その19
澄み切った江戸の夜空は、白砂を撒いたような満天の星で彩られている。
天狼星が南西の夜空にひときわ鋭く輝く深夜。町はすっかり眠りについて静まり返っていた。
しかし、ここ美行藩の面々はそれどころではない。
「おい、忠助。少し走ってみてくれ」
右京に命じられるまま、水車に似た回転増幅機構の中に入ると忠助は恐る恐る走り出す。
ドリアンの種が埋め込まれている盛り土に照準を定めた数か所の銃の先端が、ぼおっと金色に光り輝く。右京は銃の先端を盛り土の中央、少しだけ種が顔をのぞかせている部分に正確に合わせるように微調整を繰り返した。
「もう時間が無い。登城は明日だ、これが最後の機会だと思って慎重にやってくれ」
左内が絞り出すような声で右京に話しかける。この実験の成否に藩の命運がかかっているのに、あくまでも趣味の一環として振る舞う右京に彼は軽い苛立ちを覚える。
「経過よりも結果だ。とにかく何がどうあろうと、今回は成功させてみせる」
血走った眼をあらぬ方向に向けて右京がつぶやく。こうなればもう何人なりとも彼を制御することは不可能だ。
「さて御家老様もお待ちかねのようだ、そろそろやるとするか。忠助、全速力で走ってくれ」
店じまいしていた露草堂をたたき起こして買ってきた栗饅頭を頬張りながら、右京が薄笑いを浮かべながら指示する。理由や必然、成功や失敗、そんなものは関係ない、頭に浮かんだ発明を具現化する時、彼の頭はこの上無い快感に満たされるのだ。
「た、頼むぞ……」
睡眠不足で目を落ちくぼませた左内がつぶやいた。
生真面目な忠助の爆走で、回し車はどんどん回転を上げている。
銃の先端が強く光りはじめ、いきなり細い筋がドリアンの種に発射された。
その光が当たった瞬間から、ドリアンの種に劇的な変化が起こり始めた。
昨夜は緩慢な変化だった種が、いきなり発芽して枝を広げると、見る見るうちに見覚えのある紡錘形の葉を茂らせる。
「は、速いな」
左内が目を丸くする。この分では、ほどなくドリアンを手にすることができるであろう。
「私は常に進歩し続けるのだ。なにしろ天才だからな」
右の口角を上げてどうだと言わんばかりに右京がにやりとする。
「こればかりで驚いてもらっては困る。左内、お前の細い目を見開いて前回からの改良をみるがいい。銃型装置による複数個所の時間の進行が行えるのだ。私は常に進歩する、そして機能を付加、付加、付加だーーっ」
付加がどうしても不可に聞こえる左内は、嫌な予感を振り払うように目を瞑って頭を振った。
その時。
「あ、現れたよっ」
おけいが羽をばたばたさせながら小屋の中に飛び込んできた。鷹姉妹からの連絡が来たらしい。
「何っ」左内の顔色が変わる。
「間違いないよ、あの美形好きの鷹たちが見間違えるはずがない。忠太郎をさらった奴らが隣の家に侵入しようとしている」
「こうしてはおられない。右京、あれを頼む」
「嫌よ嫌よも好きの内、結構気に入っているんじゃないか」
「有能な者は、異形でも使わせてもらう」
ふふん、鼻歌を唄いながらガラス瓶をひねって、右京はドリアンコウをつまみだす。目の前でくねくねと動く透明な虫を見て、芋虫が苦手な左内は思わず目を閉じた。
気心は通じたつもりだが、やはり苦手なものは視界に入ってほしくないのだ。
左内の額にぺたりと貼り付けられたドリアンコウは、心なしかうれしそうに身体をくねらしながら左内の額の皮膚にもぐりこんで行った。
「お前、芋虫からも絶大な人気だな」
