その4
老若男女が行き交うお江戸日本橋のにぎわい。その喧騒がそのままなだれ込んだのが当時の金融の中心、室町である。道の両側には黒塗りの瓦も美しい二階建ての問屋や店がずらりと立ち、三井越後屋など当代一流店が軒を並べたその界隈は、まさに千両箱の往来する10万両の道であった。
広い道は様々な職種や目的の人々で埋め尽くされており、馬に乗って通り過ぎる武士あれば、ウィンドウショッピングする女性の姿もあり、さらには父親に手をひかれて習いごとに向かう子の姿まである。
そのまま神田方面に向かって約3町(1町は約109メートル)ほど北に歩くと本町に着く。(注:現代の本町とは位置が異なります)この時期、ここ本町通りが江戸一番の繁華街であり、西側の本町一丁目、二丁目は京都から江戸に出店している木綿問屋が、そして東側の三丁目、四丁目に入ると今度は上方の薬種問屋が立ち並んでいた。さすがに将軍様の御膝元に進出し商売を回しているだけあって、どの店も粋な趣向を凝らし、通りに活気のある華やぎをもたらしている。
堀留町一丁目を通りすぎた所で北に折れると、今度は左の方向に伊勢からの木綿問屋が並ぶ大伝馬町一丁目の通りが見えてくる。そして、そのまま進むと1町も行かないうちに、突然今までの街並みにそぐわない異様な屋敷が現れる。
2500坪を超える広大な敷地の周囲には高い塀がめぐらされ、周りには深い堀が作られている。南向きの表門はがっちりと閉じられ、常に見張りが油断なく目を配っていた。
これこそが、江戸庶民に恐れられた司法の中の無法地帯、小伝馬町牢屋敷。
お江戸の中心街、日本橋と10町(約1キロメートル)も離れていない目と鼻の先に、江戸幕府最大の牢獄は存在していた。
「あ、アイツら、一体なんなんだ」
見張畳と呼ばれる小高く積み上げられた畳の上にふんぞり返りながら、牢名主の目は不服そうに土間に陣取る一団を見ていた。
それは十数人の不敵な面構えをした男達、中には若い者も居れば初老の者も居る。しかし、全員が頭と思われる男を中心に一糸乱れぬ規律を保っていた。さわらぬ神に祟りなし、牢名主以下、囚人どもはびくびくしながら彼らを見て見ぬふりをしている。
アイツらがここ、小伝馬町牢屋敷東の大牢にぶち込まれてからすべてが変わった。牢名主の権威はがた落ち、まるで死神と同宿しているかのように神経の休まる暇も無い。おまけに彼らは洗練されたした外見とは裏腹にとびきり臭いと来ている。牢名主は彼らに聞こえぬように舌打ちをした。
あの日、牢内に入ってきた彼らは全身に小さくえぐられたような無数の傷を負っており、その身体からは臭い牢内の匂いすらわからなくなるくらいの強烈な臭いを発散していた。
「おい、わかってんだろう。出しな」
新しく入牢してきた一団に、早速ツル(賄賂)を要求する名主。
一団の先頭に立った頭と思しき筋骨隆々とした男は、何処からか、まるで手品のように光り輝く小判を取り出した。
愕きのあまり、囚人たちから呻きに近い声が上がる。その目はまるで吸い付くように小判を見つめ、男が牢名主の目の前で小判を左右に振ると彼らの顔もそれに操られるかのように、左右に動いた。御多分に漏れず、牢名主も小判に見とれて目を左右に転がしていたが、すぐさま我に返って男に怒鳴る。
「さっさとこっちに渡せって言ってんだよ」
キリリとした眉、そして不敵な目が無言で牢名主を睨みつける。
「し、新入りっ、文句あるってのかっ」
男の圧倒的な存在感に気おされながらも、一応牢名主である。なめられてたまるものかと、虚勢をはって肩をいからせながら睨み返した。
牢名主の右手が小判に伸びたその時、新入りの左手が眼にも止まらぬ早業で牢名主の右手を捉えた。
すっとーーん。
埃を上げて、牢名主の男は見張畳の上から真っ逆さまに転落した。
「何しやがる、オイ、やっちまえっ」
痩せこけた囚人達が牢名主の号令で、一斉に新入りの一団に飛び掛かる。
牢内は基本的に自治である。お上から指名された牢役人と呼ばれる彼ら牢名主達が牢内を仕切り、食事から金品まで管理していた。しかし、所詮はならず者である。まともな運営などできるはずも無く、人口密度が増えすぎ牢内の環境が悪くなると間引きで殺される囚人が出るほどの無法ぶりであった。しかし、食わせておくだけで金のかかる囚人など、お上も居ない方がありがたいのだろう。囚人が私刑で死んだとしても、闇から闇へ葬り去られるのが日常茶飯事であった。
「しばらく、身体を動かしていなかったな。軽く鍛錬と行くぞ」
