その16
「ええい、顔を上げいというに」
後ろで束ねた右京の髪が手荒く持ち上げられる。
ついに、気を失った天災発明家の頭が式台を離れた。
ここまでか。
左内の全身に冷や汗が走る。
ドリアンの種が盗まれたものという証拠はない。ドリアンコウの件が明るみに出れば、隣の藩に侵入したということで美行藩は御公儀からの処罰は免れまい。
もし藩主の素行調査が入れば、我が藩の命運は風前の灯……。
御家断絶という赤い文字が左内の脳裏で禍々しく点滅する。
――万策尽きたか。
左内が溜息をついたその時。
いきなり空気が震え、左内の背後から風圧が押し寄せた。
それとともに風切音が左内の耳をかすめる。
「ぎゃあああっ」
池津公の叫びが玄関に響き渡り、そして何かが倒れる大きな音がした。
一体何が起こった? 左内はそっと上目使いで状況を確認する。
彼の目には、ひっくり返った池津公の髷を、白いオオタカが鋭い爪でがっちり掴んでいる光景が飛び込んできた。
――美鷹
気の強そうな黄金色の瞳が、ちらりと左内の方に向けられる。
そしてお返しとばかりに池津公の髷を引っ張って大きく羽ばたいた。
オオタカは羽を広げると6尺(約180cm)を優に超える。頭の上でバサバサと動く翼に視界を奪われ、そして体動とともに鋭い鉤爪が頭皮に食い込んで痛むのか、池津公は情けない声を上げながらその場にうずくまった。
――美鷹、コイツを起こせないか?
左内が右京の方をみて、オオタカに目配せをする。利口なオオタカは池津公をから離れ、脚で思いっきり右京の頭に蹴りを入れた。
がんっ。式台に激しく頭を打ち付ける右京。
しかし、寝起きの悪い発明家は変わらずだらりとうつ伏せたまま。
――無理か。
右京に足蹴りを喰らわせてから、美鷹は無駄の無い動作で、再び逃げようとする池津公の頭に素早く留まる。彼女の鋭利な嘴は、下手な真似をすればコイツはどうなるかわからないぞ、とばかりに月代にぴったりとあてがわれている。
「ええい、この畜生めがっ」
血気たぎる若い侍が、オオタカを追い払おうと飛びかかった。
さくっ。
「ぎいいやあああーーっ、よせっ」
藩主が、血走った目を剥いて降参をするかのように手を上げて男を押しとどめた。
月代にわずかに突き刺さった嘴から、ジワリと血がにじむ。
後ずさる、若い家臣。藩主を人質に取られた家臣たちは、右手を刀の束に置いたまま動くことができない。
藩主は四つん這いになって、ガタガタと震えている。
「殿、いかがなされた」
続々と集まってくる家臣たち。
しかし皆一様に、鷹を頭に留まらせた藩主の姿を見て呆然と立ちすくむばかり。
幸いにも美鷹がメロメロになるような良い男は居ないようだ。彼女は威嚇するかのように家臣たちを睨みつけた。髷を掴む爪に力が入る。
「ひいっ。皆の者、う、動くなっ、動くのではないっ」
裏返った藩主の声が玄関に響いた。
一方、こちらはナメクジのような物の怪が現れたと、大騒動の台所。
右京が気を失なってしまったため、右京のドリアンコウは動きを止めてへなりと土間に伸びる。
「な、長いぞ……こいつ」
気味悪そうに板前が右京のドリアンコウをつまみ上げる。皆の視線も一斉に板前とともに透明な紐の元をたどった。ここの台所は薄暗い、それが幸いして土間にある部分からは先は見えにくいが、それでも手でたどっていけば右京にたどり着くのは時間の問題だ。
こちらもまずい。左内の喉仏がごくりと動く。
なんとか気を反らして、種を我が藩邸に持って帰らないと……。
左内のドリアンコウは四方を見回していたが、不意にその動きが止まる。
その視界には、煮えている鍋が映っていた。
