その2
右京の話題が出るたびに、『諸刃の剣』という言葉がいつも左内の脳裏に真っ先に浮かんでくる。
呉石右京はもともと美行藩の下級武士の息子であったが、そのあまりの才知のため藩から勉学のために長崎に派遣されることになった。
というのは、あくまで表向き。
神童転じて、常識を超越した天才科学者に成長してしまった彼は誰に習うでもなく国元で次々と奇天烈な実験を行い始めてしまった。その結果、天守閣は飛んでいくわ、馬はしゃべりだしてストライキを始めるわ、海のない領地にいきなり海が出現するわ……、領内を大混乱に陥れる様々な変事が頻発することとなる。
処罰を叫ぶ声に待ったをかけたのは他でもない、怪しくて危険な非日常体験をこよなく愛する藩主であった。妙に右京と気が合う藩主は右京を勉学のためと称してしばらく長崎に逃すと、ほとぼりがさめた頃に江戸藩邸お抱え医師として呼び寄せたのである。もちろん長崎遊学中にも、右京が大人しくしていたはずがなく、その過激で前衛的な発明は出島でも有名であったらしい。
そのあまりに常軌を逸した所業のせいで英吉利の言葉を知る阿蘭陀人達が彼の本名を聞き間違えたのだろうか、彼が江戸に上ってくる頃にはいつしか彼は呉石右京ならぬ「クレイジー右京」が通り名になってしまっていた。
「ちょうど良い、左内と右京は幼馴染と聞いておる。左内に世話を任せよう、江戸に右京を共に連れて行こうぞ」
神の鉄槌を頭に食らったかのような一言。左内には、藩主の決定を聞いたときの衝撃が昨日のことのように蘇える。
もちろん余計なことには頭の回転が速い藩主、天晴美行守吉元が右京のことだけを考えて江戸に呼び寄せたのではないことはわかりきったことであった。堅物の左内の監視対象を増やし、スキあらば羽を伸ばそうという魂胆に違いない。
幼いことからの腐れ縁、厄介なお荷物である右京にはできれば関わりたくないのが左内の本音であった。しかし、ここは献上泥餡をなんとか工面するために、奴の常人離れした頭脳の助けを借りるしかない。
しかし、今までの苦い経験からその代償は決して安いものではないことを左内は知っている。
若い御家老様は、こめかみに手を当てて大きくため息をついた。
美行藩の上屋敷から歩いて、一刻の距離に彼の住まいがある。小さくはあるが、特別に借り上げられた一軒家。ただし、それは主君の覚えがめでたいための特別待遇というよりは、彼の行う奇天烈な実験を恐れて誰も一緒に住みたがらないという理由の方が大きかった。
彼の藩での肩書きは『藩医』である。しかし何をされるかわからない、という噂が広まっているため、彼にかかろうという豪胆な病人は誰も居ない。それをいいことに、彼は膨大な暇をすべて面妖な実験に注ぎ込んでいた。
「右京様――っ」
こじんまりした屋敷の前に立つと、門番も居ないのに急に扉が開く。ここが美行藩の者達から物の怪屋敷と呼ばれる所以である。そんなことは、とっくに承知の忠助と忠太郎は扉が開くのももどかしそうに家の中に転がるように入っていった。そして廊下を踏み抜かんというばかりの勢いでどたどたと突き進む。
しかし、行けども行けども、いつも右京がガラクタに囲まれて動き回っている七色に光る部屋には到達しない。
「あれ? この廊下こんなに長かったかな」
忠太郎がつぶやいたその途端、急に足元の廊下が割れ二人は真っ逆さまに暗闇の中を落ちて行った。
「誰か、誰かああああ、助けてえええ」
果てしない落下に肝をつぶした忠助の叫びが闇の中にこだまする。
大きく振り回された忠助の両手を忠太郎がしっかりと掴んだ。ぐん、という衝撃とともに二人は横一線に変化する。彼らは腹這いの姿勢を取ったことで、足から落下していた時に比べて落ちる速さが遅くなり、いくらか安定した姿勢を保つことができた。
「大丈夫です、兄上。きっと右京様の実験に巻き込まれたんです。右京様ならなんとかしてくださいます。それよりも」
闇の中で弟の目がキラリと光る。
「こんな落下、日常では体験できない痛快ではありませぬか」
「お前、何を悠長な。し、死んでしまうぞっ」
「兄上っ、武士道とは楽しむことと見つけたりですーっ」
半端ない浮遊感に弟は歓声を上げる。
