馬鹿殿
「父から以前、宇治の間から通じる地下壕で蜂の妖怪が生まれたと、極秘につなぎが参りました……。巻き込まれぬように気を付けろと」
「蜂のことを知っていたのか」
「先日、面会に来た父に付き添われてこの地下壕に来たことがございます。もし、この化け物蜂が逃げて大奥に出ることがあれば、皆を連れて逃げるようにと」
お京とその同室のおさなが消えたことに気が付き、嫌な予感にさいなまれたお富は誰もいない宇治の間からここに潜入したらしい。
「大奥の皆様は何か操られでもしているような異様な雰囲気ですし、お京ちゃんをはじめ行方不明の方も多数。宇治の間では成田様のお札が破られていて、きっと地下で何か起こったのだと」
「ああ、あれは……」
苦虫をかみつぶしたような顔で左内は言葉を濁す。
あの神をも恐れぬ罰当たりなことをしたのは、他でもない彼の主君である。
まさか、一国一城の主が、小遣い稼ぎに賭場を開くなんて。殿のしでかす悪事にはたいてい慣れている左内であったが、敵はその想像を軽く飛び越えるご乱行をやらかしてくれる。
そういえば、右京はお富にかんざしを贈りたいがために殿の悪事に加担したのであった。奴にしては、可愛らしいというか、珍しく人間的な動機である。
それに引きかえ、我が殿、と言えば。
「さ、ささ、ポロリと、ポロリと……」
襖の外から聞いたあの能天気は言葉を思い出し、左内は大きくため息をついた。
「絶対に神罰が下るに違いない」
「ああ、その通りです、皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありません」お富が袖で目をぬぐう。
「いや、あなたのことではないのだ」
慌てて慰める左内。
「蜂は将来の国難を防ぐために作られたと、父が申しておりました」
「国難?」
「日本は小さくて、外国との行き来もない井の中の蛙。北の赤蝦夷、南蛮人たちは隙あらばこの国を我が物にしようと企んでいると聞きました。外国の兵器は我が国とは比べ物にならぬくらい強力、だから、蜂を――」
「その先見の明、田沼意次か」
そして、その配下の天才科学者、平賀源内がこの件に関わっていることは明白である。
「左様、よくわかったな」
言葉と共に地下の壁が左右にガラリと開く。
闇の中から一転、そこはまばゆい光に満ちた広間だった。
「我が国の武士たちが束になってかかっても、諸外国の武力には太刀打ちできぬ」
二人の目の前には、光を背にして黒い人影が浮かび上がっていた。
いきなりの照明に目をしばたたかせながら左内は叫ぶ。
「いくらきれいごとを並べても、私には通用しないぞ、田沼殿」
「久しぶりだな、美行藩江戸家老、片杉左内」
堂々とした体躯に、射抜くような鋭い眼光。背中からその権勢が揺らめいて立ち上っているように見える。
田沼意次、今の日本を牛耳る、実質的な最高権力者である。
その周りには、一部の隙もなく黒装束の男たちが取り囲んでいた。
「お富の言う通り、わしはこの日ノ本を守るためにあの蜂を造ったのだ。なぜ疑う」
「本当にそうなら……」
左内の目は怒りに燃えた紅色に染まっている。
「なぜ、家治殿に許しを得ない。お前の心の底に、隙あらばこの国を我が物とするという野望があるからではないのか。蜂は対諸外国用にも使えるが、お前に敵対する勢力を闇に葬るためにも使えるからな」
第一、蜂を戦士として改造するなどという途方もない提案があれば、殿を妙に信頼する家治殿から何らかの話があるはずだ。我が殿は普段はどうしようもない馬鹿だが、いざという時にはこの上ない力と才知を発揮する。
「火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ、しかも、殿は生半可な馬鹿ではないっ」
左内が叫ぶ。
「我が主君の馬鹿力をなめるのではないぞ」
彼は抜き身のしずくを払うかのように降ると、刀を立てて顔の右横に構える。刃こぼれをした刀身がギラギラと乱反射して、彼の高い鼻梁を白く浮き上がらせた。
「周りを見るがいい、いくら無敵のお前だとて、この多勢にお富と二人で何ができる」
その言葉と共に、二人を取り巻く黒装束の男たちは、一斉に刀を抜いた。
「ここで斬るには惜しい美女ぶりだったが、許せよ左内。恨むなら参勤交代でお国元に帰っているお前の馬鹿殿を恨むんだな」
宿敵、黒装束の首領が左内の前に進み出た。
左内の頬が紅潮し、噛み合わせた奥歯がぎりりと音を立てた。
「はっくしゅんっ、はっくしゅんっ」
七体の蜂娘を足元に転がした殿は、くしゃみが止まらない。
「どうしたのじゃ、さすがに色狂いの疲れが出たか?」
いぶかしげに尋ねる高岳。
「まさか。大方どこかのきれいな娘がわしの噂でもしているんだろう、ぶあっくしゅんっ」
お気楽につぶやくと、殿は長い鼻の下をこすった。
少し間は空くかもしれませんが、ぼちぼちと書き続けていきます。