独壇場
お久しぶりです。ご無沙汰しておりました。なんと4か月もほったらかして、虫や歴史(古代)にうつつを抜かしておりました。秋風にふと正気に戻り、連載再開した次第です。不義理をしたにも関わらず、ブックマークが増えていて、本当に感謝感激、平身低頭です……。
今までのあらすじ
今年は殿の参勤交代の年。日ごろの心労から解放され、羽が伸ばせるとばかり機嫌のよい左内であったが、早熟な17歳一橋治済公が美行藩を訪れたことから話は一転。大奥の陰謀から思い人を守ってくれという治済の依頼と己の欲望が一致した殿は、女性丸を飲んでまんまと大奥に潜入する。大奥では出汁の味を一変させるいくはという女中が大奥の女性たちを掌握しており、失踪者が相次いでいた。大奥を探るうちに、敵の手に落ちてしまう左内。大奥の地下には明暦の大火の際に作られた秘密の地下空間が広がっており、田沼一派によって毒針を持った巨大蜂の養殖がおこなわれていた。かろうじて敵の手から逃走した左内だが、彼の前に現れたのは、右京の思い人お富。そして、殿と博打好きの右筆お袖、高岳の三人は、宇治の間で中年寄の月山や失踪した女中が姿を変えた蜂の化け物に囲まれるのであった。
カチカチカチカチ。
尖った顎を鳴らしながら、三人を包囲したお女中たち。
「こ、こりゃまずいな」
彼女たちの額からは2本の触角が垂れ、胸のくびれの下は禍々しい黄色と黒の縞模様の紡錘形の腹がつながっている。胸から出た不自然に細い足をよろめかせながら妖蜂たちは一歩一歩と距離を縮めてきた。
「月山、正気を取り戻すのです、月山、なぜこのような姿に……」
お年寄の高岳は生真面目な中年寄であった月山に呼びかける。他の妖蜂たちは、失踪した反田沼派の奥女中たちであった。
「月山、思い出すのです。私です、月山っ」
高岳が叫ぶ。
しかし、月山の表情はぴくりとも変わらない。ずるりと着物を脱ぐと、糖液に濡れた羽を羽ばたかせながらふわりと浮き上がる、
「危ないっ」
殿が高岳をかばう。
蜂の顔が殿に向き、その下腹部がくの字に持ち上がる。
その先端には鋭くとがった針。
が、殿は顔色一つ変えずに、月山の顔をじっと見る。
「なんと、美しい」
顎で発していた警告音が、ふと止まる。
「己の美しさに気づいておらぬのか?」
殿は、相手の目から視線を外すことなく、敵意がないことを示すように胸の前でゆっくりと両手を開く。
武士にとっては無駄に美しい、白くて長い指。
その指が空を撫でるように、滑らかに動く。
妖蜂の警告音の止んだ、張り詰めた空間。
そのまま、そっと、白魚の手は針に近づいていく。
「月山とやら、寂しかったのであろう」
止まっていた針が、ぐいっと殿の方に突き出る。
核心を突いた言葉だったようだ。
「お前さんが失踪した後、お女中たちの噂話でお前さんのことが良く出てきたよ。途方もなく真面目で、人一倍働き者なんだが、どこか抜けていて今一つ皆に馬鹿にされている――」
針先がわなわなと震え始めた。
「こ、これ、何を言うか。つ、月山は優秀な中年寄だ」高岳が慌てて口を挟む。
しかし、殿は言葉を止めない。
「これだけの努力家。もっと器量が良ければ、もっと利口に立ち回れれば、とっくの昔にお前さんはお年寄や、将軍のお手付きになっていただろうに」
無表情だった月山の顔が、徐々に紅潮していく。
「しかし、わしはそんなお前がいとおしい」
言葉と共に、尖った針を人差し指でそっとなでる殿。
針がびくりと動く。
「お前の美しさはわしだけが知っている。ほら、なんと淫らな下半身だ……」
殿は目を細めて、ゆっくりともう一度針をなでる。そしてその手は針から、そして蜂の下半身に伸びていった。
月山は硬直している。
「おお、なんと滑らかな」
糖液の滴る下腹部を殿の指が愛撫する。
