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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
春が来た来た! 美行藩
26/110

その6

 賊の全身からかすかに立ち上るドリアンの匂い。

 目の前にいる精悍な顔つきの男は、ついひと月前に左内が切結んで命のやり取りをしたあの首領である。その顔は忘れようにも、忘れられるはずがない。

 左内は自分だと気付かれないように慌てて顔を伏せた。

 銃を持った男の後から次々に男たちが飛び出してくる。彼らは銃こそ持っていないが、白刃を光らせて一瞬のうちに湯屋を埋め尽くしてしまった。

 この一団は、忠太郎をかどわかし、隣の曽根美濃(そねみの)藩邸にドリアンの種を盗みに入ったあの男たちに相違ない。未決囚として小伝馬町の牢獄に収容されたと聞いていたのに。

 それがなぜ、ここに。

 考えている暇はない。

「おい、婆さん。入り口を閉めろ」

 その声とともに湯屋の入り口の木戸が閉められ、脱衣場は人の形がやっと見えるほどの暗さになった。

 まだ、二階がある。今の薄い守りなら突破できる。

 その頃の湯屋は男性限定であるが、湯上り後に将棋をしたり、茶菓子を飲んだりしてくつろぐ場所が二階に作られていた。

 左内は殿を抱き起して二階に通じる階段に駆け込もうとしたが、自分より大柄な体でその上意識が朦朧(もうろう)としているため重心が定まらない。女性化した非力な左内では、抱え上げるのは無理であった。

「う、うきょ……」

 助けを呼ぼうとするも、すでに右京は敵に刃を突き付けられ床にへたり込んでいる。

 次に左内が二階に通じる階段に目をやった時にはすでにそこも賊によって厚い守りが施されていた。

「きゃああああ」

「およし、お嬢様に何をするんだいっ」

 顔に刃を突き付けられたお栄にすがりつこうとするお蝶、賊は老婆を足蹴にして、彼女は脱衣場をごろごろと転がった。

「お願いだよ、私が代わりに……」

 それでも賊の足にすがりついていくお蝶。

「婆あ、いい加減にしろ。同じ人質なら上玉の方がこっちも楽しいってもんだ」

 これ以上近づくと顔に傷をつけるぞ、とでも言うように男は切っ先をお栄の頬の近くで揺らした。

「お蝶、や、やめて」

 引きつった声でお栄がつぶやく。老婆は放心状態で床に泣き伏した。

 締め切られた湯屋の内側に、火が灯されてそこかしこで刃がぎらりとオレンジ色に閃く。

「ん、もう夜か。いやあ我が人生の中でも一、二を争う淫らな夢だった。おい、左内……」

 ぐっ。慌てて目覚めた殿の口を塞ぐ左内。

「こんなところで名前を呼ばないでくださいっ」

 耳元でささやく左内の顔が引きつる。

「おい、お前ら」

 首領が二人に近づいてくる。

「隅っこに行け、しばらく湯屋は借りる。お前達は何かあったときの人質だ、おとなしくしていれば命はとらずに解放してやる」

「な、なんだお主は」

 賊に詰問する殿。

 男言葉に、首領がじろりと殿を凝視する。

「聞いたとおりの状況ですっ。と……、いや、お蜜様、さっさと隅っこへ」

 半ば引きずるようにして、左内は右京のいる場所に殿を連れて行く。

 勝負は一瞬のうちに付いてしまった。

 左内は移動しながらあたりに油断なく目を配る。

 この上はじたばたと騒がずに、町娘のふりをして目立たず大人しくしておいて解放されるのを待つ方が得策か。

 しかし、首領は殿を介助しながら隅に向かう左内の後姿をじっ、と見つめていた。




 不幸中の幸いか、殿の人死に騒ぎで湯屋の中に居た人数は極めて少ない。

 人質は左内達3人。湯屋の番台に居た婆さん、三助1人、それに風呂焚きなどをしていた男が2人。そして、お栄たち一行が5人。

 総勢12人である。

 かたや、賊は13人。

 湯屋の脱衣所と洗い場はそこそこの広さはあると言え、25人もの人数を収容するには狭かった。

「おい、2階に行って交代で休め。しかしここが湯屋になっているとは思いもよらなかった。ちょうどいい、入浴してあの禍々しい果物の匂いも洗い流せ」

 牢獄に風呂は無い。

 身体にこびりついた果物のカスを洗い流せるとあって、一団はうれしそうにどよめいた。

 次々に裸になって入浴していく男達。

 鍛え上げられた逆三角形の身体。無駄の無い引き締まった筋肉が灯火の陰影に照らし出されて、その凄味を増している。身体を洗いながらも、周囲への緊張を切らさぬその無駄の無い動きは野生の獣のように美しかった。

「あの鷹どもが居れば、失神しているな」

 右京がつぶやく。

 乱暴な潜入と占拠を行った男達だが、人質がおとなしく隅に集まってからは特に危害を加える風も無いため、人質たちの張り詰めた緊張も少し緩んでいる。

「それにしても、良い身体だねえ」

 ほれぼれとした表情で見とれながら、お蝶がつぶやいた。人質が隅に集まったところでお栄が我が手の中に戻ってきたため、お蝶の言葉に余裕が戻っている。

「婆さん、けっこう男好きだな。若いころは泣かせた口だろう」

 先ほどまで浴槽で火花を散らしていた殿が声をかける。好敵手に対する妙な親近感があるのであろう。

「わかるかい、本町のお栄といえば小股の切れ上がったいい女で有名だったんだよ」

 湯屋の番台を務めていた婆さんが、口をはさむ。

「そりゃ、五十年前に会いたかったな」

 ぼそりとつぶやく殿の言葉を耳ざとく聞きとめたお蝶は首を振る。

「冗談じゃないその趣味は無いよ。おまえさん、ト一ハ一(といちはいち)かい」

 ト一ハ一とは、女性の同性愛をさす隠語である。上下を分解した言葉らしいがそのはっきりした語源はわかっていない。

「無礼者、この私を女呼ばわり……」

 激高する殿。左内が慌てて口を塞ぐ。

「お、お蜜さまは、女性です。さっきの湯あたりで混乱しておられるのです。ご容赦を」

「御主人は妙なお方だねえ。あんたも苦労するね」

 お蝶が気の毒そうに眉をひそめる。

 良く言われます。左内は心の中で応じる。

「仕事を変えたくなったらいつでも伊勢福屋においで、口をきいてあげるよ」

 殿を前にして、老婆はぬけぬけと左内に転職を勧めた。

「おお、こんな石頭いつでも持って行け」

 ふん、とそっぽを向く殿。

「そ、そんな……」ショックの余り左内の細い目が吊り上る。

「おい、お前ら。くつろぎ過ぎだぞ」

 人質の緊張感の無さにあきれたのか、部下の一人が人質の方を振り向いて、睨みつける。

「もう少し人質らしくしろ」

「まあ、そういうな。しばらくここで一緒に過ごさねばならぬお仲間だからな」

 短筒を肩に担ぎ、腕組みをした頭が部下をなだめる。

「しばらく……」

 左内の顔色が変わる。

 右京の方を振り向くと、彼も眉をひそめていた。

 この薬、一体いつまで持つのだ……。

 左内の背中に冷や汗が流れた。

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