その8
唇など減るものではない。
がっちり壁に身体を押さえつけられながら、左内は自分の本能に言い聞かせるように繰り返す。
ここで、反撃しては今までの我慢も水の泡だ。
あくまで、町娘のようにふるまわなければ……。
命を取られるわけではない。接吻くらい我慢しろ。
と、思いつつも左内の顔は、知らず知らずのうちに相手から逃れようとする。
「おまえ、生娘か」
相手の身体の硬直に気づき、まるで獲物をいたぶるように首領が面白そうに尋ねる。
こいつ、楽しんでやがる。
公衆の面前でこんな目にあうとは……悔しさの余り、左内は顔を紅潮させた。
「お前は幸運だぞ。心配するな、忘れられないひと時にしてやるから」
耳から入る首領の言葉がそのまま背中を悪寒となって走り抜ける。
相手の息が左内の頬にかかる。
ち、近い……。
思わず目を瞑って唇を結んでしまった左内。
だが、それが予想外に相手を興奮させてしまったようで、左内の手首を掴む力はますます強くなる。
相手の荒い息が左内の唇にかかった。
く、来るっ。
左内は息を詰める。
しかし。
次の瞬間、唇に予想していた不快な感触は訪れなかった。
そればかりか、急に彼の両手首を万力のように掴んでいた首領の手の力がすうっ、と抜ける。
何が起こったのだ。
左内はおそるおそる目を開く。
次の瞬間。目いっぱい開かれた彼の黒目は、点となった。
彼の目の前には信じられない光景が繰り広げられていたのである。
な、なんと、あろうことか、当の首領が唇を奪われている。
その唇の先に目を転じると……。
殿!
なんと仁王立ちになった殿が、首領の顔を両手で捻じ曲げて彼の唇を自分の唇で塞いでいるではないか。
殿の両頬は口腔内の運動を反映しているかのように、凹み、時折波打つ様に動く。
強面の首領の目はかっ、と見開かれ、眼は虚空のあらぬ方向に向いている。
そのまま、黒目はゆっくりと上転し、眼球の中から姿を消した。
左内の手首から滑り落ちた両手はぴくぴくと痙攣し、主が自らの制御を失ったことを顕わにしていた。
殿、いや、千人切りのお蜜様は左内の視線に気が付くと、接吻をしながら余裕綽々でにやりと微笑みを返した。
殿の頬が、とどめとばかりいっそう小刻みに動く。
次の瞬間。床に大きな音が響き渡り、腰から崩れた首領がしりもちをついた。
「見たか、せいぎで勝つっ」
殿は仁王立ちのまま、唇を腕でぐいとしごいた。
「ねえ、お蝶。お蜜さんの言い方はおかしいわ。正義は勝つよね」
小声でお蝶に尋ねるお栄。
お嬢様の無垢な質問に無言で目を閉じる、これまた百戦錬磨のお蝶。
気の毒に、説明しづらい所であろう。二人の様子を横目で見ていた左内も溜息をつく。
殿の言う「せいぎ」は、「性技」なのだから。
「わしの性技は向かう所、敵なしじゃっ」
狂い咲きの曼珠沙華は、下品に呵呵大笑した。
自分の陥った状態が信じられず、呆然自失といった首領に慌てて部下が駆け寄る。その手を振り払い、よろよろとだが自ら立ち上がる首領。
「我が可愛い女中を思い通りにされてたまるものか、おさなに手を出したければまず我が唇を超えて行けっ」
左内の手をひっぱり、自分の後ろに匿いながら天晴公が啖呵をきる。
いつもの軟派ぶりからは想像もつかない、男、いや女ぶりである。
「い、いえ、お蜜様の大切な唇、これ以上奴らの不潔な唇で汚すわけにはいきません」
「悪かったな、不潔で」
多少ばつの悪そうな表情を浮かべながら、首領が左内を睨みつける。
左内は殿を庇おうと、前に出ようとする。
しかし、殿は手を大きく左右に広げて頑として左内を前に出そうとはしない。
「と……、いやお蜜様」
感動のあまり声を詰まらせる左内。
「おさな、さがっておれ。小娘にはこの修羅場は無理だ」
守るべき主君に、逆に助けられている。
押し寄せる感謝の気持ち。それとともに自らのふがいなさが身に染みる左内。
「気にするな。たまにはわしの御乱行も役に立っておろう」
殿は意味ありげに背後の左内をちらりと見る。
その目ははっきりと『貸ひとつ』と告げていた。
「ははっ」
何処で借りの清算を要求されるか……。
一抹の不安はあるものの、今回ばかりは殿に救われた。左内は神妙に返事をする。
「三人の中でも、お前は輪をかけて奇妙な女だな」
首領が殿を睨む。
しかし、その視線は今までのものとは違っていた。
「だが、黒星の方とは聞き捨てならぬ。今から、じっくりと尋問してやろうぞ」
首領は殿の方に一歩踏み出した。
