よりどころ
はあ、はあ。
もうどれだけ時間が経っただろう、お袖と殿は、迷路のような通路をひたすら歩き続けている。
「分かれ道だ、お袖」
「次は右っ」
お袖の勝負勘だけを頼りに、二人は方向を決定していく。
さすが、博打で鍛えただけある。敵にも見つからず、道は徐々に上方に傾斜し地上へ近づいているようだ。
「ところでお前、一体何者なのだ」
人気のない薄暗い小道に差し掛かった時に、突然お袖がつぶやいた。
「殿、とか呼ばれていたが」
「ほほ、私は単なる下女奉公のおよしでございますよ」
つんと伸ばした指先を口に当てて、わざとらしく殿は作り笑いをする。
「冗談もそこまでだ。お前は人を使うことに慣れている、指図する言葉に躊躇がない」
お袖は立ち止り、ぐいっ、と下から長身の殿の方をねめつける。
「躊躇がないというより、尊大。普通そのような不躾な言い方を他の者にする場合、良心の呵責がチラリと見え隠れするものだが、お前には全くそれが無い。生まれながらの支配層の話し方だ」
鋭いお袖の分析に、殿は言葉を飲む。
「むせ返るような女の色気を纏っているくせに、感性はまるっきりの男。男性に変化した不思議なからくり造りのお京とも、衆知の仲」
薄い灯りの下、お袖の目がまっすぐに殿を射る。
一瞬の沈黙のあと、彼女は低い声で呟いた。
「出島帰りのクレージー右京の噂、この私が知らないとでもお思いか? 天晴公」
「さすが、情報通の右筆だけあるな」
うす闇の中、殿の口元がにやりと歪んだ。
「放蕩で有名なあの天晴公であれば、まあ大奥に忍び込むのも、賭場を開くのもうなずける――」
「えらい言われようだな。だが、賢い女は嫌いではないぞ」
絡みつく様な殿の視線をふんと鼻先で一蹴し、お袖は踵を返すと歩き始めた。
「まあ、お前が誰だっていいさ。どうやら味方に違いないという確信が持てただけで充分だ」
「なぜ、味方だとわかるのだ」
「将軍様が唯一心を許して接している者だからだ。よりによって天晴公とは物好きな、ともっぱらの噂だが家治様はとても賢いお方だ。御慧眼はお前の薄汚れただらしない日常を透かして、本性を見抜いているのだろう」
「悪かったな、薄汚れてだらしなくて」
殿はお袖の背中に向かって歯を剥き出す。
「こんなにやりたい放題で臣下を困らせる癖に、なぜか皆がついてくる。まるで泥沼の中から湧き出る湧水のようなその人望、羨ましいものだ」
褒めているのか、けなしているのかわからないお袖の物言い。何か言おうとして顔を上げた殿は、闇の中に光源とは違う光の点を見つけた。同時にお袖もその光を見つけたらしい。思わず安堵の溜息が漏れる。
「地上に出たらまず、老女の高岳様に目通りせねば――」
お袖の足が速くなる。
高岳様は自分がいきなり失踪したことを懸念しておられるに違いない。
だがそれはもちろんお袖の身を案じてのことではない、ということは彼女も良くわかっている。高丘が大切に守っているこの大奥と言う空間に、何か大きな陰謀が蠢いているのではないかと心配しているのだ。
いつか、ふと漏らされた高岳の言葉をお袖は思い出す。
「この地位に着くまでに幾多の女子を貶め、政敵を罠にはめ、容赦ない権力争いをしてきました。若いころは、少しでも高い地位に登って並びない権力を手に入れたかったのです。それは虚栄のためであったり、物欲であったり――」
憑き物が落ちたような表情でお袖に笑いかける高岳の目の脇に、くっきりと皺が浮き出ていた。
「心をすり減らす争いの果てに掴んだ老女の座。しかしふと我に帰った時、私の心の中を満たしていたのは、財でも、かしずかれる喜びでもない。自らが生を燃やしてきたこの大奥という場所へのやるせない愛情でした」
不思議なものよ。と高岳は繰り返していた。
あの方の視点は、すでに些末な個々の事象を飛び越えて、もっと高いところにある。ただ一点、大奥を守るという志の元に、高岳様は生きておられる。
自分もそうなるのだろうか、なれるのだろうか。
お袖は自問する。
博打に溺れて、追われるように転がり込んだ大奥。
これまでは家庭を切り盛りする妻として生きて来たが、博打を打つことでしか生きているという実感を得ることができなかった。だが、ここに来て初めて自分の才能を生かす術を知った。妻として女としてではなく、人としての能力を買われることは、自分が今まで経験したことのない快感だった。
ここが私の居場所。
守らねばならない場所。
高岳には及ばないが、お袖もまたこの大奥を心のよりどころにしていた。
彼女は唇を引き締めて、ますます明るくなる光の中に向かって歩みを進めて行った。
一方こちらは左内。
何処をどう走ったか、すでに覚えていない。ただ闇の中をぐるぐると回っただけのような気がする。時間の感覚は無いが、疲弊しているという実感は着実に増大していた。
このままではまた――。
一刻も早く、あの凶暴な蜂の存在を皆に知らせなければならない。あの繭から帰った蜂たちが、江戸にばらまかれたら大変なことになる。
黒幕は田沼意次か。
家治様が思い通りにならないことに業を煮やしていたのは知っている。
もしや、この蜂軍団を使い幕府転覆を……、それともまた別な思いがあるのだろうか。
その時、かすかな空気の揺れを感じて、左内の思考が止まった。
戦闘、となるや身体の重さが瞬時に四散する。左内の身体はひらりと翻ると揺れの源に飛びついた。
だが。
彼の腕が掴んだのは、まるで綿を入れたての布団。
予期していなかった感触に、戦闘を想定していた筋肉が一気に緩む。
隙だらけの布団の塊が、震えながらか細い声を上げる。
「お、お許しくださいませ」
左内は慌てて身体を掴んだ腕を放した。
これは。
この体型の女人は一人しか知らない。
「お探ししておりました。おさな様――ですか?」
「なぜ、あなたがここに」
左内は絶句する。
なぜ大奥の地下に巡らされた地下迷路に右京の思い人が居るのだ。
「お富さんですね?」
「ええ、お京ちゃんのお友達が罠に嵌められたと聞いて、居てもたってもいられなくなって、さ、こっちに」
有無を言わさず、左内の袖をひっぱり通路の横の隠し扉に引っ張り込むお富。
感触は柔らかい布団だったが、まるで万力のような力で左内はずるずると引きずられて行った。