その3
とどまることの無い月星の運行。
来たものは行き過ぎる、そして始まりあれば終わりあり。
殿の御不快が無くなったという知らせを受け、朝から左内は鳩尾に大きな鉄の玉があるようなむかつきを感じている。なんだが視界までも揺れているようだ、多分心労のあまり持病の眩暈までもが再発したのであろう。
そんな気分の悪い時に追い打ちをかけるかのように、殿のお呼び出しである。
「やはり朝からの不吉な徴は本当であったか」
立っていた茶柱がブクブクと沈んでいくありえない光景を思い出して、左内は悪い予感に天を仰ぐ。
さらに不吉なことに、藩邸の中に特別に設えられた居室に閉じこもっている左内を、あの疫病神が誘いにきた。
「おい、左内。殿からのお召しだぞ、行かぬのか」
「ああ、私は行かぬ。お前は行けばいいさ、どうせ私よりお前のほうが殿にとっては忠義にまさる家臣であろうからな。菓子につられて尻尾を振る奴の顔など見たくも無いわ」
左内は尋ねてきた右京の方振り向きもせず、つっけんどんに答える。
あれ以来、裏切り者の右京のことを無視し続けている左内である。
「何を拗ねているんだ。殿の夢じゃないか、かなえてやるのが臣下の務めだろ」
「私は殿にお仕えしていると同時に、先達が守り伝えてきたこの天晴藩にも仕えているのだ。この藩をなんとか、次世代に繋げて……」
「ま、赤穂浪士のように華々しく散って、人々の記憶に残るってのも次世代につながる一つのやり方だと思うがな」
「主君の仇を討って後世まで評判になるのと、主君が女装して湯屋に潜入したのがばれて評判になるのとを、同じにするなっ」
殿のことだ。おとなしく風呂に浸かって帰ってくるわけがない。
絶対あの不必要な所には働く頭脳で、淫らな計画を立てているに違いない。あのお方を野放しにしたら、どんな騒ぎを起こすかわかったものではない。女装のまま切腹をする殿の姿を想像した左内は思わず身震いする。
しかし。左内は固い頭をフル回転して思いを巡らす。今回自分が伴をしなくても、このお調子者の発明家とともに殿が藩を抜け出して湯屋を訪れることは想像に難くない。だいたい、日夜美行藩邸上屋敷に寝泊まりして、目を光らせているのに、隙を見ては抜け出し八百八町を又にかけて御乱行に及ぶのだ。
それを考えれば、今回は自分に伴を申しつけられるというだけまだ神妙ではないか。ただし、全ての尻ぬぐいは自分に降りかかってくることが目に見えているが……。
「進むも地獄、戻るも地獄とはこのことか」
言い換えるならば、前門の右京、後門の殿。左内は目を閉じて、溜息をつく。
「ま、カリカリするな。人生深く考えるとろくなことが無いぞ。ま、こんな日は
ひとっ風呂浴びて、冷たいもんを食べると最高だぜ」
右京は陽光きらめく戸外に目を向けて、にんまりと何やらほくそ笑んだ。
「お願いでございます、お考えなおしください」
「いいや、絶対に行く」
左内がひれ伏して懇願するも、殿はがんとして受け付けない。
「ぐずぐずしては日が暮れてしまうではないか。そうなると仕事を終えた男どもでせっかくの湯屋の風景が汚れてしまう。女たち、特に若い娘はきっと男の目をできるだけ避けるに違いない。と、なると男が少なく、娘が多い狙い目の時間はこの昼下がりとなるのだ」
殿は頭を使うところを間違えておられます。と、言いたいのだが悲しいかな若輩の身。左内は言葉を選んで殿を説得する。
「この左内、女性の裸体など見ようものなら、動揺して殿をお守りすることができぬかもしれません」
「ええい、情けない未熟者めが」
殿の一喝に、左内はいったん上げかけた頭をまた床にこすりつけた。
