その12
床に倒れ込んだ左内。
「お前は私の趣味ではないが、生意気な小娘を蹂躙するのもまた面白いかもしれんな」
言葉とともに帯の最後のひと巻きが勢いよく引っ張られ、小袖の袷がはだけて肩から半分ずり落ちる。薄い灯りの下で桃色の肌襦袢が顕わになり、手を付いて上体を起こした彼の華奢な肩の色っぽさに、敵味方双方から小さなどよめきが上がった。
「おおっ、良いではないかっ、良いでないかっ。奴でなければもっと興奮できるのに、返す返すも口惜しい」
観覧席に逃れた殿が、脳天気につぶやく。
「あんたがそれを言うか……」
あきれ返ったお蝶が隣で肩をすくめた。
味方の援護も無い絶望的な劣勢にもかかわらず左内の細い目は、射抜くようにじっ、と上方から自分を見下ろす敵を睨みつける。
「ふん、小賢しい小娘め。こんな奴には容赦なく男と女の力の差を思い知らせてやらなければならんな」
言葉と同時に、筋肉質の腕が足下に横座りになる獲物に伸びた。
あわや、左内は首領の手の中に……。
しかし。
「お、お前」
横座りという動きにくい体勢にも関わらず、左内は素早く相手の手をかわし、飛び下がる。まさに電光石火。今までとは、全く次元の違う素早い動きに、首領の眉が吊り上る。
するりと脱いだ桜の花びらのの舞い散る白い小袖をふわりと羽織った少女は、一間ばかり間合いを取って佇みながら首領の様子を見て不敵な笑みを浮かべた。
足は肌襦袢の裾を押し広げるように前後に開かれ、身体を斜めに向けた半身の構え。手にはせめてもの武器のつもりか、風呂桶を掴んでいる。戦闘態勢を整えた姿に、乱れた肌襦袢の合せから覗く肋骨が不釣り合いで、妙に艶めかしい。
「礼を言わねばなるまいな首領。まさか、帯を解いたくらいでこんなに息がしやすくなるとは思わなかったぞ」
帯で締めつけられていた間、相当苦しかったのだろう。これ見よがしに大きく息をする左内。
「息さえできればこっちのものだ。邪な考えが墓穴を掘ったな、首領」
「おのれ、御頭を愚弄するかっ」
我慢しきれなくなったのか、後ろから短刀を持って飛び掛かる手下。
左内は回転しながら短刀で桶を貫かせる。小袖でその顔を叩き、そのまま小袖を相手の頭にかぶせて視界を奪って手刀で首の後ろを強打した。
崩れ落ちる手下の鳩尾に、とどめの一打が見舞われる。短刀が刺さった桶が、傾斜のある湯屋の床をころころと転げていった。
無駄の無い動きはまるで桜の花びらの精が舞を舞うかのごとく。
可憐な少女の外見からは想像もつかない、鬼神の動きに敵からもどよめきが上がる。しかし、それと同時に左内を手下たちの厚い壁が取り巻いた。
「どのみち、我らの正体を知っているような物の怪ども三人はここに置いてはいけない。生け捕った奴に、そいつを褒美として与えるぞ」
首領の声に、手下から歓喜の叫びがあがる。強い美少女というのは何時の世代にも、憧れの対象なのであろう。
軽く小首を傾げながら油断なく周囲に目をくばる左内。帯と小袖を脱いでからというもの、身のこなしが格段に軽やかになった。全身から立ち上る闘気は全開で、むしろ優位な敵方が気おされている。
背後から突進してくる相手の気配を感じ、左内は素早くその身を小さく折りたたむ。小柄な体躯が幸いして、勢い余った相手は左内につんのめって、前方の味方を巻き込みながら倒れた。一人対多数というのは、一度に全員が攻撃すると対角線上の味方と相打ちする可能性があり、数の優位がそのまま弱点にも繋がってくる。
「この、小娘め」
今度は左右から男たちが左内に向かって襲い掛かって来る。左内は、驚異的な動眼視力で両脇の相手の手を掴み、交差させる。そのまますばやく左右の相手の肘を合わせて捻じりあげ、腕拉ぎをかけた。悶絶して固まった二人を、自分を軸にした円弧を描いて振りまわすと、円陣に放り投げる。包囲の一画が崩れたのを見て、左内は小走りに湯屋の広い場所に移動した。
