大団円
夕闇が大奥を包む戌の刻。
将軍の普段の居住地である中奥と大奥を隔てる銅の塀の向こうから鈴の音が響く。
中奥、大奥双方の錠口番がうやうやしく杉戸を引き、上の鈴廊下に将軍家治が姿を現した。
かしこまって出迎えたお年寄りと表使いが、深々とお辞儀をする。
お小姓が、表使いに将軍の刀を渡し、表使いはそれを掲げ持ってお年寄りとともに、将軍を先導して歩き始める。
お鈴廊下を進んですぐの左手にある御小座敷。ここが今夜の将軍の寝所である。
「お待ち申し上げておりました」
中年寄の深山、お年寄の松島とともに着飾ったいくはが将軍を迎える。
「お前がいくは。例の汁の作り手か」
いくはを一瞥すると、家治はニヤリと笑った。
「噂に聞いておるぞ。人を魅了する不思議な汁を作る稀代の美女がいるとな」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
頭を畳に擦り付けていくはが返答する。
「誰にも解けない、美味の謎。今宵は明かしてくれるのであろうな」
「謎……など滅相もございません」
「ま、毒を食らわば皿まで、というしな」
将軍の言葉に、顔を伏せたいくはの両目が大きく開かれた。
「後ほど、寝所であおう。いくは」
将軍は立ち上がると御小座敷の奥の蔦の間に入っていった。この後、将軍は食事を取る段取りになっている。
その間に、御小座敷上段の間で床入りの準備がされるのだ。
「さ、いくは殿も、お着替えを」
深山にせかされて、いくはも立ち上がった。
「いくは殿、あなたの汁を喧伝したのは私。ご出世の暁には是非――」
深山が意味ありげに微笑む。
いくはは無言で会釈をした。
今から寝所に入る前に危険なものを持たないか、厳重に調べられる。だが、たとえ全身調べられてもいくはには何も支障がない。
この指先。
毒の仕込んである、この指先さえあれば――。
宇治の間から廊下に飛び出した天晴公は両手で裾をからげながらがに股で南に走る。ここからしばらく行って突き当りを右に折れるとお鈴廊下につながるはずである。
「待て、不審な奴め」
溜まりから、殿の足音を聞いた女中たちが現れた。
さすがに溜まりで警護に当たるだけある、素早くなぎなたを構えると、臆することなく髪を振り乱した物の怪のような殿に打ちかかった。
「うおおおっとお」
腕には全く覚えのない殿。
しかし、これだけには覚えがあった!
仁王立ちになってなぎなたを構える女たちの中に全速力で走り込み、なぎなたの壁の直前で体をのけぞらす。
大奥の磨き立てられた床を、勢いづいた殿の体が風を切って滑っていった。
「きゃあああああ」
スライディングしながら、殿は目にもとまらぬ早業で次々と娘たちの着物の裾をまくり上げていく。
舞い上がる風に、はためく色とりどりの腰巻。
「おお、赤腰巻、青腰巻、黄腰巻~~」
黄色い悲鳴と共に、女中達は思わずなぎなたを握りしめて、立ちすくむ。
これぞ幼い頃から鍛え上げた、滑走腰巻めくりの技である。
「チラ見えの白魚の足。眼福眼福、ヒャッホー」
「ええい、この化け物女、許さぬ」
そのまま滑っていれば、無事女たちの間を滑りぬけていたであろうが、裾をめくってしまった分、スピードが落ちて最後尾の女中のところで殿は止まってしまった。
最後尾の女中は、まるで岩のようながっしりとした巨漢。
「どうした、あたしの腰巻はめくらないのかい」
どん。巨漢の女中が床になぎなたの柄を突き立てた。
「え、いや。もう、十分かなぁ……って」
なすすべなく、廊下に寝そべる殿。
目の前の女中が殿の鼻先になぎなたを突きつける。
万事休す。
悪運ここに尽きたり。生よりも色を好んだ男、天晴公吉元。大奥に死すっ!