「女性の裸を恐れてどうする。世の中にあれほど美しいものはない。もうすぐ二十歳になろうかと言うのに、浮いた噂のひとつも立てられない石頭のお前にそれを教えてやる事が今日の目的のひとつなのではないか」
「と、殿……」
なんて、お節介な。喉元でぐっと言葉を飲み込む左内。
黙ってしまった左内を天晴公はじっ、とねめつけている。
「左内、宮本武蔵の五輪の書を知っておるか。二刀一流の神髄とはな、何事にも動じない……」
「もうその手には引っ掛かりません。武蔵殿は序の巻で邪心を持たぬことが肝要とおっしゃっております」
左内も今日は必死である。唇を引き締めて、付け入る隙を見せない。
しかし、殿もまた必死である。
なんとしてでも左内を一緒に引っ張り込まないと事が成就しない事を知っている殿は、ああだこうだと理屈をこね懸命に説得にかかる。
「お願いです。この左内などのことより、藩の事をお考えください」
そのとたん、殿の目がぎらりと光ったのに左内は気づかなかった。
「ま、左内が来ないのなら、右京と二人で行くだけだ。お前は、万一変身がとけて私が男だとばれて湯屋で撲殺されてもいいというんだな。右京は武術の心得がないから、どうすることもできんだろう。いざというときに身を呈して藩主の身、ひいては藩を守るのがお前達家臣、特に家老の勤めだろうが。いいのか、来なくて」
「ははーっ」
ここまで言われては、もう何も言えない。前任者が早死にするはずである。左内は胃がちくちくと痛み出すのを感じた。
「じゃ、話はついたという事で」
他人事のように右京は殿と左内の目の前にどんっ、とあの毒々しいピンク色の液体が入った瓶を置いた。
天気の良い昼下がり。三人は、筋違橋を渡って南に下る。
これは北に行くより日本橋方面の職人の多い土地に行く方が、湯屋で武士に会う確率が少ないだろうと言う左内の判断である。万が一、男に戻っても武士でない限り殿の身元がばれる可能性は極めて低い。
殿は先頭で風を切って進んで行く。外輪の歩き方が気にはなるが、それを除ければ匂い立つ大店の奥方といった風情だ。紫がかった灰色の地に、手書きの草花柄の光琳模様という豪華な小袖を難なく着こなしているのはさすがである。
付き従う左内はところどころ桜の花びらが描かれた白い小袖に、新緑を思わせる薄緑の帯、春らしい可憐な色合いである。一方右京は茄子紺の小袖に、緑青色の帯といったはっきりとした色合い。着物は何処からか殿が調達してきたのだが、洒落た女性達との交流がお盛んなだけあって、なかなか見立てはうまくはまっている。
「おお、ここにしよう」
比較的新しくできたらしい湯屋を目ざとく見つけた殿は目を輝かせた。
大きな暖簾に「湯」の文字。軒下には湯に入ると弓射るとの洒落であろう、弓と矢がぶら下げられている。
殿の鼻が大きく膨らんだ。
「匂うぞ、匂うぞ、女たちの匂いがっ」
「私には湯の匂いしかいたしませんが」
「この石頭、剣の道にも香に対する敏感さは必要であろう。修行が足らんぞ」
「はっ」
頭を下げる左内。剣については素人同然の殿に言われる筋合いはないが、藩主の言葉には平伏するしかない。
高揚しているのか、殿の弁舌にますます拍車がかかる。
「女性、特に若い娘というものは、小ぎれいな所が好きなものなのじゃ。我が経験から言えば綺麗さと言うのは、初めての相手と淫らな雰囲気を作るのにも重要な因子でな……」
「と……、いえ、お蜜様。声が大きすぎます」
左内は外見とは真反対の発言内容に慌てて周囲を見回す。
しかし、殿はますます興に乗ったのか身振り手振りも含め、女性とは無縁の二人にレクチャーを続ける。
「しかし、ここがその男女の仲の奥深い所なのだが、関係が深まれば深まるほど今度は、かえって荒れた場所の方が盛り上がったりするのだ。野天とか、廃屋とかな」
