった。
油断していた男は、息を詰まらせて忠助の口から手を離す。
しかし、まだその両手は彼を後ろから抱えている。忠助は自分の両腕を思いっきり広げ、相手の腕とに隙間を作ると身をかがめ、するりと真下に身体を逃した。そのまま忠太郎を拘束している真向いの相手の足に飛びつく。
忠太郎ごと仰向けに倒れる敵。相手が受け身をとった一瞬の隙を逃さず忠太郎は拘束から抜け出る。振り返った忠太郎は背後で繰り広げられている光景に目を疑った。
「兄上っ。……じゃない?」
それはあまりにも凛々しすぎる兄の姿。
両方向から掴みかかる相手を身をかがめて相打ちさせ、背後から羽交い絞めする敵の顎の下めがけて手を伸ばすと指をがっちりと入れ相手を引き倒す。そのまま鳩尾に蹴りを入れて昏倒させると、前から飛び掛かる敵の手を掴みながらかがみ、きれいな背負い投げでひっくり返した。
まるで死角が無いかのような、その華麗な立ち回り。
窮鼠猫を噛む。
と、いうよりネズミがいきなり虎になったかのような変貌である。
弟が呆然と立ちすくんでいる間に、男たちはすべて地上にのびてしまった。
「刀を使うまでも無かったな」
大きく息を弾ませて、得意げな忠助の声が響く。
「兄上、いつそのような体術を会得されたのですか」
真面目だが、勉学も剣術も今一つの兄の変貌に弟は興奮して問いかけた。
「まあ、努力はある日突然開花するものよ」
鼻高々の忠助。
しかし、闇に溶け込みかけている家々の輪郭を背景に、ほわりと小さな光の点が兄の頭上に浮かび上がっていた。
「ふん、左内様にくっついていたドリアンコウが操っていたとも知らずに、いい気なもんだよ」
おけいの額から離れたドリアンコウは、二人の内で、まあ少しなりとも努力して筋肉がついている忠助を選んでくっついたのであろう。
滔々と自慢を続ける忠助の言葉が止まった。
湯屋の輪郭が膨張してがさがさと揺れている。
「な、なんだこれは……」
湯屋に異変が起きていた。
風呂桶の衝撃で目の前が真っ暗になる左内。
倒れ伏す彼の頭に銃口が突き付けられた。
息を飲む石榴口の人質たち。
二間(約3.6m)先、にうつ伏せに倒れている左内に首領が短筒を突き付けている。
「その閃光にも似た太刀筋、一度見たら忘れることは無い」
頭上から首領の声が降ってくる。
ぼんやりと頭蓋の外で響く声を聞きながら左内はまだ朦朧としていた。
「敵ながら惜しいが、刀を持たすと獣に変化するお前を生かせておくわけにいかん」
首領が口をゆがめてにやりと笑う。
「お前とはもう少し戦いたかったのだがな、左内」
身元が割れた衝撃で、左内の目が開く。
「しかし……、お前が女だったとは」
違うっ! そこは違うっ!
全力で否定したいが、秘密を暴露するわけにはいかない左内は奥歯を噛みしめる。
「ど、どうにかならないのかね、お京っ」
ふり返ったお蝶は、背後の背の高い女の目がまたぞろ金色に光るのを見て息を飲んだ。
「栗饅頭……、桜餅……、羊羹……、落雁……」
女の口からぶつぶつと和菓子の名前が経のように漏れている。
「心配するな、奴が変なのはいつものことだ」
この方が言えることかどうかは疑問だが、ざんばら髪の物の怪はばんばんとお蝶の背中をたたき、にやりと笑った。
「むしろ、こうなれば一安心だ」
「御頭、こんなところで時間をとっては、またどんな横やりが入るか……」
後からやって来た頭巾をかぶった男が、首領に耳打ちする。
「まだ年端もいかぬ小娘だが、敵に回すと厄介だ。仕方あるまい」
首領は引き金に手をかける。
「動くな左内。少しでも動けば、人質の命は無いぞ」
銃口を掴もうと隙を狙っていた左内の指先が止まる。
「観念して念仏でも唱えておけっ」
言葉とともに、引き金が引かれる。
だがその時、銃口がぐいっと持ち上がった。
発射された弾丸が、左内の頭をかすめて湯屋の壁を貫く。
「な、なんだっ」
首領の制御を離れ、銃口は何か紐のような物で引っ張られ、石榴口の方を向いた。その銃口にはほのかな光が。
向けられた銃口に臆することなく、老婆の鋭い目が光り腕が一閃する。
お蝶の超絶技巧の投擲術はわずかに光る的を逃さなかった。
