その9
「あ、兄上、この玉の肌……まるで匂い立つ様ではありませぬか」
「おお、先だっての女性化も膨れた胸を触ることができるという点では良かったが、やはり危絵も良いのう」
忠助、忠太郎。能天気なお小姓二人組は、美行藩上屋敷の小姓衆長屋の陰で、何やら絵を見ながらこそこそと密談している。
「第一、触れると言っても相手がお前ではなあ」
「えっ、そうですか。兄上だって、けっこう楽しまれていた御様子だったのに……」
ちょっと不服そうな忠太郎。しかし、彼は口先を尖がらせながらまた手元の絵に視線を落とした。そこには肌も顕わな複数の女性達の群像が描かれている。
「しかし、次郎兵衛の錦絵は本当に上手いなあ。見ろ、このふっくらとした胸と尻……」
「兄上、通はこの柔らかな二の腕の肉を好むといいますよ」
「ちょいと、あんた達」
物陰から二人に声がかけられるが、有頂天の尾根角兄弟の耳には全く入っていない。
「二の腕の肉とか、太ももの内側の肉はこう湯屋でもないと拝めない場所だからなあ」
「ええ、あと好き者はこの足のつま先が堪らないと聞いたことが……」
「ねえ、ちょいと、お二人さん」
「つ、つま先か……」
忠助の鼻息が荒くなる。
「ええ、指と指の間がまたイヤラシイそうで、こう尖らした足の指できゅきゅっと踏まれるのもまたこの上なく良いものだとか」
「おおおおお、なんと我ら小人の想像の域を超えた大人の世界なのだ。わ、私もぜひ機会があれば華奢な足指を味わって……」
どかっ。
「味わうがいいさ、このポン助がっ」
憤怒の形相を浮かべたおけいの飛び蹴りに、忠助の頬にくっきりと鶏の足型が刻み込まれる。
「お、おけい」
目を丸くする忠太郎の額にも、情け容赦なく足型が刻み込まれた。
「御家老様の一大事に、何を馬鹿なことをくっちゃべってんだい」
「え? 今日御家老様は殿のお供で菩提寺にお墓参りに行かれると聞いていたけど」
「あの殿が殊勝に墓参りなんぞするわけはないじゃないか」
返す言葉も無く、二人は黙ってうなずく。
「それに、あんたたちお小姓だろう。この時間に殿が寺からお帰りにならないってのは変だと思わないのかい」
職務怠慢を鶏に糾弾されて、ますます二人は小さくなる。
「実はさっきドリアンコウが私に見せてくれた光景に、忠助を誘拐したあの忍者装束の一味と左内様が見えたんだよ。きっとドリアンコウは右京か殿にくっついて……」
ん? そこで鶏は言葉を切る。
「なんだい、それは」
「あ、こ、これは、なんでもない。男のたしなみというものだ」
慌てて忠助が足元に落ちていた危絵を隠そうとしたが、おけいの足が一瞬早く、その紙の端を踏んづけた。
「お見せ」
忠助はしぶしぶ絵をおけいに渡す。
淫らな女人の姿に、ちらりと鶏は少年たちを睨んだ。しかし、その件には触れず意識を絵に集中する。
絵の中の女たちは突っ立っているのではない。板張りの床の上に座ってお互いに身体を擦りあったり、四角い水槽に入った湯らしきものを桶で身体にかけたりしている。女たちの背後にはどこの社殿かと思うような派手な装飾が施された小さな入り口があり、今まさにそこを潜り抜けてこちら側に出てくる女性も描かれていた。 すこし離れた場所には服を脱ぐ女たちもいて、隅っこの高くなった場所には女性が座っている。そこと先ほどの場所は同じ床張りであったが、青竹を渡した溝で境されていた。おそらく水が脱衣所に流れ込むことを防ぐためであろう。
「こ、ここは……?」
おけいの目が吊り上る。
「ゆ、湯屋だけど。身体を洗って湯に浸かるところだよ。ま、鶏のおけいさんには関係の無い場所だよね」
「あるわよ。おおあり」
おけいは絵に落していた視線を上げ、双子をまっすぐに見据えた。
「まさに、今左内様たち御一行がいるのはここ、湯屋なんだよ」
「湯屋?」
素っ頓狂な声を合わせて双子が叫ぶ。
「脱獄犯がひそめるようなところだ、きっと小伝馬町の牢獄からそんなに離れていない場所だよ。さ、加勢しに行くわよ、あんた達」
ここ、美行藩江戸藩邸から小伝馬町の牢獄まで半里(約2km)足らず、若年の彼らの足でも四半時(30分)もあれば近くには到達すると予想できる。
常日頃からお世話になっている御家老様の大事、さすがに怠惰な双子も目の色が変わっていた。
「ところであの役に立つんだか立たないんだかわからない美形好きの鷹達は?」
