妖蜂(ようほう)
「おお、まぶしい。娼館に泊まり続けた後に見る朝日の様だ」
「御家臣の苦労が忍ばれます」
冷たいお袖の返事にもどこ吹く風。
殿は掛け軸をくぐった後、思いっきり背伸びをした。
二人は宇治の間に戻っている。
「大奥の見張りがいるかと思ったが、誰もい――」
部屋の片隅の影がゆらりと動くのに気が付いて殿が言葉を止める。お袖も身を固くしてその影を見つめた。
だが。
「無事であったか、お袖」
影はすっと立ち上がるとたちまち背筋を伸ばした長身の女性に変化した。
薄絹で作られた豪華な打掛をまとったその姿は、シルエットだけで特異なオーラを放っている。
「高丘様」
お袖が声をあげてかしこまる。その狼狽ぶりに、殿もあわててお袖にならう。
殿をちらりと一瞥すると、高丘はお袖のほうに視線を向けた。
「無事で何よりだ、お袖。心配したぞ」
「もったいないお言葉」
お袖は深々と頭を下げる。
「おそらくここから帰ってくると思って、人払いをしておいたのじゃ」
「高岳様は、この地下道を御存じだったのですか」
高岳は重々しくうなずいた。
「この地下の道は、大奥の幹部に昔から伝わっておる危急の際に上様に逃げていただくために掘られたものじゃ。そなたが消えたとの報告を受け、おそらくここから逃げたのだろうと思ってはいたが、そなたこそ良く存じておったな」
「い、いえ……」
まさか、賭場として使っていた時におよしが気が付いた、などと言えるはずはない。お袖はあいまいな笑みでごまかすと慌てて大切な報告に移る。
「高岳様、この地下の奥に賊がはびこっております」
「なんじゃと」
お袖は、地下で月山をはじめ7人の砂糖漬けの遺体を見たこと、そして賊に襲撃されたことを話した。
「上様の住まいとなるこの大奥の地下で、そのような陰謀があるとは」
高岳はあまりの事態に身体を小刻みに震わせる。
「やはり、地下道増設の時の石工たちの恨みが残っていたのか」
「石工――」
何かを思いついたか、お袖が息を飲む。
「石工がどうかしたのか?」
「ああ、地下でこの石組みを見たとき、心の中で何か引っかかるものがあると思っていたが、これであったか……」
「どうしたお袖。申してみよ」
「実は私、いくはの大奥採用の際に素性を調べた書類を検分したことがございます。いくはは、ご推薦こそ田沼様の一派である井伊直幸殿でありますが、もともとは若狭の石工、岩元奏石の娘。父親の突然の死に伴い家は没落、一家は別離を余儀なくされ、いくはは軽業師のもとに引き取られたとの事でございました」
「あの不思議な手を持つ女中は、石工の娘か」
高岳は視線を空に向ける。
「地下道を作ったのは秘中の秘。かかわった石工たちは皆口を封じられたと聞く。この難工事を行ったその腕の立つ棟梁の名は、確か岩元奏山――」
「岩元……もしかすると、いくははその棟梁の孫」
お袖は彼女の不思議な所業を思い浮かべて眉をひそめる。
「この地下道の秘密を探るものは今も命を奪われている、と聞く。もしや、彼女の父の死がこの地下道に関係するものであれば……」
高岳の言葉に、お袖はいくはの不思議なだし汁に思いを巡らせる。
だし汁を使って人々の心を虜にするいくは。そのだし汁で操られた者は、彼女の思いのままとなりいまや彼女が大奥を操りつつある。その威光を我が物にしようとばかりに大奥の年寄りたちがすり寄って、いくはを将軍に推挙したのはつい先日のことだ。
「いくは、という名前は井伊様から、大奥に入っても名前を変えぬように言い渡されたため、そのままの名前を使っているが、すなわち『的』という意味じゃ」
「祖父を殺された彼女の的、とはすなわち――」
高岳ははっ、と顔を上げた。
「こうしてはいられぬ。確か彼女は今日の夜、上様と寝所を共にすることになっていたはず」
血相を変えた二人。
しかし、その緊張をあざ笑うかのように、太平楽な鼾が聞こえて来た。
「そういえば、この者は誰じゃ」
お袖の横でひれ伏したまま寝ている殿をちらりと見て高岳は顔をしかめる。
「は、この者は――」
一瞬の葛藤の後、お袖は口を開いた。
「騒動に巻き込まれた道楽者の女中、およし、にございます」
「この状況で寝ると言うのは、うつけ者というか豪胆というか」
「おそらく、その両方でございましょう」
女好きの放蕩大名で有名な天晴公が女体化して潜入しているなどとばらそうものなら、美行藩お取り潰しの憂き目にあうのは必定。
――博打仲間を売るわけにはいかない。
妙に鉄火なお袖は、この馬鹿殿を守り通す決心をしたのであった。
と、その時。
ひんやりとした風がお袖の首筋を撫でた。
「ん?」
顔を上げると、高岳がわなわなと口を震わせ、目を剥いて硬直している。
かすかに甘い香り――。
ぞくり、嫌な予感がお袖の背中を走る。
そっと振り向いた彼女の目に映ったものは。
ぼたり、ぼたり、と水飴を垂らしながら、手を前に突き出した人影がまさにあの掛け軸の下から這い出てこようという姿だった。
水あめでぐっしょりと濡れた髪はざんばら。着崩れた着物から覗く下半身はなんと蜂の姿である。
細い蜂の足でよたよたと揺れながら、その異形の者は何体も何体も穴から這い出して三人に近づいて来る。
「お、お前は月山――」
ううう、と唸りながらその先頭の影は高岳に向かう。
飴で水気が吸い取られてしまったのか、顔には尋常ではない皺が寄り不気味に変形しているが確かにそれは失踪した中年寄りのものであった。
「どうした、月山。いやお前はすでに月山の姿をした妖か」
甘い香りとその不気味な姿の乖離が不気味さを否応なく増幅している。
「高岳様には指一本触れさせませんっ、ちょいとお待ちっ」
高岳の前に両手を広げて立ちふさがったお袖は、逃げようとした殿の襟首を引っつかまえる。
「武芸のたしなみ位あるんでしょう、何とかしてください」
目をこすりながら7体の人間蜂の方を眺めながら殿は呟いた。
「腰のくびれはわし好みだが、ちょっと蜂はなあ、無理……」
「好みを聞いているのではありませんっ」
震え声のお袖の突っ込みがむなしく障子を響かせる。
「誰かおらぬか、出会え、出会え」
高丘の声に返事をするものもいない。
「ええい、何があっても近づくなと人払いしたのが、こんなことになるなど……」
7体の蜂は壁を背にした3人を取り囲んだ。