「こりゃナメクジじゃねえな。台所よりずっと向こうから来ているぜ」
「一体なんなんだろうね、この不気味な紐は」
おそるおそる近づいて来たお玉は首を傾げながら板前の持つドリアンコウを覗き込んだ。
「急に動かなくなっちまったね、生きているのか死んでいるのかちょっと切ってみるかい」
気丈にもお玉は、土間から一段高い床の上に置かれた足付きのまな板の上に右京のドリアンコウを置くと、包丁を振り上げた。
包丁が今にも振り下ろされんとした時。
「あれえ、鬼火がっ」
台所に嬌声が巻き上がる。
女中が指さす、竈の下からいくつかの炎が空中に跳ね上がった。
コロコロと土間を転がる火の玉。
「馬鹿言え、これはただの炎だ。物の怪なんかじゃねえ。さっさと水を持って来い」
板前の言葉に我に返った女中たちが流しの横に置いてある水瓶から水を桶に組んでくる。悲鳴を上げながらも、彼女たちは慌てて水をかけ始めた。
油桐の油を和紙に塗った紙、これがドリアンの種を包んでいた油紙である。左内の器用なドリアンコウはそれを引きちぎって丸め、竈の火を付けて放り投げたのである。
もちろん熱いのだが、今の左内は死にもの狂い。熱さを感じる余裕さえない。
隙の無いお玉だが、飛び交う炎の塊に視線は一瞬まな板から離れた。
それを見逃さず左内は台所の出口に近い物陰から、右京のドリアンコウを引っ張ってまな板のある床間から土間の上に落す。
「おらぬ。逃げられたかっ」
お玉は悔しげに歯を剥いて噛みしめる。あたりを見回すお玉だが、薄暗い台所の土間の上に落ちた透明なドリアンコウは、なかなか見つけにくい。
憤然と鼻で息をして、お玉は叫んだ。
「油断召されるな。多分、仲間はもう一匹いよう」
――起きろ右京。
左内は心の中で絶叫する。
しかし、右京はどういうずぶとい神経をしているのか全く起きる気配を見せない。これはさっきのように何らかの強い刺激をドリアンコウに与えるしかないのか。左内は当たりを見回す。
右京のドリアンコウがだらしなく伸びている土間の横には例の七味の壺が置いてある棚が取り付けてあった。先ほどは七味のある棚に右京を引きずって上がる余裕があったが、形状を察知された今はそんな派手な動きはできない。
しかし、どうにかして起こさないと、左内のドリアンコウだけではあのドリアンの種を引きずっていくのは難しい。
左内のドリアンコウは、そっと移動して先ほど周囲を見回した時に目を付けていた枡に盛られた乾燥大豆に身体を捲きつける。短期間にすっかり良い相棒になった左内のドリアンコウは宿主の指令の通りに大豆に絡みつくと投石の要領で縦に円を描いてブンブン振り回す。
――今だ、行けっ
思いっきり投擲された大豆は、狙い過たず棚の上の高台の付いた小ぶりの入れ物に当たった。隣の七味の壺は大豆によって落とすのは大きすぎるという左内の冷静な判断である。
カンっと高い音を立ててその器は揺れ、中身をぶちまけながら土間に砕け散った。
「ひっ、ひっ、ひっ、べくしゅんっ。べくしゅん。ぶわくしゅんっ」
左内の傍らでくしゃみを始める右京。
右京のドリアンコウは緑の粉に塗れて、わらび餅の様相を呈している。
「今度は山椒か……」
くしゃみの中、右京の呻きが聞こえてきた。
「い、いたぞっ」
起きたは良いが、山椒の粉に塗れた右京のドリアンコウの先端は再び人々の追いまわすところとなった。
どこかで見た展開だが、前回と状況は同じではない。
左内の耳には、先ほどからキュロロロローという高い声が聞こえている。
――美鷹。わかるな。