「はあ……」
もう御講釈は沢山です。左内のかすかな抵抗のため息も、脳天に花が咲き乱れている藩主の耳には届かない。
「いざ、百花淫乱の銭湯で下半身も戦闘じゃあ。おっ、そうか無いのか、残念じゃのう、わはははははっ」
百花が百禍にしか聞こえない。浮かれる殿の親父ギャグに、左内は強い眩暈を感じて額に手を当てた。
「もはや、殿のお言葉が常人のものとは思えません」
「当たり前じゃ。ここまで来たのだ、すでに私が正気を保つ意味など無い。今の私は無敵の蜜姫様だからなっ」
殿の大声に慌てて周囲を見回した左内は、自分達が先ほどにも増して妙に視線を集めていることに気が付いた。
殿か、いや錦絵で顔を知られている自分か。
左内が、自分達を振り返る人々の視線を追うと。その先には……。
「右京っ、何だそれはっ」
右京は箸の先に細長い氷の塊がついたものをしゃぶっている。それが人々の好奇の視線を一身に集めていた。
「いや、ご覧のとおり冷やし飴を固めたものだ。風呂の帰りにしようかと思ったが、今日は陽気のかげんか暑くてな。まずは一本試しに作ってみたのだ」
「頼むから、目立つことは止めてくれ。お忍びなのだ、お忍びっ」
喉から絞り出すような低い声で、緊張感の欠片も無い右京にくってかかる左内。
「お前って、人生楽しめない奴だなあ……」
右京が憐れむような視線を左内に向けた。
この時代の湯屋は、入込湯という男女混浴である。異性との入浴に対する女性の気持ちは様々だとは思うが、湯屋を描いた錦絵など見るに多くはそういうものだと割り切っていたように感じる。しかし、確かに男性からの悪戯も多かったようで、若い娘が暗い湯船に入るときには近所の世話焼き女房達がかばっていたらしい。
男女別になるのは時代が下って、1791年松平定信の寛政の改革まで待たねばならない。風紀の乱れを理由に混浴禁止令が出てから湯屋も浴槽を分けたり男女別の日にして対応したらしいが燃料や水が貴重な時代であり、やはりどうしても浴槽が一つの方が効率が良い。実際は明治に至るまで混浴はすたれることなく続いていたという。
左内たちは湯屋の暖簾をくぐり、番台に座る老女に、一人あたり6文(200円弱)の入浴料を払った。中はむっと暑く、かすかに水垢の匂いがする。
草履を脱いで、中へ入ればそこはすぐ板張りの脱衣場と洗い場である。
目の前には、素肌を顕わにした女性達がそれぞれ思い思いにくつろいでいる。身体を流す三助はいるものの、昼間の時間とあって、殿のもくろみ通り男性はほとんどいない。
「ああっ、時はきたれりっ」
鼻息荒く、帯を解きながら脱衣所に突入する殿。
目の前には殿が夢見た光景が。
さまざまな女性の裸体、裸体、裸体。
それも、ノーガード。
互いに糠で背中を洗いながら、笑いさざめく娘たち。
そして熟れた女たちの胸が揺れる。それはすでに淫らというよりも神聖な母性すら感じる美しさである。
「う、うほっ」
腰からだらしなく帯を垂らしたまま、仁王立ちになって脱衣所を眺める天晴公。
視界いっぱいに広がる無防備な裸体、その想像以上の破壊力にぽかんと開けられた口からは涎が。
天国過ぎて、すでに放心状態である。
「お、お蜜様っ」
右京の声に、無理やり天国から引き戻される殿の魂。
「うるさい、なんだ」
目を吊り上げて振り向いた殿の見たものは……。
なんとそこには着物のまま鼻血を出して、左内がばったり倒れているではないか。
周りに半裸の女性達が集まって仰いだり、水を飲ませたり大わらわである。しかし、その介抱がますます左内を悪化させているとは、さすがの彼女達も思いもよらないだろう。
「しまった、わしも倒れればよかった」
殿は羨ましそうに舌打ちをした。