その5
「ぶはっ」
石榴口をくぐった後、勢い余って浴槽の縁でつまずき浴槽に頭からつっこんだ殿は、湯を吹き出しながら周りを見回す。湯の温度は、長湯をされると湯が汚れるからだろうか、結構熱い。毎日変える藩邸の風呂とは違って、体臭が混じった湯は独特の臭い香りがした。
浴槽は湯の温度が下がるのを防ぐために小さい明り取りの窓が一つあるだけで、想像以上に暗い。浴槽の隅に左右に分かれて4~5人が固まって入っているのがやっとわかるくらいである。風紀を保つためか、男女が少し離れて入っているらしい。
殿は目を凝らして女性が固まっていると思われる一群にじゃばじゃばと湯をはねながら近づいて行った。残念ながら天晴公の夢見た、湯けむりの中でつやつやした肌の女性達が無防備にその色気を発散させている光景は見られそうもない。
しかし、この空気が澱んでムシムシした薄暗い浴槽は、妙に淫靡であり、それはそれで殿の望むところであった。
「臨機応変、これぞ我が身上」
殿の発言は、言っていることは真っ当だがその応用に置いて大きな問題がある。
薄い闇の中で細められた殿の目がにんまりと垂れる。殿は湯が揺れないように女性達ににじり寄ると何食わぬ顔をしながらそーーっ、と手を伸ばした。
湯の中を進んで行く手が、何かに触れる。
それは胸の様だが弾力が無く、なんだか細かい皺がざらざらとして……。
「お前さん、何かお探しかね」
しわがれた声。
しまった、と思った瞬間。殿の手は骨ばった手でグイと掴まれた。
「どうやら女の様だが、6歳のころからお嬢様をお守りしてきたこのお蝶のカンは欺けないよ。この手は悪さを重ねてきた手だね」
「ひ、人聞きの悪い。な、何言ってんのよ」
文字通り婆をひいてしまったようだ。
暗闇に慣れてきた目がやっと影でしかなかった一群を徐々に詳しく認識し始める。
湯船の奥に、若い女性の影が。そしてそれを守るように取り巻く数人の女性達。いずれもそこそこ若そうであるが、殿の真横のみ声の主である痩せた老婆が陣取っていた。
「そこの男どもも、ちょっかいをかけて来たので今ヤキを入れてやったばかりだ。あんた女でもお嬢様に悪さしようものなら許さないよ」
「ちっ。誰か知らねえが気を付けなせえ。そいつ、婆あの癖に喧嘩の仕方を知ってやがるぜ」
湯船の向こうに追いやられたらしい男性軍はそう言うと、不満げに鼻を鳴らして湯船を出て行った。
「お蝶、その方はたまたまお前に手が当たったのでしょう。誰彼かまわずすぐに喧嘩を売るものではありませんよ」
奥の人影から顔はわからないが、細くて高い声が聞こえてきた。
よっしゃあ、上玉だ。殿は両手を握りしめる。
女性限定だが声で大体の人相が予想できる、およそ藩主としては必要のない特殊能力を有する殿は興奮して鼻を大きく膨らませた。
何か禍々しいものを察知したのか、お蝶と呼ばれた老婆がお嬢様と殿の間に割って入る。
お互い百戦錬磨同志。片や女性千人切り、片や痴漢千人切り。対峙する彼らは浴槽の中で静かな一騎打ちの様相を呈していた。
「障害があるほど燃えるもの」
「花に付く害虫は、ひねりつぶしてやるわい」
湯船の中で見えない火花が激しく散る。
この婆さんの守備範囲を超えて、白い山の頂に付く野苺を摘みに行くのは容易ではあるまい。暗い中、最短距離で的確なルートを通らないと標的には達しない。殿は敵をじっと評価する。先ほど手を掴まれた速度はただ者では無かった。痴漢退治に年季の入ったこの婆さんは、湯の繊細な揺れも察知して攻撃を仕掛けるに違いない。
しかし、殿には卑怯な秘策があった。
栗饅頭が季節外れとなってしまった今、しぶる右京を大量の桜餅で釣って提供させたあれを使う時が来た。
いざ、出番だ。殿は心の中で命令する。
化粧で隠した額の発赤がかすかに盛り上がった。そしてほどなく中からにょろにょろとした透明なうどんの様な生物が這い出してきた。
しかし、それはあたりの異常な湿気と温度に驚いたのか、ふたたび額の中にもぐりこんでしまう。
「ええい、アンコウの名を持つ癖に水を嫌うかっ」
「何か言ったかね」
老婆がいぶかしげに突っ込む。
「ほほ、独り言よっ。アンコウ鍋はやっぱり冬よねえ」
その言葉の後、殿は大きく息を吸い込むと湯船にどぶりと顔を付けた。
こうすれば、もう逃げ場はあるまい。さっさと命令を聞いて探索にゆけいっ。
殿の叱咤で、ドリアンコウはしぶしぶウミヘビのように身体をうねらせながら浴槽の底を進み始めた。
湯船の中、目を閉じている殿の脳裏にはドリアンコウの先端の視覚器からの画像が送られてくる。しかし、見えるのは暗い闇ばかり。これでは目を閉じているのと同じと思われるくらいのがっかり画像である。
ええい、何も見えぬではないか。この役立たずの馬鹿虫めっ!