次の弾丸よりも早く、濡らされた瞬間冷凍装置が銃口に突き刺さる。
「うわっ」
あまりの冷たさに銃を手放す首領。
凍りついた銃はもはや使えるしろものではなくなっていた。
その隙に、手元に転がった刀を手に取り、左内が逆袈裟に切り上げる。軽やかに飛びのいた首領は、難なくかわすと逆に上段から左内に切り付けた。それを二の太刀でガチリと受け止める左内。
お互いに刀の付根で押し返し、一旦間合いを取る。二つの切っ先は、洗い場で睨みあいながら対峙した。
さすがに首領、隙が無い。
左内の額から汗が噴き出す。
首領が細い口笛を吹いた。
その時、石榴口の方から何かが落ちてくるような水音が響き、人質たちの悲鳴が上がる。
「残念ながら、これ以上遊んでいる暇はない。二階の窓から背後を取らせてもらったぞ」
その頃の湯屋の二階は男性専用の湯上り後の休息用空間であった。今でいうところのサロンである。湯を上がった客たちは、そこで碁を打ったり、お茶菓子を食べたりするのであるが……。
実はそこには窓があった。
窓は湯船に向かって開いており、上から下が覗きこめるようになっていたのである。二階が男性だけの空間であったからこそ作られた窓だったのかもしれない。
二階に上がっていた賊の一味はその窓から湯船に降り、石榴口の人質たちを背後から攻撃したのである。
隙を突かれてさしものお蝶たちもなす術なく、一塊になって白刃に囲まれている。
「もしかしてお前の主人はあの物の怪か?」
獲物を求めて揺れていた左内の刀が止まったのを見て、首領は余裕の表情で左内に尋ねる。
「ち、違う」
元来嘘が苦手な左内、言葉とは裏腹に焦りが顔面に浮き上がる。
首領の切っ先がすらりと左内の首に向けられた。
「心配するな、皆一瞬であの世に送ってやる。連れ立っていくあの世でも、きっとお前らは主従だろうよ。それにしても報われない奴だな左内」
そんな、寒気がするようなことを……。
左内の頬が上気する。のぼせているのか寒さがつのる。
吐く息までも白い。
白い……?
左内は足元のみならず、湯屋全体が白く凍っているのに気が付いた。
先ほどの冷却装置が暴走しているらしい。
みしっ、みしっ。湿気を含んだ木が凍って膨張しているのか、湯屋が不気味な音を立てた。
みるみるうちに痛いほどの寒さに変わる湯屋の中。
左内は肺の奥までが凍りつく様な息苦しさを感じていた。
「湯屋が凍っていくぞっ」
賊が叫ぶ。
「もう情け無用だ。人質は全員始末しろ。地下から抜け出す」
そう叫ぶと首領が左内に向き直った。
「まずはお前からだ、待たせたな左内」
その時、いきなり湯屋の戸が激しく叩かれた。
「誰かいますかあ、開けますよっ」
忠助の声だ。
「ええい、邪魔が入らぬうちに」
首領の刀が左内に向かって薙ぎ払われようとした時。
戸がぶち破られ、そこから何かがばさばさという羽音を立てながら湯屋の中になだれ込んできた。
それは湯屋の外壁にびっしりと張り付いていた蝶の大群であった。
たちまち湯屋の空間を埋め尽くす彼ら。
蝶、蝶、蝶。
左内と首領は一瞬のうちに蝶の厚い壁に隔てられる。
「お、お前……」
石榴口では殿が目を丸くしていた。
傍らのお蝶の手の動きに従って、蝶の大群が操られているのである。
蝶達はまるでイワシが海中で円を描いて泳ぐように、人質と敵の間を飛び回って厚い障壁を作り、賊たちが人質に切り込むのを防いでいた。
みしみしみしっ。
湯屋が傾く。
「逃げろ」
首領の声に賊たちは刀を治め次々に穴に飛び込んでいく。
「ちょっとまてっ、誤解したまま去るなっ」心の中の左内の慟哭は届かず、彼らは穴の中に消え去っていく。
「ほ逃げっ、ほこは潰れるよっ」
ふがふがしたお蝶の声が響く。
人質たちはその声にはじかれたように、我先に外に飛び出した。
お蝶に従って、蝶達も湯屋の中から飛び立つ。
次の瞬間、湯屋は音を立てて崩れ落ちた。
右京は砕け散った湯屋の残骸から、ドリアンコウの嗅覚で探し当てた冷却装置の作動を止めて回収している。
まあ、湯屋がつぶれたくらいで良かった。せっかく春が来たのにお江戸が冬に戻ってしまうところだった。右京の災厄に慣れきっている左内は安堵のため息をついた。