以前、自分が誘拐されそうになったとき見捨てられそうになった遺恨があるのか、忠太郎が棘のある物言いで尋ねる。
「あの子たちは今鷹狩に出ていてね。さすがに自由がきかないらしいんだよ」
おけいは残念とばかりに首を振る。しかし、あの美形が多い忍者軍団に対し鷹姉妹がどれだけ戦力になるかは、忠太郎ならずともはなはだ疑問である。
「御家老様には、毎度毎度お世話になっている。我らが命に代えても、御家老様の窮地をお助けせねば」
兄らしく、忠助が叫ぶ。
「ええ、兄上。私も同じ所存です」
「良く言ったわ、さ、行くわよ二人とも」
少年たちの凛々しい顔を見て、おけいは腐っても武士の子、とばかりうなづく。
「兄上、もし我らが手柄を立てたら」
忠太郎が兄の額に顔を擦り付けるように近づいてささやく。
「もちろん、ご褒美がいただけよう」
にやりと意味ありげな笑みを浮かべる忠助。
「そ、それでまた新たな危絵を!」
「お前も好き者だなあ、忠太郎」
「兄上こそ、真面目な仮面のその下には……」
「もちろん、お前と同じ血が流れておるわ」
ひーっひっひっひっ。
「この大馬鹿者どもっ」
風を切る音に振り向いた二人が見たものは、目の前に大きく迫る鶏の足だった。
「おい、女。御頭に何をしたっ」
部下が崩れ落ちた首領の周りで、慌てて頸部の脈をとったり、胸に耳を付けて呼吸音を聞いたりしている。
「心配するな、寝ているだけだ」
右京が声をかけても賊からの返事は無く、その代り鼻先に研ぎ澄まされた刀の先端が付きつけられるのみ。
「おい、その女の口中を改めろ」
首領の補佐役らしい男が叫ぶ。
まずい、近くで顔を照らされたら伸びてきた髭が顕わになる。
左内の顔が硬直する。
「おい、お前。お蜜とか言ったな、口を開けろ」
殿の口の前に刃が突き付けられた。
万事休す。
しかし、このまま何もしないわけにはいかない。
殿は鼻の下は伸びるが、幸いなことに鼻の下に髭は伸びない。とりあえずは顎髭だけだ。
これを何とかせねば。
「おっ、お待ちくださいっ」
左内が殿の顔を抱きかかえるように飛びつく。
「ふっ、ふがあああっ。お前、何をする」
息苦しいのか、殿が暴れる。
そのまま左内は殿の顎の周りを殿が脱ぎ捨てた半襟で包むと頭の上で縛り上げた。
「どうした女。なぜ顎を包む」
「お、お蜜様は、お口を大きくあけると顎が外れてしまうのですっ」
火事場の馬鹿力とは良く言ったものだ。
しかし、思いもよらぬ出まかせに一番びっくりしているのは、他でもない左内自身であった。
「変な女だな」
殿の口の中に蝋燭が近づけられ、医術を受け持っているらしい優男が一通り検分する。毒物を隠していた痕跡が無いことを確かめると、その男は殿に口を閉じる許可を出した。
首領を昏倒させた張本人である殿の周りにはまるで花が咲いたかのように白刃が集まっている。なんとか顎髭は隠せたものの、さすがの左内もこれ以上はなす術がない。
「御頭を元に戻せ。さもなくばお前らなますに切り刻むぞ」
本気だとばかり、殿の周りの刃が皮膚ぎりぎりのところまで近づけられる。
「寝させておいてやれ。ほっとけば、起きてくる」
さすが、男女の修羅場を掻い潜ってきているだけあって殿は動じる様子を見せない。しかし、それが賊の怒りを逆なでするようで、現場は一触即発の空気に包まれていた。
なんとかならないのか、と左内は右京に視線を送るが、右京はお手上げと言わんばかりに両手をかるく広げて首を傾げるのみ。
横たわっている首領の周りでは、部下たちが張り付いて介抱に当たっている。皆一様に悲壮な顔つきで、首領の求心力がいかに強いかが見て取れた。
「息もあるし、唇の色も良い。脈も乱れていない。お命には別条ない様だ」
診察をしていた優男が顔を上げてうなずく。部下たちから一斉に安堵の息が漏れた。
その時だ。
「皆、安心しろ。私は大丈夫だ」
言葉とともに首領がぱちりと目を開けた。
「窮鼠猫を噛む、の例えもある。人質には危害を加えるな」
「御頭、御気分は?」
「ああ、頭の芯がまだふらふらするが、すぐに晴れよう。しばらく2階で休む」
部下の手を借りずに2階に通じる階段を登ろうとして、首領は何を思ったかくるりと振り向いた。
「お蜜、とやら。我が方のくノ一にも勝るその技、いつか打ち破って見せようぞ」
「ふふん、百年早いわ」
顎を半襟で隠してますます妙な風体となった殿は、鼻で笑って首領の視線をはねつけた。