低いが良く通る男の声が牢内に響いた。
磁石に吸い付く砂鉄のように、囚人たちは新入りの一団にむしゃぶりつく。
しかし、それはまるでアリが人間に立ち向かうのと同じだった。
狭くて暗い牢の中、囚人たちは人数だのみの声ばかり。早々に一団が自分たちよりも数段武芸に秀でた者たちとわかると、一気に形勢逆転。囚人たちは我先に狭い牢内を逃げ始めた。うろたえているうちに彼らは面白いように新入りの一団に弄ばれ、見る見るうちに気絶して隅っこに積み重なっていく。
「頭、運動にもなりませんぜ」
面食いの美鷹がいたら悲鳴をあげるであろう、二重のちょっと異国の趣のある顔をした若い男が乱れた髪を撫でる。
残るは牢名主だけ。
彼は積み上げた畳のうらで、その大きなガタイをぶるぶると震わせている。
「わ、わ、悪かった。金は皆渡す。牢名主も譲る。皆で畳の上でゆっくり横になってくれ」
しかし、頭は首を振った。
「金も畳も要らん。私達は私達で自由にさせてもらう。干渉はするな、いいか」
「へへーっ」
牢名主は頭を床に擦り付ける。
チャリーン。牢名主の鼻先に小判が転がった。
「挨拶代わりだ、金はとっとけ」
「あ、あの畳を……」
土間に向かおうとした一団におずおずと声をかける牢名主。
「要らん、私達は土間が良いのだ」
頭は振り向いてにやりと笑った。
「諸般の事情でな」
「ねえ、あんたこのお女中の雇い主だろ。貧血を起こしてるよ、連れてかえってやったらどうだね」
青い顔をして力無く横たわっている左内をうちわであおぎながら、垂れた乳の老婆が殿に話しかける。
「ほほ、この娘はいつもこうなのよ。ほおっておけばいいの」
殿はもう上の空である。
「むしろ、気を失っていてくれた方が野苺摘みには好都合……」
「え?」
「いや、なんでもない、なんでもないのよ、ほっほっほっ」
怪しい微笑みで老女を煙に巻くと、殿は豪快に着物を脱ぎ散らかすと一糸まとわぬ姿で湯船に向かう。
この時代、お湯を冷めにくくするために、洗い場から浴槽に向かう入り口は石榴口と言って下だけを開けた構造になっている。入り口が低いものだから、風呂に入るときは身体を縮めて入らねばならなかった。石榴口の周囲にはまるで鳥居を思わせる朱の彩色が施してあり、金箔なども張られ、見た目には豪華だったようだ。
ちなみになぜ石榴口か。当時鏡を磨くために石榴を使っていたようだが、かがみいって浴槽に入ることから、鏡要る、鏡に要るのは石榴、という洒落から来ているようだ。
「ええ~~、冷えもんでござい~~」
左内達から教えられたとおりに石榴口の前で声をかけて、頭を下げて低い板を潜る殿。
その途端、がったーんという音と大きな水音がした。
大阪に比べて江戸は特に石榴口が低く、湯船の縁の方が高い。
「湯船に入る時、焦ってつまづいたな……」
さすがの右京も呆れているのか、助けに行こうともせず肩をすくめる。
「さ、面倒なことが起こる前にコイツもそろそろ起こすとするか」
風呂桶に湯を汲んでくると、右京は懐から箸のような細長い棒を取り出す。
彼はこれを数秒湯につけて、そのまま離れて湯を左内の顔にぶっかけた。
「つ、冷たいっ」
顔から水を滴らせながら左内が起き上る。幸い、周りの人々は右京があらかじめ退避させていたので寝起きの悪い左内の無差別攻撃による犠牲者は出なかった。
「ど、どうしたのだ、私は」
慌てて周りを見回す左内。
ぶしゅっ。
刺激的な光景に、再び鼻を押さえて蹲る御家老様。
「お前も学ばない奴だな」
「め、目隠しをくれ」
右京の突っ込みに答える余裕も無く、震える手で殿の半襟を自らの目に巻く左内。
「や、やっと落ち着いたぞ。ところで蜜姫様は?」
「ああ、入浴中だ」
「まあ、湯船の中は右も左もわからぬ真っ暗と聞いたことがある。蜜姫も視界が遮られていれば、悪さをする気力も無くなるのではないかなあ……」
小声ながら、語尾で左内が右京に同意を求めている。
「いや、事はそう簡単に運ばないと思うぞ」
「え、なんでだ?」
きゃーーっ。
その時浴槽から、若い女性の叫びが聞こえた。
参考:
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542386
伝馬町牢屋敷跡「歴史の足跡」
http://orange.zero.jp/kkubota.bird/rouyashiki.htm
三田商学研究第49巻5号2006年12月著者白石 孝
日本橋街並みの特徴史考