その7
「わしは懲りたからな、今回は少なめで行くぞ」
左内の脳裏に出発前の殿の言葉が蘇える。
右京がもう少しと勧めたが、此度の殿はお猪口に一杯だけ例の禍々しいピンク色の薬を飲んだだけだった。前回のあれが相当こたえたのであろう。
と、いう事は湯呑一杯しっかり飲んできた左内達よりは、早めに女体化が解除されることが予想される。
「と、と……いや、お蜜様」
いつになったらお蜜に慣れるんだといった表情で殿が左内を睨む。
「なんだ、おさな」
「え?」
それは何の事でしょうとばかりに聞き返す左内に、殿は無言で指を左内に向ける。「さない」の冒頭2文字をとって、おさな。という訳だ。
「おさなとお京。ここからは何時出られるのかしらねえ。薬の時間もあることだし」
お京とはもちろん右京の事である。殿も内心では男性に戻る時間を気にしていたのだと解り、左内はほっとする。
「よかった、一応通常の神経もお持ちなのだ……」
ふと、漏れた独り言に左内は口を押えて慌てて周囲を見回す。幸いにして殿はお栄の気を引こうと一生懸命話しかけていて左内の失礼な発言には気づいていない。
その傍らではお蝶が、賊の一人に交渉していた。
「八つ(14時ごろ)に来てさ、もうかれこれ夕七つ(16時ごろ)。さすがに店の者が不審に思ってこちらに迎えに来るころだよ。あんたたち騒ぎになっちゃまずいんだろ、こっちも危害は加えられてないんだ、口外しないと誓うから、さっさと解放しておくれよ」
「さっきからうるさい婆あだな」
賊は脅すようにお蝶の鼻先に刃を突き付けた。
「迎えの者が来たら、番台の婆あにしらを切らせて、それでもしつこいのならここに引きずり込むまでよ」
「一体何を待ってるんだね」
「なんでそんなことお前に言わなきゃならないんだ。それ以上御託を並べるんなら、その口に刃を突っ込むぞ」
「はん、あたしの真剣白歯取りを知らないね」
にかっ、と笑った老女の歯は、予想に反してピカピカの真っ白だった。おそらく入れ歯であろう。江戸時代の入歯は柘植の木を土台にして自らの抜けた歯や他人の歯を使って作られていた。細工が得意な仏師が請け負っていたらしく現代のものと比べてそうそう見劣りしない出来であったらしい。
「ちぇっ、口の減らねえ婆あだ」
そこへ二階で仮眠をとっていた首領が戻ってきた。
「繫ぎはまだか」
「ええ、場所がわからずに迷っているんじゃねえかと……。何しろ6年前の足袋屋の明石屋が出した火事でここいら一帯が焼けちまったもんで、抜け穴を掘った当時とはえらく街並みが変わってしまってますからねえ。それに加えて最近ここが湯屋に変わってしまったんでいっそう当たりがつけにくくなってるんじゃないかと思います」
通称、明石屋の大火。宝暦10年の2月に神田旅籠町一丁目の足袋屋明石屋が火元となり、神田、日本橋、浅草と460町にわたる広い範囲を焼き払った有名な大火である。何しろ江戸は木と紙の町。ひとたび火災が起きると条件によっては火は留まるところを知らぬくらい燃え広がり、甚大な被害をもたらすのである。
「ふん俺達を見下しているのか知らぬが、武家の奴らは仕事が粗いな。お前、日が暮れる前にひとっ走り行って探してこい」
腕組みをした首領は、風呂焚きの男の着物を脱がすと、部下の一人にそれをあてがい、偵察に出した。
「武家の奴ら……」
左内の耳は首領のつぶやきを捉えていた。ドリアン騒動がなぜ起こったのか、この者達の後ろで糸を引いている者は何者なのか。ここは穏便にやりすごしたいという気持ちと、詰問して物事を明らかにしたいという気持ちが胸の内でせめぎ合う。
やっぱり、殿の御身と我が藩が第一。
ここは沈黙が一番。と左内が心に決めた時。
「お前らはなんで、牢獄にとっ捕まったんだ?」
能天気な殿の質問が首領に飛んだ。
「やっぱり黒星が重なる奴からの仕事は縁起が悪いのか?」
「なに?」
銃を殿の方に向けて、鋭い目で首領が殿の方に近づいてくる。
「お前一体何を……」
「お、お蜜様っ」
