その12
「それでは良いか? 装着してみるぞ」
ほうほうの体で土蔵から出てきた右京は、左内の求めるままに自分の額に例のドリアンコウをくっつける。従順なのはやはりさっきのお灸が効いたのだろうか。
右京の額にくっついた透明な粒は、もぞもぞとしながら皮膚の中にもぐりこんで行く。すっかり入り込んだ後には、右京の額にまるで仏像のような赤みがほんのり残るだけであった。
「これ、取れるんだろうな」
右京は黙って頷くと、それ、とばかりに小瓶を差し出した。
内を恐る恐る覗き込む左内。ギヤマンを持つ彼の手がかすかに震えている。今一つ苦手、というより毛虫系は大嫌いなようだ。
暫く躊躇していたが、左内はドリアンコウを用意させた割り箸でつまみあげると、目を閉じて意を決したかのように勢いをつけて額に置く。
その途端、にゅるっ、とした冷たい感触が額の上で蠢き、左内の全身が総毛立った。
「うっ」
「な、ちょっと快感だろう」
この変人め。うれしそうに話しかける右京を睨む左内。
「じゃ、まず私がやってみるぞ。まずは……そうだな菓子の香りに的を絞ろうか」
その言葉とともに右京の額にイボができたかのような盛り上がりができた。そして右京が目を閉じると、この盛り上がりが割れて中から、透明な紐のような触手がじわーーっとくねりながら伸びてくる。
「これはまた、面妖怪奇な……」
とは言いつつ、忠助も忠太郎もなんだかうれしそうに右京の額を見つめている。
触手は右京の肩を伝い、足元に伸びると掘立小屋の中に尺取虫のように動きながら入って行った。
「どうしてあんなに気持ちの悪い動きをするんだ」
左内が眉をひそめる。あの動きはどう考えても毛虫嫌いの自分に対する嫌がらせの設定としか思えない。
ずるり、ずるり。
暫くして触手が引きずり出してきた風呂敷包みを見て、左内が顔色を変えた。
「わーっ、それは止せ。火事の詫びに隣に持っていく露草堂の和菓子だっ」
「残念、汚れちまったからもう御遣い物にはならんよ」
触手は器用に包みをほどくと、中の小箱の蓋をあけて菓子に撒きつく。そしてそのまま菓子を右京の口元に捧げ持って来た。
「お前、最初からこれが目当てか」
「まあまあ怒るな。しかし美味いな、これは薯蕷饅頭か。私には焦げた栗饅頭だったのにずいぶん扱いが違うじゃないか」
薯蕷饅頭とは、すりおろした長薯と米粉を練り上げて餡を包み、蒸かした饅頭である。これは栗饅頭と並ぶ、露草堂の人気商品であった。 柔らかくて上品な白い饅頭は現世に別れを告げる間もなく、次から次に右京の口に消えていく。その光景を、左内は忌々しそうに見つめていた。
「な、左内。すごいだろう、このドリアンコウは」
「いや、すごいのは認めるが……」
左内の目の前には、額からぶらりと垂れ下がる透明な紐が不気味にうねっている。いくら透明でも、小指の爪の半分ぐらいの太さがあるので見えてしまうのだ。
「これ、見えるぞ。ほら……」
「ギャー―――っ」
左内が箸でその触手の先端をつまみ上げた瞬間、右京が絶叫して飛び跳ねた。
「ひたーーーっ、ひたっ、ひたっ」
ぽかん、として意味不明な言葉を叫ぶ相手を凝視する左内。
「ひたーーーーーいっ」
「額?」
大きく顔を振って、涙目で左内の箸を指さす右京。
良く見ると、財政倹約のため値切りに値切った安物の割り箸はささくれ立っており、その一部が触手にめり込んでいる。
「あ、痛いって言っていたのか」
思わず、持った箸にちょっとだけ力を入れてしまう左内。右京が目を吊り上げて睨む。しかし、こんな時でもないと日ごろの溜飲を下げる機会はなかなか訪れてこない。ささやかなお仕置きである。