「いも……その言い方は止してくれ」
左内の言葉が終わるか終らないかのうちに、額からドリアンコウがひゅっ、と伸びると右京の高い鼻をうるさいとばかりぴしゃりと叩いた。
「ふ、ふがっ」
目を吊り上げる右京。しかし、これは左内の命じたことではない。ドリアンコウの自主的な行為だ。罵る右京を尻目に左内は袖に襷をかけると、刀を確かめる。
「こうしてはいられない、行くぞ」
行くぞと言っても、結局左内に付き従うものは誰も居ない。尾根角兄弟は回し車要員、おけいは連絡係、そして残るは右京のみ、左内の助っ人ができる者はだれも居ないのである。
先ほどまでの晴天はいずこ、気が付くと空には雲がかかり月はうすぼんやりとその姿を時折雲の奥にちらつかせるのみとなっている。御家老様は淡く光るドリアンコウとともに、暗闇の中に走り出た。
美行藩邸の門を出る左内の姿を見ると、すぐさま美鷹が舞い降りてきた。
「邸内から手引きがあったようで、奴ら裏口から難なく中に入っていきました。結構な手勢が居ます」
ドリアンの種が無いとわかって、すんなり引き上げてくれればいいのだが。
左内の淡い期待はすぐに潰えた。ほどなく邸内から叫び声が上がって刃が交わる音が聞こえてきたのである。昼間見た間取りから考えるとどうやら小競り合いは例の土蔵の近くらしい。
左内は、曽根美濃藩邸の裏口から駆けこむと、ドリアンコウの淡い光を頼りに、足軽長屋の横を駆け抜け土蔵に向けてひたすら駆ける。
そしてやっとたどり着いた御蔵の前で彼が見たものは、黒ずくめの忍者装束に身を包んだ男たちに対し刀をやみくもに振り回す曽根美濃藩の家臣たちであった。
「天晴藩家老、片杉左内、助太刀いたす」
ぎょっとしたように振り向く黒ずくめの男たち。
屋根の上に居たのであろうか、左内の目の前に男が舞い降りて飛び掛かる。
左内は顔色一つ変えず、すばやく相手の身体にもぐりこむように身体を縮め、眉間に向かって勢いよく鞘もろとも刀を突きだした。柄頭はあやまたず相手の眉間にめり込み、男はばったりと後ろ向きに倒れる。
男が倒れた後には、白刃を構えた左内がすっくと立っていた。
「ええいっ」
忍者装束の男たちは、いっせいに左内の方に向かって来た。
四方を囲まれているが、敵は左内の隙の無い構えになかなか切り付けることができない。意を決したように斬りかかる正面の敵を鎬で受けると、相手の斬撃をそのまま受け流しひらりと体をかわす。そしてよろめいた相手の腰を蹴りつけた。吹っ飛んだ男は仲間に当たり、数人道連れにして地面に倒れ込んだ。
左内はそのまま背後にいた男の胴を刀の背面で薙ぎ払う。
峰打ちとはいえ、左内の重い刀による衝撃は半端なく男は胃液を吐きながら倒れ伏した。
一瞬にして囲みを破られた忍者たちは、戦意を失ったようすで後ずさりする。
「今のうちに奥の方々は疾くお逃げください」
左内が叫ぶ。
「ええい、出合え、出合えっ」
藩邸内では皆を起こす呼び声がそこかしこで上げられている。
藩士を襲おうとした忍者たちは、暗闇の中で風音とともに飛来した鋭い鉤爪に顔面を切られて、次々にうずくまる。
「顔さえ見えなければ、こっちのものよ」
夜の澄み切った空気を切り裂きながら鷹姉妹たちがほくそ笑みながら、入れ代わり立ち代わり、藩士を襲う忍者軍団に戦いを挑んで行く。出合え出合えのかけ声はするが、徐々に曽根美濃藩士たちは軍団と戦うことを放棄して家屋の中に逃げ込んでしまった。
一方左内は次々に曲者たちを倒している。この程度の相手は余裕なのであろう、彼は敵をすべて峰打ちに仕留めていた。