堅物、生真面目で知れ渡った月山。女の園で育った彼女にとって、おそらくこのような経験は初めてなのであろう、蜂と化した彼女の下半身がぴくぴくとけいれんし始めた。
殿の手が止まると、むくむくと針が殿の鼻先に近づいてくる。
しかし、それは先ほどまでの殺気を帯びたものではない。どちらかというと殿の愛撫を催促している動きだ。
「わしに溺れると後悔するぞ」
チラリと月山を流し見るその視線は、すでに余裕たっぷり。
じらすように、殿の指は針から離れたり、触れたり。
これぞ女心を串刺しにする必殺の技である。蜂は狂おし気に身悶えしている。
こうなればもう殿の独壇場。
女人の姿をしていても、さすが性技の味方。その切れは健在である。
ほどなく月山の羽ばたきが止まり、蜂の胴体が畳の上に崩れ落ちた。
「極楽に上り詰めた後じゃ、しばらくは失神しておろう」
「天下の色男の面目躍如、一か蜂かの大勝負という訳か」
お袖が、鼻を鳴らす。
「さすが大一番には強いな」
「違うぞ、お袖」
お袖を振り返って殿は首を振る。
「わしは女に対して嘘はつかん。口説き文句は、常に我が本心だ、ん……」
殿が顔を戻した途端、その前に別の蜂の針が誘うように揺れていた。
「あと6体。お手並み拝見といこうか」
少しあきれたような高岳の声が響いた。
「こちらです」
江戸城の地下。追われる左内の腕を引いたのは、お富だった。
ろうそくの火に下から照らされたその顔は、右京には悪いが、つぶれたガマガエルの化け物のようだ。
「お、お前、なぜここに」
右京がぽつりぽつりと漏らしていた、餌、いやお菓子を与えてくれる天女のような善女。
それが、なぜ悪党の巣窟、江戸城の地下迷路に。
「訳は後で、それよりも早く」
左内を追っている者たちの声が地下道の奥から聞こえてくる。
「あ、これをお使いください」
お富は懐から桃色の腰ひもを差し出した。
左内のボロボロの長襦袢はかろうじて体に引っかかっているだけである。男の体に戻っている今となっては別段気にも留めていなかったが、彼は前を合わせると、手早く着物を整えた。
「驚かないのか、私が男の姿でも」
「お京ちゃんから聞いています。さ、こちらです」
お富は手でともしびを隠しながら、慣れた足取りで地下の通路を先導していく。
いくつもの曲がりを経るたびに声は次第に遠のいていった。
積み上げられた石の空洞に逃げ込む二人。
「お前、なぜ、私を……」
「私の父は幕臣、岩本正利でございます。岩本家はもともと吉宗様が将軍におなりの際に江戸へ付き従った家柄。同じく紀州藩士の田沼様とは、そのころから昵懇にさせていただいて――」
田沼。と聞いたとたん、左内の体に力が入る。
殺気を感じたのか、身をすくめるお富。通常のお女中なら色気の一つも漂うところだが、お富の体躯ではまるで冬ごもりをしている熊にしか見えない。
「お許しください、こんなことになっているとは、存じ上げなかったのでございます」
恐る恐る目を開いたお富。
「何を言う。礼を言うのはこちらの方だ」
予想に反して、目の前の顔は優しく微笑んでいる。
「お富さんは私に武器となるひもを渡したり、無防備に背を向けて歩いていた。人間、たくらみがあればどうしても顔に出るものだ、しかし、あなたの表情は無垢で……」
綺麗だ。と言いそうになって左内は思わず言葉をのむ。
これでは口説き文句ではないか。
腐れ縁の足手まといだが、多少の縁がある右京の思い人である。誤解を生むような発言は慎まなくてはならない。
灯に照らされたふっくらとした頬の輪郭は、女中たちのうりざね顔とはまた違った妙な魅力を醸し出している。不細工なのだが、愛嬌のある可愛らしい顔だ。
「右京、実は目が高いのかもしれん」
まさかあの菓子妖怪にこの方面で先を越されるとは。なんとなく釈然としない気分で左内は頬を膨らませた。