「バカ者、見つけるなっ」
闇の中に、忠助の悲鳴と忠太郎の楽しげな絶叫が響き渡った。
「全く生きた心地がしませんでした。地獄の釜の蓋をひらいた気分ですよ、右京様」
「いやあ、生死の境というのは経験がありませんが、あのような快楽の極みだとは思いませんでした。」
青い顔をしている兄と、頬を紅潮させている弟。興奮してまくしたてる二人の前には、総髪を後頭部の高い位置で結んでいる若い男が口をへの字に曲げて腕組みをしている。ただ、座っているだけなのにその全身からは何やらただならぬ気配が立ち上っていた。
「お前達を助けるために、無駄な時間と労力をつかってしまった。またこの代償は金に換算して請求するから左内に伝えておけ。ああ、そうだ踏み抜いた廊下の修理代も払ってもらわねば……」
くどくどとせこい物言いを続ける彼こそが、呉石右京。美行藩に災難をもたらす二大巨頭として藩主とともに常に名前のあがる男である。彼は後ろの結び目に届かない短い前髪を時折額からうるさそうにかき上げては、不機嫌そうに首を振った。
「いくら急いでいるからと言って、我が屋敷にことわりも無く踏みこむ奴があるか。主の返事を聞いてから上げれ」
これ以上ご機嫌をこじらせては大変と、兄弟は額を廊下にこすり付けて平伏しながら、詫びの言葉を繰り返す。
「全く、お前達が同期を乱したせいで、せっかくねじ曲げていた時空が元に戻ってしまったではないか」
筋肉質の両腕を組みながら薄い唇を子供のように尖らせて、右京は二人を睨みつけた。
切れ長だが、左内よりはしっかりと見開かれた黒い瞳、人を小ばかにしたようなカーブを描きながら吊り上る細い眉。そして鼻はいかにも押しの強そうに高々と顔の真ん中にそびえたっている。一見、秀麗な顔立ちだが、残念なことにどこか常軌を逸した近づきにくい雰囲気が漂っていた。
彼は舌打ちすると、鼻をならして筋肉質の腕を組む。
「せっかく今度は何処に出没していつも先進国きどりの紅毛達を驚かしてやろうかと考えていたのに、これではしばらく使えそうもない。お前達に見せてやりたかったよ、じゃがたらにドリアンを取りに行ったときの、奴らの驚愕と言ったら……」
「泥餡ですってーー!」
二人は身を乗り出した。
「ああ、そうだ。異次元に空けた隧道を通って採りに行ったんだよ、あの糞暑い国にな。密林にごろごろと落ちていてな、臭いのなんの……」
「やったーー、解決したあああ」
躍り上がって、喜ぶ二人。
「これで、藩も存続。左内様にも面目が立ちまする~~」
「うおおお、これから泥餡、食べ放題だあああ」
行きましょう、行きましょう、じゃがたらに行きましょう。と、狂ったように踊り出す二人。右京は兄弟の豹変に目を丸くしている。
「一体どうしたっていうんだ、さっき頭でも打ったのか二人とも……」
「実は将軍へ献上する予定であった泥餡を、この馬鹿者が食べてしまいまして、万策詰まった左内様のお言いつけで右京様をお呼びに来たのです」
「それにしても、柿の実を取るよりも簡単だなんてーー」
「心配して損をしたあああ」二人は声を合わせる。
「おい」
「泥餡を担いで帰ったら、左内様がどのようなお顔をされるか」
「特別にお手当てを弾んで下さるかもしれませんね、兄上」
「おい、お前ら」
「兄上、横町の地本問屋で、かねてより念願のあれを購入しては」
「な、なんだと。お前、何ということを思いつくのだ……」
「肌も顕わな娘たちのあの、危絵がついに我らのものに」
「忠太郎、主もわるじゃのう」
「兄上も、お好きですな」
「我ら、血を分けた兄弟だからのう」
ひーっひっひっひっ。と、自分達の妄想の世界に入り込んだ二人を呆れたように見ていた右京だがやがてひときわ大きな声で叫んだ。
「おい、お二人さん。何を喜んでいるんだ」
「だって、右京様。泥餡取り放題なんですよ」
「んでもって、御駄賃ががっぽり」
ねーっ。とこの時ばかりは意気投合の兄弟たち。
「壊れたんだよ、隧道が」
「ああ、江戸に来てからの念願が今こそかなうのですね、兄上」
「ああ、生きてて良かった……、さあ忠太郎、一刻も早く隧道を通って、隧道を、隧道が……」
「壊れたですって――」
阿呆兄弟はその場にひっくり返った。