甲賀の化け狸
黒装束に身を包み、灯火を掲げた十人ばかりの男たちが眼前に迫った。露草堂の鼻先に抜き放った刀が付きつけられる。
「何奴だっ」
「あなた方、大奥の地下にこのような穴をくりぬいて、何やら物騒な出で立ちをなさった方々が徘徊される、これは一体」
ぴくりとも表情を変えない露草堂。しかし、切っ先の揺れに対応して、微妙に体位を変化させているのが袖の揺れでわかる。
張り詰めた空気の中、先頭の男が口を開いた。
「お前、ただ者では無いな」
黒装束の男も簡単に切り込めない、張り詰めた空気が漂っていた。
「めっそうもない。地下に迷い込んだ、ただのか弱い女中でございますよ」
「黙れ、誰であろうと部外者は切ってよいとのお達しだ。ここに迷いこんだが身の不運。念仏でも唱えておけ」
「ここは私が」
露草堂の言葉とともに、大きな狸のような体が一瞬に消える。同時に男達が次々とうめき声をあげて倒れていった。
黒装束の男たちの中央に、まるで嵐が吹き抜けて行ったかのように、ぽっかりと道ができた。
「突破しますぞ」
その機を逃さず、姿を現した露草堂は殿の襟首を掴み前方に向かって駆け抜ける。
慌てて右京とお袖も団子のようになって続く。
「さすが、甲賀の化け狸」引っ張られながら、殿がぼそりとつぶやいた。
中央突破するやいなや露草堂は殿を突き飛ばすと、くるりと身体を翻した。
最後尾腰砕けになった右京に向かい、今しも刀が振り下ろされようとしている。
賊と右京の間にまるで葛きりのようにするりと割って入った露草堂は、相手の手首を正確に捉えて、そのまま引っ張る。
斬りかかってきた勢いのまま相手の体制が崩れた。
そのまま素早く相手の懐に潜り込むと、大狸は餡子のかき混ぜで鍛えた太い腕を鳩尾にめり込ませる。
男の身体が地面に転がったその瞬間。
立ち上がった露草堂をいくつもの星形手裏剣が襲った。
頭から太いかんざしを引き抜くと、顔の前の手裏剣を薙ぎ払う露草堂。
しかし。
星形の手裏剣は囮であった。手が顔の方に向かったその隙を逃さず、小刀型の手裏剣がどすっ、と何本も露草堂の胸に突き刺さった。
「うぐっ」
老忍者はうめき声をあげて膝を付く。
「露草堂っ」
ごろりと倒れる露草堂に、右京が金切声で叫ぶ。
「死ぬなっ。お、お前の菓子がないと、私は生きていけないっ」
駆け出そうとする右京を背後から殿が抱きとめる。
「邪魔だ、後ろに下がれ」
「離してくださいっ、私の饅頭が、錦玉寒が、羊羹が、冷やし飴が~~」
「落ち着け、右京」
半狂乱の右京の耳に、殿が囁く。
「あの突き出た胸の張りは若い女子のものだ」
「は?」
いきなりの話題に右京の目が点になる。
「胸の大きい年増女はいるが、突き出る場所がもっと腹に近いのだ。あんなに高い位置ではない」
「それが一体……」
怪訝な顔で殿の方を振り向く右京。
「奴め、だいぶ胸を水増ししている。おおかた綿でもぎゅうぎゅうに詰めているのだろう、あれしきの小刀、貫通するわけない」
わしのは本物だがな。殿は富士山のような胸を両手でむんずと掴むとこれ見よがしにぶんぶんと揺らして見せた。さすが、変態丸を無茶食いしただけある。
お袖がそっと横で頭を抱えた。
うずくまって小刻みに震えている露草堂に止めを刺すために、黒装束の男たちが近寄ってきたその瞬間。
どんっ。
音とともに煙が坑内に充満した。視界が霞み、ひるんだ男たちを露草堂の鋭い突きが襲う。
「ふはははは、忍法片栗粉の術じゃ」