言葉は出せない。しかし、この利口な鷹乙女に左内は全幅の信頼を置いている。ひれ伏した左内が首を捻じるようにして送る真剣な眼差しに、ちょっと胸をときめかせる美鷹。
彼女は脳内から、おけいに伝言を送る。口うるさいが、仕事のできる雌鶏がきっとうまく采配してくれるだろう。
「もう、逃がさないよ」
台所では逃げ場のなくなった右京のドリアンコウを人々が取り囲む、しかし彼らはいきなり将棋倒しになった。
俊敏な左内の触手が足に絡みついて倒しているのである。
「いたよ、こっちにもう一匹」
左内の触手にも追手が迫る。
――時間稼ぎにも限界がある。急げ。
左内のドリアンコウにも疲れが見え始めた。
「ったく、あたしの頭は伝言板じゃないんだからね」
美行藩邸で愚痴をこぼす、おけい。
「右京がこんな妙な能力をつけるから、全くおちおち昼寝もできないよ」
おけいは空高く旋回する2羽の鷹に伝言を送る。
2羽のうちの片方が急に羽をはばたかせると、大きく羽を傾けてくるりと身を翻した。そのまま、まるで嘴で大気を切り裂くように頭から一直線に地上に急降下する。
翼を折りたたみ、足を一直線に伸ばしたその姿はまさに弾丸。
あ わや地上に激突するかと見えたその瞬間、オオタカは頭を持ち上げ、翼を全開にして、重力を振り切る。
ふわりと浮き上がったその眼前には、格子の入った窓。
それに照準を合わせて黄金の瞳がキラリと光る。
オオタカはそのスピードを緩めようとはせず、一瞬のうちにまるで肩をいからせるかのように羽を背中に折りたたんだ。そして折り曲げた足から難なく格子の間をすり抜けると、勢い良く台所の中に飛び込んできた。
二人のドリアンコウに気を取られていた人々が、いきなりの闖入者に目を丸くする。
台所に侵入したオオタカ、貴鷹はその驚異的な視力ですぐに2筋のドリアンコウの位置を見極め、わが身の任務を悟った。
台所を飛び回って暴れるオオタカ。
鍋や、すりこぎを持ってそれを追い回す人々。
「この礼儀を知らない、バカ鳥めっ」お玉が鍋の熱い湯を鷹に向かってぶちまける。
貴鷹は自らの出自を何よりも誇る気高い鷹である。
お玉の言った言葉は彼女に対しての禁句に近い。
「なんですってーーーーっ」
ひらりと湯をかわすと、お玉の顔に貼り付いて羽をバタつかす。お玉は視界を奪われたまま、無様にしりもちをついた。
「きゃあああ、今度は鷹がしゃべったああ」
怪異の連続に、女中たちがへたり込む。
バタバタバタバタ。
貴鷹とは違う羽音。いつの間にか忍び込んでいた舞鷹が、優雅に格子をすり抜けて行った。
池津公の頭から、いきなり美鷹が舞い上がって飛んでいく。
解放された殿はいきなり強気になって敷台に仁王立ちになった。
「ええい、あの無礼な鳥をなんとかしろっ」
しかし、藩主がそう叫んだ時にはすでに、オオタカは空の彼方の黒い点となっていた。
「お前ら、何をした。いい加減に顔を上げたらどうなんだっ」
激高した池津公が二人の髷を掴んで、無理やり顔を起こす。
彼らの額は式台に長時間擦り付けられていたため、真っ赤になっていた。
二人とも眉間が赤くなっているが、特に右京の眉間が赤い。おまけに何やら緑色の粉が付いていた。しかし、それだけでは異変の元凶とは言い難い。
「お許しくださいますか」左内が真っ直ぐに池津公を見つめる。
「うぬぬぬぬ……」
曽根美濃藩主は拳を握りしめ、左内の瞳を睨み返す。
そこへ。
「きゃああああ、左内殿ではありませぬか」
足音も荒く、顔を赤く染めた奥方様が飛び込んできた。
「陽動作戦成功」
まん丸い眼の中で黒い瞳が、してやったりとばかりクリクリと動く。
おけいの足もとには舞鷹が持って来た白くて楕円形の種が転がっていた。