すわ、殿の危機。
左内は姿勢を低くして戦闘態勢に入る。
しかし。
目の前の首領の姿は、いきなり大きな音とともに床に沈んだ。
「わははっ、見たか。これがわしの必殺技。時を経てから効いてくる、遅効五体落としじゃ」
「そ、そんな技……いつの間に」
絶句する左内。
「好きものの上手なれというではないか。我が道を心のおもむくまま邁進していたら、歓喜天の思し召しか、知らぬ間にこの技が完成されていたのだ」
好きこそものの上手なれ、その言葉はもっと健全なことに使われるべきなのでは。
ひっそりとため息をつく左内の姿など眼中になく、してやったりとばかりに鼻高々の殿。
「強い性的快感の後では、催眠物質や心を満たす物質が頭の中から分泌される。殿の超絶技巧で、奴の頭の中に抗しきれないくらい異常なほどの液性物質が溢れだしたのだろうさ」
右京がつぶやく。
「わははっ、わしがむざむざと寝させると思うかっ」
殿は再び唇を奪おうとばかり、首領の襟首を掴もうとする。
配下の者が、目を吊り上げて殿に刃を向けた。
「ここからが本番じゃあ」
「お蜜様っ、お、落ち着いてください」
左内が慌てて殿を羽交い絞めする。
まるで、手綱を解き放たれた暴れ馬。
なんだか殿がとっても獰猛になっている……。
左内は殿の顔をまじまじと見た。
その途端、御家老様の血の気がさーーっ、と引く。
ひ、髭がっ。
殿の顎には、むくむくと頭をもたげた黒い点々が一面に散っていた。
おけいは空腹だった。
春になって頭が宙に浮いている、忠助忠太郎のお小姓コンビが餌を持って来るのを忘れているのだ。もう夕方になろうというのに、彼女の餌箱は空のままである。
さすがに空腹に耐えきれず、餌になりそうな獲物を探しがてら彼女は白い尻をふりふり藩邸内を闊歩していた。
「今日はなんだか静かだったわね。そういえば左内様の姿もお見かけしないし」
地鶏ならではの跳躍力で、ひょいと縁側に飛び乗ると大好きな御家老様の居室の障子を嘴で開けてそっと覗いてみる。
「何かしら、あれ」
左内の部屋には、シンプルな造りだが欅の木目が美しい文机が置かれている。
その上に、白くて細長い書状が置かれていた。
文字も解する鶏は、それを見て息を飲む。
なんと、その表紙には「遺言状」と細い文字がしたためられているではないか。
「またあのアホ藩主が何か良からぬことをして、巻き込まれたのに違いないわ」
ばたばたと羽を動かしながら、おけいは慌てて部屋を出た。
と、その時地べたに芋虫のような物が這いずっているのに気が付いて、空腹の彼女は反射的に口にくわえる。
その土に汚れた細長いものは、くわえられた苦痛からかにょろにょろと暴れ、おけいの目と目の間にくっついた。
「え……」
思わず嘴を緩めるおけい。
彼女の頭の中には、思いがけない光景が広がっていた。
板張りの床の上でうずくまっているのは、小伝馬町送りになったはずの首領。そして配下らしき者どもがこちらに刀を向けている。
そして、傍らには……。
姿は変われど、見間違うはずはない。
女性に身をやつしてはいるが、あの伏し目がちな切れ長の目に、これ以上無いくらい絶妙なバランスを持つすらりとした鼻筋。
あれは、御家老様っ。
「おいたわしい。また、妙なことに巻き込まれておいでだわ」
しかし鶏の頭の中の左内の目は真剣で、状況が緊迫していることを物語っていた。
「あんたは、ドリアンコウね」
右京の家から這い出てきたのだろう。おけいの目の前で、土に汚れた身体をくねらせて細長い奇妙な生き物がはい、とばかりに縦に揺れる。
おそらく前の騒動の時に左内にくっついていたドリアンコウであろう。
「長い道のり、危険も多かったろうに。心配で来たんだね……あんたも左内様が好きなのかい」
再び、縦に揺れる透明な芋虫。
「また、恋敵が増えちまったよ。それにしても、左内様は鷹ばかりじゃなくて芋虫までにもてるとは。身の程知らずの人外のものから大人気だねえ」
おけいは自分の事を棚に上げて独り言をつぶやく。
その途端、ドリアンコウがおけいをぴしゃりと叩いた。
身の程知らず、が気に障ったらしい。
「あんた、やる気かいっ」
羽をバタつかせて、ドリアンコウの先端に砂埃を舞い上げるおけい。不意の目つぶしに暴れるドリアンコウ。
早速の仲間割れである。
「ん、なんだか目の前に砂埃が……」
湯屋の中で殿が首を傾げる。
「気合を入れ過ぎて、頭の中が弾けているんでしょう」
状況を理解していない右京が、のんびりと欠伸をした。