ごほごほと咳き込む忍者たち。しかし、露草堂の動きは全く変わらなかった。さすが菓子屋、粉の中の戦闘はお手の物なのだろう。胸に小刀を数本突き立てたまま、平然と動き回っている。
「ほら、な。心配する必要なかっただろう」
女性に関しては百戦錬磨は、鼻をぴくぴくと動かして見せた。
だが、露草堂も若くは無い。
倒れても起き上がって来る男達をいなしながら、徐々に肩で大きく息をし始めた。
わずかな隙に振り向いた露草堂は叫ぶ。
「早く。殿はお袖さんを連れてお逃げください」
「馬鹿な、古狸一匹残していけるかっ」
「ご安心ください、あなたよりずっと頼りになる右京殿が居てくださいます」
「へ?」
すでに、逃げようと踵を返していた右京が立ち止まる。
「おお、そうか。そうであったな。じゃあ右京、後はよろしくっ」
殿はちゃっかりお袖の手を取って追手とは反対側の通路に駆け出す。
「命あっての発明。私も逃げるぞっ」
慌てて後を追おうとする右京の袖を露草堂はむんず、と捕まえる。
「私を置いて逃げるのですか」
「ええい、老い先短いんだから、ここで華々しく散ってくれ」
「さっきと言うことが違うじゃないですか」
「当たり前だ、死んだら菓子が食えないじゃないか」
右京は、狸のような老女に掴まれた手を、血相を変えて振りほどこうとする。
「……ちねん分」
地を這うような露草堂の声。
「へ?」
「菓子一年分、と申したのですよ」
戦いながら吐き捨てるように古狸が叫ぶ。
右京の身体が一瞬制止する。
「ま、マジか」
「私の瞳をご覧ください」
チラリと振り返った、露草堂。皺に押しつぶされそうな狸目がらん、と光を放っている。
「わ、私の一年分は普通の人間とは違うぞ」
「それくらい委細承知」
「た、た、ただなら、一番高級な羊羹を毎日棒のまま噛り付くが、いいのか」
右京の額にびっしりと汗が浮かび、声が上ずる。
欲望と自己愛が彼の心の中で壮絶な戦いを繰り広げている模様だ。
「もとより破産覚悟でございます」
その一言で頭の中の皮算用に決着がついたようだ。
右京の瞳がいきなり金色に輝き始めた。じゅるっという涎を飲み込む音は、追いついて来た男たちの足音にかき消される。
「露草堂、時間を稼いでくれ」
右京は何やら露草堂に囁くと、後ろでごそごそと動き始めた。
「この妖怪め」
先頭の男が胸に小刀を突き立てたまま平然とたたずんでいる露草堂に叫ぶ。
「ふははは、私は大奥の亡霊なのだ」
淡い灯火の中、ぼんやりと浮き上がった露草堂の顔はその皺の陰影もあって、まさに物の怪。不気味この上ない。
時間を稼ぐため、露草堂はゆっくりと言葉を発した。
「若い女中のいじめを受けて、大奥の井戸に飛び込んでから、幾星霜――」
ずっ、と前にせり出した露草堂。その妖気と威圧感に黒装束の男たちはひるんで思わず後ろに下がる。頭と思われる男が自らを奮い立たせるためか、大声で叫ぶ。
「ええい、この地下通路を知られたからには亡霊と言えども生かしてはおれん」
「馬鹿者。亡霊はすでに死んでいる」
その言葉とともに露草堂の身体はいきなり赤く染まり、はらわたがむき出しになった。
「げええええっ」
浮足立った男達の眼の前で、ふっ、と露草堂と右京の姿が消える。
「な、なんだっ」
次の瞬間。男たちの掲げた灯りも消え、闇の中で男たちが跳ね飛ばされた。
「妖怪だっ」
何処から来るかわからない攻撃に男たちの隊列はバラバラになり、やっと一人が灯火を付けた時には、すでに侵入者の気配は残っていなかった。