その13
左内は平伏しながらじっと目を瞑っている。
右京は眼から入る情報があると集中できないため、ドリアンコウが伝えるおぼろげな画像が頭に伝わらないと言っていた。確かに、目を瞑ると瞼の裏に広がる深淵にドリアンコウが見ていると思われるぼんやりと長い廊下が浮かんでくる。
しかし、その景色は右と左に振れるだけで、一向に進もうとしない。
――迷っているのか。
ドリアンコウ達が迷うのも無理はない。何しろ池津公は本物の2万石の大名である。いや、一応天晴公も2万石なのだが、浪費と遊興に忙しい殿のおかげで美下藩は常に赤貧、とても2万石と言える中身は無い。
こじんまりとしてみすぼらしい美下藩邸とは違い、池津公の屋敷の敷地面積は約8000平方メートルを優に超える。その中には藩士たちの勤番長屋と御殿様御殿、奥様御殿が立ちならび、それぞれが数々の部屋を持つという豪奢な造りだ。
沢山の部屋がある。という事は区切りも多いのだが、その区切りによってドリアンコウの求めるかすかな臭いも遮断されてしまっている。このぶんでは、かなり近くに行かないと触手たちの探索機能は作動しないだろう。
畳敷きの玄関で左内のドリアンコウは、透明な線状の身体を困ったようにくねらせると、わずかに開いた襖の隙間から次の間に滑り込んだ。
――まずい! 身を隠せ
次の間に入ったとたん、左内の頭には大写しになった足袋の先が飛び込んできた。左内の触手が慌てて引っ込み、部屋の隅っこにじっ、と身を寄せる。
玄関から入ったすぐの部屋、ここは使者の間として来客が主人への取次ぎを待つ場合に使われることの多い場所である。そこには二人の侍が、いかにも退屈そうに立っていた。
ドリアンコウは鎌首をもたげるように、そっと上方を見る。
と、わずかに開いた襖の隙間から侍が式台を窺っていた。
「あの二人、全く動きゃしないぜ。何をしでかすかわからないから見張っておけなんて、まったく殿も疑り深い」
「そう仰せならばさっさと追い返せばいいんじゃないか、なあ」
傍らに立っているもう一人の侍が、喉の奥まで見える大あくびをした。
「ま、こうでもさせないと殿の溜飲が下がらないんだろう。うちの殿様は結構根に持つからな」
移ったのかもう一人もあくびをする。
すっかり気が抜けている家臣の横を、左内のドリアンコウはそろりとすり抜けていく。さすがに左内が動かしているだけあって隙が無い。
――大広間か。
廊下を渡ってたどり着いた次の間は、まるで畳の海であった。
曽根美濃藩の江戸詰めの家臣を全員入れてもまだ半分は余るくらいの、無意味に近い広さ。畳替えをした直後だろうか、左内の頭の中には直接清々しい香りが伝わってくる。
こんな香りは何年振りだろう、最後にこの匂い嗅いだのは確か国元の家でだった……。左内は思わず大きく息を吸い込む。
それにしても、これだけの畳みを常にきれいに保っておくのには一体いくら掛かるのだろう。左内の頭で思わずそろばんがはじかれる。美行藩の畳替えは、厳しいやりくりの中、常に後回しにされている。擦り切れて汗と埃の臭いが染みついた畳を思い出して、同じ2万石の大名でこうも違うものなのか、と左内は溜息をついた。
左内の悲嘆には構わず、すべすべとした畳の上をドリアンコウは迷うことなくどんどん進んで行く。ここにはドリアンの気配は全くないのだろう、ドリアンコウは最短距離で横切った。
眼前の障子の間をすり抜けると大広間よりは小さいが床の間を持つしっかりとした造りの部屋にたどり着いた。磨き立てられた床の間に、なんだか落ち着かない気分にさせる麗々しい床の間の調度がこれ見よがしに飾られている。どうやらここは客をもてなす部屋のようだ。
「これは、高麗縁か」