「これ、相当敏感なんだな」
感心するように、首をひねる左内。一方、箸を逃れた触手は、慌てて右京の額の中に飛び込んで行った。
「しかし、これでは使えんぞ。この触手、相手から丸見えだ」
左内は腕組みをして、目を閉じた。
「なに、隣のうらなり家老が来たのか?」
家臣の報告に、読みかけの草紙を慌てて懐にしまうと、咳払いして池津公は立ち上がった。
「ははっ、昨日の迷惑のお詫びと仰せでしたが」
彼奴ら、献上品泥餡の種の事を嗅ぎ付けて取り返しに来たのだろうか。
藩主の頭にふと悪い予感が過ったが、頭が弱くて遊び人という噂の天晴公とそのうらなり家老に何ができるのだと、すぐさまその考えを振り払う。
なにせ、泥餡の種のありかは自分にしかわからないのだ。
「ふん、待たせておけ。式台で十分だ」
と、口にしてから、池津公は慌てて付け加えた。
「いいか、奥には内緒だぞ」
左内の事が大好きな妻に見つかろうものなら、どんな展開になるかわかったものではない。池津公は何度も念を押すと玄関に向かった。
曽根美濃藩邸の玄関は北向きである。この玄関から入るとすぐのところに土間から一段高くなった板張りの場所が作られているが、これが式台である。
草履などを脱ぐときに腰かけたり、客の送迎に使う場所であって、本来は通過点である。ここに座らされて待たされるなど非礼極まりない扱いであるが、火事をおこしてしまった方としては黙って従うしかない。
奥から出てきた池津公の姿を見ると、式台に這いつくばり左内と右京は頭を下げた。
「毎回の人騒がせ。何のつもりだ」
ちょっと甲高い、神経質な声でいきなり二人を叱り飛ばす池津公。
「昨日の火災、もし我が館に飛び火でもしたらどう責任をおとりになるつもりじゃ。頭の弱い藩主と、間抜けな家臣どものおかげで大変な迷惑だわい」
「も、申し訳ありません」
左内は額を式台にこすり付けんばかりにして平謝りする。
「はてさて家治様の御覚えがめでたいようだが、将軍の目は節穴か。一体いつ気が付かれることやら、美行藩主は御尊顔に泥を塗るような暗愚だとな」
「ははっ、このたびの不始末、誠に慙愧に堪えませぬ」
ひたすら謝る左内。しかし、彼の頬は藩主ばかりか将軍までも愚弄する池津公に対する怒りで赤く染まっている。
「さっさと帰ってしまえ」
「いえ、帰りませぬ。お怒りが解けるまで、ここで頭を床に着け平伏しております」
「ふん、勝手にしろ」
ドリアンの種の話が出ないことに安堵したのか、頭を式台に付けたままの二人をそこに残して、池津公は足音も荒く立ち去って行った。
しん、と静まり返った式台。
「うまくいったな、ひたすら平伏作戦」右京が囁く。
「ああ」
二人の頭の下からするすると、紐のようなものが伸びてきた。もちろん例のドリアンコウに他ならない。
しかし、式台の上を這う2体のドリアンコウはそこで動きを止めた。まるで、どちらに行くべきか逡巡しているようである。
「種だから本体ほど臭いが強くないんだな」
生みの親の右京が横目で2体を見ながらつぶやく。
元来仲の良くない藩同士である、お互いに行き来がないため部屋の配置に関する情報はほとんどない。土蔵の場所も真ん中あたりにあるだろう、程度の認識である。
この式台には見張りはいないが、一歩室内に入り込めば十重二十重の警戒がされていることは想像に難くない。探索には細心の注意が必要と思われた。
「しばらくいろいろと偵察させよう、左内お前はまっすぐ進め、私は右に行く」
ドリアンコウたちは、そろそろと床を這い登って行った。