さすがの殿も、観念して目をつぶる。
「でも大丈夫。地獄でも、女がいれば天国じゃ!」
「冗談じゃないっ、藩主が腰巻めくりをして大奥で死んだなんて、稀代の恥!」
この声。
あの世にも、小姑がいるのか。
おそるおそる目をあける殿。
目の前の女中のみぞおちに、握りこぶしがめり込んでいる。
次の瞬間、殿に向かって巨体がのしかかってきた。
「ぐえっ」
「お願いです、少しは懲りてください」
左内の後ろにはみぞおちを打たれて意識を失った女たちが累々と倒れている。
「手加減しています。遠からず目を覚ますでしょう。さ、将軍が危ない。急ぎましょう」
「右京はどうした?」
「美鷹たちに解毒剤を持ってこさせて妖蜂化した女中たちの治療をしています。すぐこちらに合流するはずです」
「高丘やお袖は?」
「彼女たちに立ち向かっていた女中は私が昏倒させました。お二人には、正気の女中たちを鎮めてもらっています。こちらには向かわぬように、と」
なるべく事を荒立てたくはない。
不始末は中奥方にはあらわにせず、大奥のことは大奥でけりをつけたい。
大奥は自治を守る。それが、高岳の悲願であった。
「私がいくはを止めます。殿は将軍をお守りください」
「え? わしが? この格好で?」
「危急の時です、仕方ありません」
左内は、上段の間に殿を押し出し、いくはが控えているであろう下段の間に飛び込んでいった。
「御免っ」
声とともに障子をあけ放つ左内。
そこには、中臈の深山が倒れ伏していた。
「お前は――」
ふりむいたいくはが硬直する。
白羽二重の寝間着に身を包んだいくはは、身をひるがえして上段の間に駆け出した。
「待てっ」
左内が駆け出すも、元軽業師のいくはの足は女性とは思えないくらい速く差が縮まらない。
いくはの手が、上段の間との境の襖にかかる。
間に合わないっ。
その時。
いくはの体が、宙に浮き上がった。
次の瞬間。彼女の体は勢いよく引き寄せられ、左内の目の前の畳に落下した。
呆然としてあたりを見回すいくは。
「な、何が起こったんだ」左内も呆然とつぶやく。
「いや~~。これは、羊羹30本分の働きだなあ」
背後から、のんびりした右京の声が。
「呉服の間勤めを始めたころ、いくはの襦袢をばらして縫い方を解析したことがある。その時に自動縫製器で縫いなおしたのだが。あれ以来着心地が良いということで、いくはは必ずお富を名指しで仕立ての依頼をしてきたんだ。ま、お富を使命するという事は、必ず私が仕立てているという事だからな」
「な、何か仕込んでいたのか?」
激しい落下の衝撃で体が痛むのか、よろよろと立ち上がるいくは。
「いや、悪気はなかったんだが、特製の自動縫製器で使う自前の糸には、微量の鉄分が含ませてあるんだ。今日も着ているだろ、肌襦袢」
そして右京は懐から、おていの針を引き付けて悪事を露呈させたあの黒石、すなわち超磁力発生器を取り出した。
「もう観念しろ、ここまでだ。岩本奏石が娘、いくは」
左内が低い声で話しかける。
「私の正体を知っていたのかい、片杉左内――、いや、おさな」
「お前こそ、なぜ、私がおさなと知っていた」
今度は左内の目が丸くなる。
「裏の筋から天晴公が乗り出したらしいとの情報が来ていた。そうなると、江戸家老の左内様が動かないはずはない」
隙のない身のこなしで、左内に対峙するいくは。
「お前のことは、妹からよく聞いていた。一目でわかったよ」
「妹?」
その目は、暗殺をもくろむ罪人にしては、あまりにも澄んでいる。
「左内、いや、おさな。そこをどいとくれ、私はお前と戦いたくないんだよ」
その声は悲鳴にも近かった。
「お前の一族が江戸城の秘密を守るため、幕府に口封じされたのは許されないことだ。だが、それは以前の将軍の話、今の将軍を殺めてもなんの解決にもならない。だから、復讐はあきらめてこのまま市井に戻って――」
「それでは、何一つ悪いことをしなかった我が祖父、父の無念、どうしてくれるっ」
左内は立ち尽くす。
「私にはどうしようもない。しかし、必ず、我が殿とともに、第二第三のお前たちが出ないように至力を尽くすつもりだ。もし、将軍が暗殺されこの世が再び動乱の世になったら、たくさんの流民、孤児が日本国中にあふれるだろう」
「同じような遺児が――」
いくはの視線が左内の目にまっすぐ向けられた。
「頼む、過去は置いて未来を見てくれ」
「妹のお麗も、私も、筆舌に尽くしがたい苦労をしてきたのだ。芍薬の君」
左内が息をのむ。
「お麗、芍薬――」
「覚えているか?」
覚えている。
覚えているが、彼女は敵であり、想いを寄せてはいけない相手。
左内の心の奥底にこの苦い思い出は封印されていた。
しかし。今、閉じ込められていた思いが、ほとばしる。
幼い日、芍薬を与えた可愛らしい少女。そして、敵方となったにも関わらず切られた自分の背中を治療して、逃走を助けてくれた。
