その15
「右京、土蔵にドリアンの種が無さそうなんだ。どうすればいい」
左内は平伏した姿のまま、顔を右に傾けて右京にささやく。
「さあ、私に聞かれてもなあ……。運を天に任せてドリアンコウの導きのままに行くしかない」
「運を天にって、それで埒が明かないから仕方なくお前のその常軌を逸した頭に聞いているんだっ」
その時、台所に潜む2匹のドリアンコウの目に、例の隙の無い女中が映った。奥方様からドリアンの種の探索を頼まれたあの女中である。
「おや、良い匂いだねえ、今日の御献立はなんだい」
奥方付の女中は格上なのであろう、台所にいる人々は一斉にお辞儀をした。
そろそろ夕餉の支度とあって、台所では何人かの女中たちや板前が忙しそうに立ち働いている。
「お玉様、今日の献立はサバの煮つけと大根の煮物です」
板前の答えにうなずきながら、お玉と呼ばれた女中は当たりを油断の無い目つきで見回す。
「いえ、ね、殿が台所に来られたという噂を耳にしたものだから……」
「ええ、昼過ぎにふらりと来られまして」
女中たちは可笑しそうに口元を緩めながらチラリと目配せをする。
「お玉様はまだおいでになって間もないからご存じないかもしれませんが、うち
の殿様は大の漬物好き、何か苛立ちがおありになる時は台所に来られてきゅうりの糠漬けを丸ごと一本ぽりぽりと……」
ツルのような痩身の殿が、台所に忍んできゅうりを貪り食う。まるで何かの妖怪みたい、とお玉は眉をひそめる。
「昼間もおいでになって、今日は白菜の漬物を召し上がって行かれました」
何かの香りづけに使うのだろうか、炒ったゴマを掏るいい匂いが台所に立ち込めている。
「殿のつまみ食い専用の漬物樽もあるんですよ。時々殿自身がここから直接漬物をお取りになることもあります」
「専用の漬物樽……ねえ、ちょっと蓋を開けておくれ」
「いえ、これは殿専用でして、私どもは一日一度掻き回した後は、御用命のあった時しか開けることをゆるされておりません。本日はもう養生しておりますので……」
「火急の用じゃ。大丈夫、奥方様の御命令である。他言はしない、責任は私が持つ」
殿が奥方に頭が上がらないことは、屋敷中の皆が知っている。
女中はしぶしぶ杉の板目がきれいに並ぶ漬物樽の重しを退け、中身を見せた。
こんもりとした糠に埋まって、ところどころ野菜が顔を出している。
「もう結構、ところで殿はここで……」
お玉の言葉は、いきなり台所に響いた女中の悲鳴にかき消された。
「ひいいっ、な、なめくじいいいいいっ」
事もあろうに、ふらふらと糠床に近づいて行ったのは右京のドリアンコウであった。たちまち、女中に取り囲まれる。
「なめくじにしては長い。これは何かの怪異かっ」
台所の中、女中たちの黄色い悲鳴が響く。
「あいつ、な、何をやっている」
物陰に潜んだままの左内のドリアンコウは、あっけにとられて硬直した。
「塩っ、塩っ」
女中たちに追いかけられながら、にょろにょろと逃げ惑う、右京のドリアンコウ。左内に寄宿しているものとは違い、動きにキレが無い。
「糠床だっ、左内」
土蔵に閉じ込められてドリアンの香りを嫌というほど刻み付けれらた右京のドリアンコウの方が、臭いに鋭敏だったらしい。様々な匂いが渦巻く台所、その中でも糠床というとりわけ臭いのキツイ場所でのかすかな臭いをかぎ分けたようだ。
糠床は、軽く蓋をされたままで他の人々はナメクジ騒ぎの方に気を取られている。
「あ、あの中か……」
右京の言葉にひるむ左内。
しかし、運動が得意ではない右京が皆の注意を引きながらよろよろとドリアンコウを操って逃げている様子を見ると、自分が怖気づいている暇はない。
「ぎゃあっ」
傍らから、叫びが漏れる。
左内の視界に、塩に埋まってもがく右京のドリアンコウが飛び込んできた。
透明な生き物は塩に弱いんだろうか、と思いながら左内のドリアンコウは糠漬けの中に飛び込む。
むにゅ。
真っ暗な視界に慌てて灯りをつけるが、ドリアンコウの知覚器がある先端を塞ぐ糠のため全く用をなさない。すぐに全身が何かチクチクとした痛みで覆われた。
視覚が閉ざされた中、感覚を研ぎ澄まして糠床の中を探索する左内のドリアンコウ。しかし、糠床に種を入れて、種は果たして無事なのだろうか。左内の頭に不安が走る。
とりあえず、まずは種を探さないと。
ねっとりした不快を全身に感じながら、左内は触手を伸ばす。
不意に、なにかすべすべした丸みの帯びたものが触れる。これは大根か人参か。
身体の脇に柔らかい感触。層になっている。これは葉ものらしいぞ。白菜か?
左内はこれまで台所に立ち入ったことがない。未知の肌感覚に、どちらかというと固い左内の頭の中はすっかり混乱していた。
ドリアンの種……平べったくて長細い楕円。種の形状を思い出しながら、彼の触手はさらに深く潜行していく。
その時、何やらガサリとしたものに突き当たった。
ガサリ?
左内はその予期しない感覚に沿ってそっとドリアンコウを捲きつけた。四角く折りたたまれたそれは紙のような。
――油紙か。
左内は土蔵の中で見た、油紙に包まれた本をふと思い出す。
これは本より小さい。種の大きさに近い。
池津公もさすがに種をそのまま糠床に入れるようなまねはしなかったという訳だ。
ここに来て鈍感な左内のドリアンコウが、やっと見つけたとばかりにかすかに震え始めた。
「ぎゃあああ」
再び隣で右京が叫ぶ。
塩漬けになりながらも右京の触手は逃げ惑ってくれているようだ。
左内のドリアンコウは油紙に撒きつくと、蓋の隙間からずるりと糠床から引きずり出した。素早く先端の糠を振り払って、油紙ごと台所の陰に取り込む。
「うるさい、何を騒いでいる」
足音とともに、池津公と家臣が敷台に現れ、ひれ伏す左内と右京の前に立ちはだかった。
「お前らが来てから、家臣が乱心している。何かやりおったのか」
非はあるとしても、隣の藩の家老である。これほどまでのぞんざいな扱いは無礼極まりないことだが、美行藩の評判や左内の若さのため軽く見られているようだ。
「おい、顔をあげろ」
冗談じゃない。今、顔をあげたら二人とも額からだらんとドリアンコウをぶら下げている状態だ。
「あげるんだっ」
激高した殿が左内の髷を掴んで揺らす。
「申し訳ございませぬっ」
頑として、頭を上げない左内。
「お怒りが解けない限り、頭は上げられませぬ」
「ええい、ならばお前だ」
矛先が根性なしの右京に向けられた。
――まずいっ。
左内が血走った眼でそっと横を窺う。
幸か不幸か、右京は塩漬けの衝撃で気を失っていた。