その14
なんと右京が寝ているではないか。左内の背中には冷や汗が伝った。
「お、起きろっ」
押し殺した声で、呼びかけても安らかな眠りは冷めそうもない。
昨日はさしもの右京も睡眠不足だったのだろう、一旦寝入ってしまった右京はちょっとやそっとのことでは起きてこないことで有名だ。
それにしても、この阿呆……。
ずううううううっ。
緊張感の無い、鼾に左内は歯噛みする。
――コイツ、戻ったら永遠の眠りにつかせてやるっ。
悪態を付きながら、もう誰の助けも借りない、いや借りられないという事実をいやというほど思い知らされた左内。彼は開き直って頭の中でドリアンコウに呼びかける。
――もう頼れるのはお前だけだっ。
弱々しく、ドリアンコウの先端が頷く。
触手の先端は、土蔵から跳ねるように飛び出すと、掴まれている胴体の方にしゅるしゅると逆戻りした。
大広間に居たのは針金のような髭を蓄えた大きな男であった。右手で握りつぶさんとばかりに透明な触手を締め付けている。
「これは、透明なうどんのような……生きているのか?」
うねうねと身体をくねらせるドリアンコウに男の顔が近づいた。
その一瞬のスキを逃さず、かんぬき差しにされた大小が男の腰で揺れる。
次の瞬間、脇差が腰から離れ宙を舞った。
「何奴」
眼にも止まらぬ速さで右手で束を握ると大刀を抜いた男は脇差に斬りかかる。自由になったドリアンコウは足元に投げ出された。
打ちかかる刀を水平に受け止める鞘に入ったままの脇差。よく見ると脇差にドリアンコウの先端が絡まっていた。左内が操っているのである。
「ええい、妖怪かっ」
男は全身の体重をかけて、脇差を抑え込む。だが、脇差は一歩も引かない。
男の息が荒くなり、めくれ上がった袖から盛り上がった筋肉と浮き出た血管があらわになった。
さしもの脇差も、ぶるぶると小刻みに震え始める。
その時、いきなり支えを失ったかのように脇差が力無く落下した。同時に力いっぱい打ちかかっていた男は、前のめりに倒れる。ぐっさりと男の刀が青々とした畳に突き刺さった。
「ええい、こしゃくな」
男は素早く大刀を引き抜いて、畳を尺取虫走法で逃げるドリアンコウに斬りかかる。
ざくっ。
寸でのところで刀をかわすと、透明な紐は右へ右へと弧を描くように逃げる。
「ええい、ちょこまかと動く奴だ」
男が切りつけるたびに、ドリアンコウは華麗に身をかわしイグサの切れ端が舞いあがる。
「待てい、物の怪っ」
とうとう刀がドリアンコウに追いつき、先端に襲い掛かった。
しかしその瞬間、男の両足の周りにドリアンコウが作った輪が締まる。
前に進もうとした男は両足を固定され、つんのめって両手で刀を掴んだまま宙を浮くと、そのまま前のめりに叩きつけられた。顎をしこたま打った男は悶絶してうずくまっている。
「何の騒ぎだ」
駆け付けた者達は、先ほど次の間で左内たちを見張っていた輩である。彼らはその場の光景を見て息を飲んだ。
主君のお気に入りの大広間の畳は無残に切り裂かれ、抜刀したまま前のめりになった男が呻いている。
「そこらに居るはずだ。透明な長いうどんのような物の怪が……」
男の言葉に、同輩たちは首を傾げる。大広間を見渡しても、物の怪らしきものの姿は無い。
「おい、お前働きすぎだ、少し休め」
仲間達が男を抱えあげようとした、その時。
「何の騒ぎだ。騒々しい……ひょえーーーーっ」
足音高く入ってきた池津公の甲高い声が大広間に響き渡る。
「おい、なんだこれは。この畳にどれだけつぎ込んでいると思っているんだ」
いらいらと家臣に叱責する、池津公。慌てて平伏する家臣たち。
その隙に畳の縁に沿って身を伏せていた、ドリアンコウが脱兎のごとく大広間を逃げ出す。
最有力だと思っていた土蔵に、ドリアンコウは無かった。
と、すれば奥か。
大広間から土蔵の脇を通り、主君以外の男性の侵入を禁止する奥御殿に突入する。表の部屋とは違った、女性らしい雰囲気の部屋をいくつか過ぎるがドリアンコウは反応しない。