これで3人。
左内は心の中で叫ぶ。
しかし、敵の数は当初13人。先ほど侵入した賊が6人。まだ16人もいる。
「こいつ手ごわいぞ。切っても良い、油断をするな」
茶色の髪をした副首領らしい男が叫ぶ。
それとともに目の前の男が長剣を抜いて突進してきた。まだ生け捕りの目もあると思っているのか相手の太刀筋に若干の手ぬるさがある。それを見逃さない左内は小柄な体を利用して相手の懐に潜り込んだと同時に肘鉄を喰らわせた。
前のめりに倒れ込む男の長剣を奪う。
「あと、15人」
高い湿度もあいまって、左内の額からは汗が噴き出す。それを手で拭って、彼は敵の刃に向かった。殺生を好まない彼は、一人ずつ着実に峰打ちで仕留めていく。
「あいつ……」
副首領が首領の方を振り向いた。
首領は首を縦にふる。
「流れる星のような速さ、そしてあの太刀筋。これをなし得る人間は、ただ一人しか知らぬ。と、なれば容赦は無用だ」
左内は必要最小限の動きで着々と相手の戦力を削いでいく。敵が着替える時にその古傷をすべて記憶していた彼は、できるだけ相手の弱点を付いて攻撃を仕掛けていた。
「あと、12人……」
ただし左内の目の前の敵は5人に減っている。後は2階や人質の見張りに当たっているのであろう。だが残りの5人は皆、手練れの匂いが漂っている。
包囲の間は空いたが、それは相手にとっても左内に斬りかかりやすいという事でもあった。左内に倒された賊は、みな隅に寄せられて介抱されている。足元に障害物が無いということは自分も動きやすいが、もちろん相手にとっても動きやすい。
戦闘は激しくなる、そして左内に不利になることが予感された。
「そろそろ一気にやってしまえ」
四方から白刃が左内に襲い掛かる。
その時。
左内を囲んでいた賊たちが、叫び声をあげるともんどりうって次々に倒れ始めた。
「な、何が……」
左内が下を見た瞬間、円盤状の物体が足元めがけて滑り込み、かれは慌てて飛び上がった。
「おバカっ、味方倒してどうふんだよっ、もっほ正確にお狙いっ」
ちょっとふごふごしているがお蝶の怒号が湯屋に響く。
見るといつの間に石榴口に移動した人質たちが、なみなみと湯が入った風呂桶をひっくり返すと次々に床に滑らせているではないか。
いや、正確に言うと湯が入った風呂桶に右京がいちいち何か棒のような物を差し込んでいる。
「あれは、奴が冷やし飴を凍らせる時に使っていた棒だ」
左内は湯屋に来る時に、一人で右京が氷をしゃぶっていた姿を思い出した。
風呂桶一杯の湯は凍らされて、さらに体積が増え風呂桶から盛り上がっている。
彼らは氷の面を下にして、板張りの床に滑らせているのだ。
湯屋は脱衣場が濡れないように、脱衣場から石榴口まで傾斜がついている。相手に当たった風呂桶は、そのまま一番低い石榴口に居る彼らに戻ってくると言う寸法だ。おまけに湯は背後の湯船に沢山ある。足元への攻撃は間断なく続けられた。
倒れた敵を次々に昏倒させていく左内。彼がふと人質たちが元居た場所に視線を向けると、人質の見張りをしていた賊もいつの間にか床に倒れ伏していた。
「倒したのは、お蝶たちか……?」
背後を見ると、殿の横でお蝶を初め、お栄の付き添いの女たちまで襷がけをして奮闘している。気が付かなかったが下女達の身のこなしも無駄が無く、なにやら堅気とは違った気を発していた。
「何者だ。まあいい、敵ではないだろう」
左内の集中が途切れた一瞬。
物陰から賊が左内に斬りかかってきた。
「ああっ」
右京は叫ぶと、空の風呂桶を投げつける。
カッコ―――ン。
敵では無くて、左内の頭に命中した風呂桶。結構な衝撃に、左内の身体がぐらりと倒れる。
「く、口で言え……」
倒れたおかげで刃はかわせたが、貧血気味の彼はそのまま昏倒してしまった。