殿を庇うように、慌てて前に座る左内。
「すみません、ご容赦ください。お蜜様は時々お気が触れますもので……」
このあたり、すらすらと台詞が出てくるのは半分本心も入っているからであろう。
「どけっ」
「どきませぬ」
左内の額に短筒が押し付けられる。
目を開いて、首領を睨みつける左内。点火までに手順を要する火縄銃など恐るるに足らない。
しかし。
「気を付けろ、その銃には火挟みが無い」
右京の声が響いた。
火縄銃は火挟みにつけられた火縄が火皿に落ちて火皿の導火線が点火して発砲する仕組みである。火を付けた縄を挟む場所が無いという事は、すなわち火縄を使うタイプの銃ではない。
左内の頭は短筒に関する知識を総動員して、現在の状況を分析する。
火縄でないとすると……。そういえば、風の噂で火打石を使った銃があると聞いたことがある。確かその銃は不発の事が多く、火打石で発火してから弾が出るまで若干の時間差がある上に、衝撃も加わるため命中率が悪いとの事だった。ならば強気に出ても最初の一撃はかわせる可能性が高い。
「その銃は、だ、誰が作ったんだっ」
それにしても、こんなに取り乱した右京の声を聞くのは初めてだ。
この銃はまさかもっと性能の良いものなのか。
「くっそおおお、私に匹敵するくらいの頭の持ち主がいるなんて、全く持って気に食わないっ」
そこか。お前の一番言いたかったことは。
左内の張り詰めた気持ちがぷつんと切れる。
しかし、所詮火縄銃。すぐに発砲はできまい。
結論付けるや否や、左内は額の前の筒を素早く左手で握る。そのまま大胆にも、彼は銃口を真上にはね上げた。
パシュッ。
小さいが、鋭い音がして、天井からぱらぱらと木片が降ってくる。
し……ん。
一瞬遅れていたら、額を貫通していた。さすがの左内も蒼くなる。
「言い忘れたが、それは火打ち石式ではない。もっと進化した短筒だ。おまけに音消しの機巧まで付いているぞ」
今更ながらの右京の解説。
「そ、それを早く言えっ……」
狼狽を隠しきれぬ左内を見て、首領が笑い声をあげる。
「わざと外してやったのさ。いいか、これは玩具じゃない。わかったなら大人しくしろ。それにしても妙な奴らだな。御新造は妙なことをぬかすし、連れの二人はカラクリ通と妙に度胸の据わった娘と来ている」
首領の鋭い目が左内の方をじっと見る。
「ん。お前、どこかで会ったか?」
「そ、そんなはずは」
慌てて顔を反らし、俯く左内。
「最初からお前はどうも気になっていたんだ。すり足で、重心が軽く右に傾いている……」
銃を肩にかけた首領は無抵抗の左内の両手首をがっちりと掴み、ゆっくりと立たせると壁に押し付けた。いかにも反撃してみろと言わんばかりの隙だらけの行動である。
「お前の歩き方は、重い刀を普段から左腰に付けている武士の歩き方だった」
首領の顔が近づくと、左内の鼻にあの臭いが漂ってきた。
もう、ドリアンの匂いは沢山だっ。
左内は胸の内で悲鳴を上げる。
「何を躊躇している、娘。反撃したいのではないのか」
ここでばれてはすべてが終わる。
敵が間合いに入れば、意識するより早く手足が反撃に出る。そういった訓練を積んでいる左内は今にも自らの意思に反して動き出しそうな手足を抑えるのに必死だった。
怒りも加わって、思わず手足が震える。
「ほう、震えているのか」
何を思ったか、新首領の身体が左内の方に覆いかぶさってくる。
はたから見れば、まるで睦みごとに向かう男女の趣。
ごくっ。
湯屋に誰かが生唾を飲みこむ音が響いた。
誰が飲み込んだは見当が付いているが、戦意を喪失しそうなので左内はその記憶を慌てて脳内から消す。
「ちょうど良い。牢内では禁欲が長かったからな」
これでも攻勢に転じないか、とからかうような声。
嫌な予感に左内は慌てて顔を伏せる。
「久しぶりに娑婆に出たことだしきれいな娘の唇でも吸って、験を担ぐとしようか」
「私の不運がうつるぞ、いいのか」
精一杯の抵抗は言葉のみ。
しかし答えは無く、逃げる左内の唇を追って首領の濃い顔が迫ってきた。