「いつみても、稲光のような美しい太刀筋だ」
朗々とした響きのある声がして、男たちを掻き分けて中肉中背の男が現れた。
顔は頭巾に隠れていて見えないが、身のこなしで左内はそれが誰であるかすぐわかった。
これはまさしくあの忠太郎をさらった一段の首領だ。
「御家老様、またお会いしたな」
相手も左内と一戦交えたかったのか、その言葉にはどこかうれしそうな響きがこもっている。
「それにしても、昨日は鷹の化け物を連れ、今宵は鮟鱇の出で立ち。貴殿も妙な御仁よな」
うるさい。こっちにはこっちの事情があるんだ。 お前らに私の気持ちがわかるかっ。
首領の言葉に、頬を赤く染める左内。
まだ若い御家老様はどうも相手からの真理攻撃に動揺しやすいようである。
首領は、若干ぶれた刃先を見逃す相手ではなかった、左内のかすかな心の波立ちが収まらぬ間に、鋭い切り込みが彼を襲う。
一瞬対応が遅れる左内。
かろうじて刀で防ぐも、相手と刀を交錯したまま顔と顔を突き合わせる状態になってしまった。そのままぐいぐいと押さえ込まれる左内。相手の鋭い目に、余裕の色が浮かぶ。
「まだまだ、筋肉の付け方が足りぬな」
左内の両手がぶるぶると震えだした。
「命が助けてほしくば、教えろ。土蔵にはドリアンの種は無かった。どこにやったのだ。そして、なぜこのドリアンを手に入れることができた」
「お前たちは一体何者だ……」
左内に教える気がないと悟ったのか、首領はにやりと笑うと手加減を止め一気に左内の顔に刃を押し込む。
ここで我が命運も尽きたか。左内が心の中で題目を唱えた時。
「うおおおおっ」
叫びとともに首領の力が一瞬抜ける。
左内は渾身の力で、刀と覆いかぶさっていた首領の上半身を跳ね返す。
首領の目を鞭打ったドリアンコウが左内の頭上で光りながらうれしそうに身体をくねらした。
首領は目を押さえている。遠近感に狂いを生じているのだろう。左内に打ちかかってこずに、刀でけん制しているだけだ。
今度は左内の番だ。今なら倒せるとばかり左内が刀を振り上げた瞬間。
「あれえ、お助けっ」
甲高い女性の声がして、足音とともに小刀を喉元に突き付けられた奥女中と忍者装束に身を包んだ男が現れた。
「この女がどうなってもいいのか」
「お助けください、お助けくださいっ」
金切声でわめく女。
しまった。唇をかみしめる左内。ドリアンコウを通してだが、この女は昼に台所で見た覚えがある。確かお玉とかいった奥女中だ。
「刀を捨てろ左内」
首領が左内を睨みつける。
「鷹どもも、動けば容赦なくこの女を殺す」
男の言葉に女中の叫びがますます激しくなる。
「美鷹、攻撃を中止しろ」
左内が叫ぶ。鷹たちは天空に舞い上がった。
「わかった、言うとおりにする。お女中に狼藉を働くな」
言葉とともに左内の刀がそっと地面に置かれる。
「この御家老様は何か知っていそうだ。縛り上げろ」
首領の指令に男たちが左内を後ろ手に縛りあげる。先ほど蹴られた男がお返しとばかりに思いっきり左内を背後から蹴り上げ、体力も限界に来ている左内はつんのめって地面に倒れた。
髷を掴み泥の付いた顔を引き起こす首領。左内は目を瞑っている。
「答えてもらおうか、答えぬと女がどんな目にあうかわからないぞ」
目を瞑った左内は頭上のドリアンコウで周囲を見ていた。
そこには、左内には見えていないと思い込み目配せをかわす男とお玉の姿が。
「騙したな、お玉……」
左内は怒りのあまり、奥歯をかみしめた。