「うっ……」
しかし、左内が反応した。
なぜなら襖の隙間を潜って入り込んだその部屋には、左内を写したとされる錦絵が所狭しと貼ってあったからである。
隣の藩邸の奥方が、自分に興味があるという噂は聞いていたが。ここまでとは。
中には、特注したのだろうか錦絵の一部が女性のような髪型と着物に変えられているものもあった。画像の注視に耐え切れず、左内は目を開けて溜息をつく。
そこに、軽やかな足音がいくつか近づいて来た。左内のドリアンコウは慌てて文机の下に隠れる。
「殿がまたなにかいけずな事をやり始めたと聞きましたが」
お付のものを従えて入ってきたのは、誰あろう奥方様である。
白髪が出てもおかしくない年齢ではあろうが、染めているのであろうか黒い髪を結いあげて、後ろに細く鳥の尾のように流している。白地に紫と抑えた赤で小花を散らした若々しい小袖が、年齢をずっと若く見せていた。
奥方は細い切れ長の瞳を女中に向けて、錦絵を見てうっとりと溜息をつく。
「あまりに酷いことをして、左内殿に嫌われなければ良いが……」
「なにやら、種をお隠しになっている様子です」
「はて、種ですか?」
奥方は首を傾げる。
「昨夜から奥の方にはおいでではないが、一体どこにどうされたやら。口惜しいのう、もし私が知っておれば、左内殿にお教えするのに。そうなれば、私のこの美貌、左内様が私に傾かれるのも時間の問題……」
煩悩に浸っているのか切れ長の目がかまぼこのようににんまりと弓なりになる。
「私も殿が御隠しになった種のありかを探っておきましょう」
女中が一礼して部屋を出てゆく。
――この女中、妙に隙が無い。
左内は、じっ、と廊下を行く女性の後姿を眺めていた
しかし、今の会話から考えると、ドリアンの種を持った殿がこの奥御殿に隠しに来たとは考えにくい。
と、なればやはりドリアンの種は表の方にあるようだ。
左内は、ドリアンコウを徐々に収縮し、二人が平伏している式台に戻した。
触手で平伏しながら眠りこける右京の額をつついたり、鼻をくすぐったりするが、この太平楽な発明家は全く起きる気配がない。
起こすことをあきらめた左内は、思案を巡らす。
――右京のドリアンコウは一体どこに居るんだ。
あると思っていた土蔵に、ドリアンの種は無かった。
一体、この屋敷のどこに隠されているのか。この上は右京が探し残している右回りの探索路を行ってみるしかない。
――お前、相方の行方は分からないか
相方の臭いもわかるらしい、ドリアンコウの先端が任せろとばかりにくいくいと曲がると、急に意志を持って動き出した。
左内の脳内に、長い廊下から続いて土間に作られた竈が飛び込んできた。
大きなまな板が見える。隅っこには漬物らしい壺、そして棚には塩やしょうゆ、香辛料などの小さい壺がきちんと並んでいる。
「う、右京……」
左内が絶句する。
右京のドリアンコウが居たのは、なんと台所、それも菓子箱の中であった。
頭をつっこんだまま、右京のドリアンコウは至福の時を過ごしているかのようにぴくりとも動かない。
「栗饅頭、も、もう、食えない」
隣から、幸せそうな寝言が聞こえてくる。
「う~~きょ~~~~う~~~~」
噛みしめた口から、地の底を這うような声が漏れる。左内の額に青い血管が浮き出た。
「お、き、ろっ」
呻きにも似た声と同時に、左内のドリアンコウは右京のドリアンコウに巻きつくと、いきなり棚の上の七味のツボに先端を叩き込んだ。
ただでさえ敏感なドリアンコウである。
「ぎゃおーーーーっ」
ガンッ。
慌てて飛び起きそうになる右京の後ろ頭を、平伏したままの左内の右手ががっちりと式台に押さえつける。
びくっ、びくっ、と痙攣するかのように体が動くが、左内は容赦しない。右京のドリアンコウは、井戸から組んできた水と思われる桶に飛び込むと、わが身を震わせて七味を洗い流した。それとともに、びくっ、びくっという動きは徐々に収まっていく。
「ああ、よく寝た……」
しばらくして、右京が小声でつぶやいた。