左内はぼんやりと映る、大広間とは違った畳の縁に目を凝らす。畳の縁は高麗縁と呼ばれる、白地と黒糸で大きな菊の花の文様があしらわれているものであった。これは高い身分の方が使う畳の縁である。と、いう事はこの部屋は何時でも高位の賓客を迎えることができるという事だ。
この高麗縁といい、分不相応なくらい大きな広間。これは池津公の上昇志向を如実に表している。いつの日か自邸に高位の賓客を招かん。池津公の並々ならぬ心の叫びが聞こえてくるようだ。
それに引き替え、美行藩邸の畳みは石高の低い小名ですら、普通は恥ずかしくて迎えられないほどのくたびれよう。いや、体裁を気にしない天晴公だから、もしかするとたとえ将軍であっても平気であの広間に上げてしまうかもしれない。
――うわ、下手をすると不敬罪でお家断絶だぞ。
左内は、慌てて脳内の妄想をかき消す。
しかし、あの藩主なら冗談ではなくやりかねない。全く栄達とか名誉とか気にしない方だからな……。
左内が苦笑したその時、廊下を抜けて隣の奥様御殿に向かう渡り廊下の横、外壁を白い漆喰で塗り固められた切り妻造りの土蔵らしきものが立っているのが目に飛び込んできた。土蔵の入り口は頑丈そうな太い錠前でがっちりと閉じられている。
しかし、左内が見たかったのはそこではない。ドリアンコウを介した彼の目は、土蔵の窓を探していた。
土蔵の上部に開いている窓には庇が付いており、泥棒除けの細い格子が埋め込まれている。細いとはいえ、格子の間は一寸以上開いている。左内は安堵の余り、大きく肩で息をした。ドリアンコウにかかってはこんな格子、なんの役にも立たない。
――よし、ここから一つずつ改めよう。行け。
しかし、ドリアンコウは戸惑うように土蔵の下でうろうろとするのみ。
揺れる視界の中、左内は土蔵で陰になった部分が、かすかに光っているのに気が付いた。近寄ると、土蔵に接した地面の一部が湿っており、そこが青く光っている。
――何かの目印なのだろうか?
だが、左内に考え込んでいる暇はなかった。
気が進まなそうなドリアンコウを心の中で叱咤して探索に送り出す。
さすが右京、発明に関しては芸が細かい。アンコウの名前を冠しているだけあって、暗い土蔵の中に入るとドリアンコウの先端は明るく灯った。
くしゅっ。くしゅっ。
ドリアンコウが入りたがらなかったのはこのためか。進めば進むほど舞い飛ぶほこりに左内は平伏しながらくしゃみを連発した。
蔵の中には、金色に光るごてごてと飾り立てた悪趣味な調度品が所狭しと詰め込まれている。だが、ドリアンコウは全く反応しない。
――ここには無いのだろうか。
焦る左内。
しかし、彼はふと調度品に隠れるように積み上げられた柳行李に目を止めた。何人たりとも手を触れることなかれと藩主の但し書きがつけられている。
左内がそこに居たならば、震える手でその行李を開けただろう。
気持ちが伝わるのか、ドリアンコウも小刻みに揺れながら行李を縛っている紐をほどく。
しかし、その中に入っていたのは油紙に包まれた書物のような書類ばかりであった。
――ここには、無いのか。
落胆のあまり、呆然と固まる左内とドリアンコウ。
その時。左内の額に激痛が走った。
同時に、何かが派手に倒れる音が響く。
「ここに、綱を張った奴はだれだーーっ」
太い男の声。
ドリアンコウは窓からわが身を垂らしている。そのため、知らず知らずのうちに一部が畳や床からピンと浮き上がってしまい、誰かが足を引っ掛かけたのだろう。左内の目が届けば、避けられた事態だったかもしれないが、彼の視界はドリアンコウの先端だけに集中している。
つまみあげられたのだろうか、いきなり引っ張られる感覚に左内は悶絶した。
「お、おい」
助けを呼ぼうと目を開けて、傍らの右京を呼ぼうとした左内は息を飲んだ。
ずっ、ずうううううううっ。
あろうことか、隣の頼みの綱は気持ちよさそうに鼾をかいて寝入っていたのである。