だが、左内は彼女の伴侶に深い傷を負わせている――。
「妹のお麗は、お前のことを憎んでも、憎んでも、憎み切れなかったようだな」
いくはの口元がかすかにほころぶ。
「そして、お前も妹のことを憎からず思っていてくれたのだろう」
言葉を失い、立ち尽くす左内。
「お前の御膳所での立ち居振る舞いは、妹にそっくりだった。ちょっとした仕草、そして歩き方。脳裏に焼き付いていたんだろうね、好きな人には似てくるもんだ」
「お、お麗さんのこと」
左内は、大きく息を吸い込んだ。
「好ましく思っていた――」
「うっわ~~聞いちゃった、衝撃の事実。お鶏さんが聞いたら卒倒するわあ」
障子の後ろで盗み聞ぎしていた貴鷹が羽で口元を隠しながらぼそりと言う。
いくはは、おかしそうに動揺が隠し切れない左内を見る。
そして小さなため息をついた。
「おじいさまが眠るこの江戸城で、お前とあったのもまた縁かもしれぬ。我が人生の目的はただ一つ、敵を打つことであったが、敵を討たぬ、というのもまた一つの選択肢なのかもしれんな」
憑き物が落ちたような表情でいくはが微笑む。
「未来を見る、か。人を殺める直前で、おじいさまが救ってくれたのかもしれぬ。それに生きて帰ってお麗に伝えてやりたい事ができた」
険のあったいくはの目元が緩む。
「お前の想い人は、やはり素敵な方であったと」
いくはの横に蜂に姿を変えた月山が飛んできた。
「どうしても、月山だけが解毒できなかったんだ」
右京が額に皺を寄せて首を振る。
「これが、月山様か」
蜂はうんうん、とばかりに顔を立てに振る。
「私に懸想されていたのは知っていましたが、私をつけて地下に迷い込み、あの蜂に刺されてしまったのですね。とんだとばっちり、なんとお気の毒な」
いくはは、少し考えると月山に尋ねた。
「私はお暇をいただきます。どこか遠くで先祖を弔おうと思います。一緒に、おいでになりますか?」
蜂は一つうなずくと、うれしそうにいくはを背に乗せた。
「深山様と、将軍の添い寝の方々は、寝入るように私があらかじめ催眠術をかけております。明朝には目が覚めるでしょう」
「いくは、達者で暮らせよ」
左内が微笑む。
いくはは軽く会釈をして月山とともに闇の中に消えていった。
「そういえば、殿は?」
そーっと、上段の間に近づく、左内、右京。そして、勢ぞろいした鷹姉妹。
そこで、三人が聞いたのは。
上段の間から響いてくるドタバタという足音。
「お許しを、お許しを、相手をお間違えです。う~え~さ~ま~~~~」
「いくははもうよい。大奥には今までお前みたいに狂おしくそそられる女は居なかった。わしは獣のようなお前と今宵は遠慮なく楽しむ所存じゃ」
「ひえええええっ、獣は上様の方です~~~~っ」
「誰かあああ、誰かあああ、出会え出会ええええええっ」
いくはの催眠術で添い寝の二人は寝ている様子だ。
誰も出てこない。
「ここまで来たらもう観念しろ」
「ご上段の間だからって、ご、ご冗談を……」
女体丸の一気飲みが、男性には理性を失わせるほどの魅力を発揮しているのであろう。
部屋の中をばたばたと走り回る音。
しかし、何かが倒れる音とともに、足音が止む。
突然の静寂。
「ぎゃあああ、おたすけ~~~~」
殿の絶叫が響き渡った。
ぷっ。
耐えきれず吹きだした左内が、あわてて口を両手で覆った。
左内、右京、鷹姉妹。皆、苦し気に震えている。
「助けに行きますか?」美鷹が尋ねる。
「た、たまにはバチくらい当たらないと」
笑いすぎて涙目の左内がつぶやく。
宇治の間の成田様のお札をないがしろにした報いか。
はたまた、当たるべくして当たったバチか。
「こ、今回は、思いっ切り思い知っていただこう」
左内の言葉に全員が大きくうなずいた。
「ところで呉服の間の業務の傍ら、余った端切れで熱気球を作ってある。そろそろ、こんなところ退散と行こうか」
右京がめずらしく建設的な意見を述べる。
「舞鷹、力持ちのお前に、殿の脱出を任せたぞ」
「はい、左内様。殿一人くらい軽々で運べます」
「こ~わ~れ~る~ううううう」
殿の情けない声が、下段の間に響く。
左内達はまた顔を真っ赤にして笑いをこらえた。
これで、やっと大奥暮らしともおさらばである。
数か月ぶりに、左内に心からの笑顔が戻ってきた。
後日譚である。
大奥を守る気持ちの強かった年寄の高岳は、後年松平定信の就任に反対意見を述べ大奥を去る。
才気あふれる祐筆、お袖は順調に出世を重ね、ついにはお年寄に上り詰める。「天下を動かせし才人」として大奥で活躍していた彼女だが、松平定信によって失脚させられる。
こうしてみると、田沼意次の時代は彼女たちにとって、もっとも輝けた時代だったのかもしれない。
最後に。
右京の思い人お富は、一橋治済の側室となり大奥を去る。
家治亡き後、お富の生んだ豊千代は第11代将軍家斉に就任する。
なんと彼女は将軍生母となるのである。