殿が心の中で罵ったその時。
視界が一気にひらけ、汚れた湯を通してだが、目の前にまるで茶碗を伏せたかのような形の良いわりと大きめの胸がどーんとそびえたった。
「やればできるではないか。おほっ、うほっ」
殿は普段から見慣れているものであろうに、障害を突破して覗き見る興奮はまた格別なのだろうか。ぐっ、とドリアンコウが近寄るとその若々しい白い肌のきめ細かさが手に取るようにわかる、そして盛り上がりの中央には誰にも摘み取られた形跡のない可憐な実がなっていた。
絶景かな、絶景かな!
浜の真砂は尽きるとも。世に好色の種は尽きまじっ。
殿の盛り上がりは最高潮。湯船に顔を付けたまま、身悶えする。
あ、あの初心な先端。こ、このドリアンコウで、つん、とばかり突いたら……。漏れ出す声は、いかばかりかっ。
最近は玄人ばかり相手にしていた殿の頭の中は、「初心」という言葉で一杯になる。
その時。
きゃあああああっ。
女性達の甲高い声が浴槽に響いた。
「お、お蝶。な、なにか光って」
「お嬢様、お逃げくださいっ」
せっかくドリアンコウが気を利かして点灯しないまま進んでいたにも関わらず、殿の罵詈雑言にいたたまれず先端を発光させたため、暗い浴槽でその存在がはっきり認識されてしまったのである。
しかし、今まで煌々と照らされていたその光は急速にしぼんで行き、ふっつりと消え去った。
ふと、後ろを振り向いた老婆が叫びを上げる。
「あ、あんたっ」
湯船に顔を付けたまま、殿は興奮と湯あたりのため失神していた。
「お、お蜜様っ」
左内の呼びかけに殿はうすぼんやりした目を宙にさまよわせながらうなずいた。
今は襦袢のみを着せられて脱衣所に横たわっている。息が止まったところでドリアンコウが脳を刺激してくれたらしく、湯船から上がったところで自発的に息を吹き返したのである。幸い命に別状なさそうだが、その頭はまだ正気に返っていないらしい。
最初は人死にが出たと大騒ぎになったため、湯屋は慌てて客の入りを止めた。入浴していた女性客たちも早々に湯を上がり、着物を着たため左内は目隠しを外すことができている。
「お蜜様、氷です」
右京が小さな椀に入った水を手に持った瞬間冷凍棒で凍らして差し出す。
「なっ、優れものだろう、触れた液体だけを瞬間的に冷却するんだ」
滔々とこの棒切れの能力が優れていることを述べ続ける右京だが、左内は上の空で藩主の看病をしている。
「ああ、初心忘れるべからず……」
熱くなった額に氷を当てると、殿の唇が動き、かすかに言葉が漏れた。
言っていることはまともだが、実際に考えているのは良からぬことなのだろう、と藩主の思考回路を熟知した左内は目を閉じる。
「大丈夫ですか、お蜜様は」
ひざまづいて介抱している左内の後ろから、可憐な声が降ってくる。
「ええ、お気遣いありがとうございます」
振り向いた左内は、ぱっちりした目にぷっくりした赤い唇が可愛い白い肌の娘に挨拶をする。日本橋にほど近いこのあたりは大店も多い。この方もどうやら名のある店のお嬢様らしく、後ろには礼儀正しそうな老婆と女中と思われる若い娘たちが三人付き従っている。
ともあれ、殿の悪戯がどうやら未然に潰えたらしいということがわかって、左内の声も明るい。
朝の茶柱が沈んだ件など、やはり迷信。意味は無かったのだ。
「お栄様、そろそろおいとましましょう」
自らが狙われていたとも知らず、本気で心配するお栄をお蝶が促す。
「それでは、皆様お先に……」
娘たちが踵を返そうとしたその時。
いきなり湯屋が強い振動にガタガタと揺れた。
「じ、地震か」
浴槽からは大きな揺れで湯がこぼれ、洗い場は見る見るうちに水浸しになる。積み重なっていた風呂桶が振動で崩れ、ごろごろと転がった。
お栄たちの悲鳴が湯屋に響く。
とても立っていられない振動に左内は主君に覆いかぶさるようにして、その身を守った。
と、脱衣所の床がいきなり盛り上がって、木片や泥が噴出し始める。
そしていきなり何か太い棒のようなものが渦を巻きながら飛び出してきた。
いきなりの事に、皆唖然として穴の開いた床を見つめる。
「危害は加えん、皆、動くな」
穴から男が肩に口径が一寸もあろうかという短筒を担いで飛び出してきた。
その男の匂い。
そして顔を見た瞬間、左内は凍りつく。
万事休す。
左内の頭の中には、沈んで行く茶柱が鮮やかに再現されていた。