「さあ、装置さえ回収したら長居は無用。早く姿を消しましょう」
薄い月明かりの中、左内が殿の腕を引っ張る。
待て、とばかり殿は左内を制するとお蝶のほうに近づいて行った。
「ばばあ、やるじゃないか」
殿の方をちらりと横目で見て、肩をすくめるお蝶。
「お前ら、何者……、と聞きたいところだが。そこは聞かぬが花だな。ま、花と言っても萎れてはいるが」
殿の失礼な台詞に、お蝶は皺のよった口先をとがらす。
「ま、会ったのが50年前でなくてよかった。若いころであればお前に惚れぬきそうだからな」
殿の殺し文句に、お蝶の頬がほんのり染まる。
「でも、実は私じゃないんだよ、ほれだけの蝶を集めたのは、このほ栄様さ。厠に立つふりをして蝶を呼んだんだよ」
恥ずかしそうに俯く、お栄。
「あたしが蝶を呼び操っているうちに、ほ嬢様まで操れるようになっちまったのさ。最近はほ栄様の威力がものすごくてねえ」
現代において、同じ寮の女性達は月経が同期するという研究結果がある。フェロモンのなせる業とされているが、この2人は長年近くで暮らしていたためにフェロモンの性質までもが似通っていったのであろうか。
「さすが、蝶にもお栄の色気がわかるんだなあ、おおっと」
こけて倒れ込む……、ように見せかけて殿はお栄に抱きついた。
「おお、たまらない匂いじゃ。ワシも蝶になりたいものよ」
「きゃああああ」
お栄が悲鳴を上げる。
「地獄にお行きっ。恩をあだで返す、物の怪野郎がっ」
カッコ――ン。
何処から取り出したか、お蝶の持つ風呂桶の破裂音が響き渡った。
「我が主君ながら、は、恥ずかしすぎる……」
左内は頭を抱えた。
「どうやら、何かが陰で蠢いているようだな」
騒動から数日後。
左内は殿の居室に呼ばれている。
「あの者どもは……」
「最近、その勢力を増している田沼という切れ者の側用取次が居る。老中にもならんかという勢いのある男だ。あの者の家紋が七曜、すなわち黒い丸を七つ配した家紋なのだ」
「その者がなぜ我が藩を……」
「さあ、わからんが頂点を目指すものはその高みの魅力に取りつかれ、分を失うことが多いと申すからな」
天晴公は江戸城の方角に顔を向けてしばし黙り込む。
この方はもっといろいろな御事情を知っておられるのだろうか。御主君は馬鹿を装いながらも、妙なところで鋭く本質を見抜いておられる。
左内は女装しても魅力的な殿の横顔をじっ、と見つめた。
左内の考えを知ってか知らずか、殿はポンと手を叩き彼の方を振り向いた。
「そう言えば、あの湯屋には迷惑料を届けておいてくれたか」
「はっ、送り主の名前を伏して相応の金額を届けております。近日中に湯屋の再建もかなうかと」
左内は、殿の瞳の中にまた邪な光が閃くのに気が付いた。
「また、新築祝いに行ってやらねばなあ。お栄ちゃんの白い胸にも会いたいし」
「殿っ」
左内の目が吊り上る。
「左内、お前の唇を守ってやったのは、誰だったかのう」
殿はちらん、と横目で目の前に控える青年を見る。
こんなことなら、唇を奪われてしまったらよかった!
自分が作ってしまった負債の大きさに、左内は今更ながら愕然とする。
「ま、それはともかくお前には今度の一件でいろいろと迷惑をかけたな」
「いえ、これしきのこと……」
いつもの事ですから……口ごもりながら、左内は頭を下げる。
「いろいろと悟る事があった。心の内を書にしたのだが見てくれるか左内」
「私のごとき無粋者で良ければ、拝見させていただきます」
「迷惑をかけた詫びとして、お前にこの書をやろうと思うのだが」
「ありがたき幸せ。この左内、末永く片杉家の家宝といたします」
若い家老は頭を擦り付けんばかりにして平伏する。
「読んでみてくれ。我ながら名言だ」
「ははっ」
左内は一礼して藩主から書を押し頂き、読み上げた。
「浴場とは、欲情と見つけたり……」
カッコーン。庭先のししおどしの音が静かな部屋に響き渡った。
「はああああああっ」
春の日差しの中、がっくりと頭を垂れる左内であった。
次の更新は5/10ごろ予定します。