その10
籠から逃れたおけいは、しばらく息を潜めて台所の隅に隠れていた。
「なんだって、逃がしちまったのか。まだそんなに遠くには行ってないだろう、誰かにとられる前にさっさと探してこい」
五助が板前たちにひどく罵られる声が響いてくる。開店前の仕込みの忙しい時らしく、どうやらおけいの探索は五助だけに押しつけられたようである。五助は慌てて、外に飛び出していった。
ちょっと可哀そうなことをしたような気もするが、この少し間の抜けた男だけしか自分を探していないことは、おけいを妙に大胆にさせた。
彼女は周囲を見回しながら、そっと土間から座敷の方に向かう。
鶏とは言え、おけいはもともと平飼いの野性児である。土間から上がり小口の1尺(約30cm)に満たないくらいの段差は羽を使ってなんなく飛び越えることができた。
廊下の両側にある白い障子はありがたいことに、おけいの姿を見えにくくしてくれている。
「ここには居ないわね」
柱の陰から一つ一つの部屋を覗き込みながらおけいは、あの女をさがして進んで行った。今は掃除の時間らしく、仲居たちは姉さん被りに割烹着という格好で駆けずりまわっている。
できるだけ物陰に隠れながら、時には調度品のふりをしたりして、おけいは探索を続けた。一度仲居とすれ違った時は、さすがに身を固くしたが、彼女たちも急いでいると見え、視線がまっすぐ前に向けられていたため、幸いにも見つからずにすんだ。
一階の部屋に居ないのを確かめ、おけいは素早く階段を上がり二階に向かう。
二階の一室を覗き込んだとき、おけいはやっと件の女をみつけた。
表通りに面した部屋の障子を開けておていは茶殻を捲いた畳に箒をかけていた。まとめた埃と茶殻を塵取りに入れていたおていだが、急に立ちどまる。
彼女の視線の先には、天井に映った丸いきらきらとした光が踊っていた。
手に持った塵取りを放り出すと、窓の手すりから身を乗り出すようにして階下に目をやるおてい。それから、彼女は手早くごみをまとめるとあわてて部屋を出た。
「あら、おていちゃん何処に行くの?」
先輩らしい仲居が声をかける。
「掃除終わったので、ちょっと御遣いに」
ちょっと不機嫌そうに頬を膨らませる先輩の仲居だが、口の中でなにやらむにゃむにゃいうだけで、そのままおていを見送った。
「なに、どうしたのさ」他の仲居がやってくる。
「おていがまた、御遣いだよ」
たびたび、仕事中に居なくなることがあるのだろう。立ち去るおていの後姿を見ながら、先輩の仲居が肩をすくめた。
「しかたないねえ。なんであんな娘を旦那様はお気に入りかねえ」
二人は首を振りながら、おていの悪口を言いながら立ち去って行った。
おていは、小走りで店の角を曲がると、人目を気にするように周囲を見回して裏通りに入って行った。
「おお、ここだ」
おていの姿を見ると、髷先を細長く伸ばした粋な銀杏髷を結ったがっちりとした体躯の男が手を上げた。太い眉とぎょろりとした目、分厚い唇、とお世辞にも美男子とは言えないが、何とも言えない味のある顔である。銀鼠色の地に胡桃色の千鳥格子、さらりと斜めに深緑色の嶋模様が走る手綱染めの羽織を羽織っている。
はっきりした格子と縞の難しい取り合わせだが、この恰幅の良い男はなんなくそれを着こなしていた。
男は合図に使った小さい手鏡を懐にしまう。
「首尾はどうだったのさ」
「おお、万事うまく行った。池津様もお喜びだ」
おていはしなを作って男の半身によりそった。まんざらではないらしい、男の顔に笑みが浮かぶ。
「でも、いったいどこに隠されているのかねえ。あたしゃ生半可なところに隠してはまた取り返されるんじゃないかと心配だよ。なにしろ美行藩には妙な奇術をつかう者がいるらしいからね」
「大丈夫だ。今、例の物は上屋敷の土蔵の中にしっかりとしまわれている」
「土蔵の中、なんだね」
「ああ、殿自らしまわれたのをこの目で確認したからな、間違いない」
「そうかい、良かったよ」
おていが白い掌を男の目の前に差し出す。
男は懐から金包みを出すと、ポンとおていの掌に乗せた。金を懐に受け取るとおていはさっさと男の傍らから離れる。
「それにしても、お前は何から何まで段取りのいい女だな。これからも俺と組まないか?」
絡みつく様な男の視線を避けて、彼女は肩をすくめた。
「ま、事と次第によるね」
「ふん、はっきり金次第といったらどうなんだ」
「野暮は言いっこなしだよ」
ふと、おていは男が自分の背後をじっと見つめているのに気がついた。
「なんだい?」
「おい、おまえ、あれは連れか?」
おていが振り返ると、尻を振りながら白い鶏がばたばたと逃げていくところだった。
「お前の足元でうろうろしていたようだが」
「あれはうちの店の今日の食材だよ、捕まえとくれ」
二人は鶏を追う。
鶏、すなわちおけいは全速力で逃げる。
しかし、悲しいかな鶏の足。ほどなく男に追いつかれ、身体を抱き上げられてしまった。暴れるおけい、しかしがっちりとした男の腕に掴まれてはどうあがいても逃れることはできない。
「おお、白くて締まっていてなかなか美味しそうな鶏じゃないか」
男は品定めするようにおけいを目の前に持ってきて、舌なめずりしながらじろじろと見つめる。
おけい絶体絶命。
しかし。
おけいの必殺技、嘴攻撃が男の顔に炸裂した。
「ぎゃあああっ」
ほんのわずか掠っただけなのに、男は大げさに反応し、おけいを放り出した。
羽を広げ、着地するとおけいは全速力で走りだす
「おまちっ」
立ちはだかったのはおていだった。
「なんだか妙な鶏だね、静かにおし」
嘴の届かない部分をしっかりと掴まれて、おけいは身体をくねらせたが、相手は動じる風も無く店に向かって戻っていく。
今度こそ、万事休す。
ああ、わが身は鶏飯となって御櫃の露と消えるのか……。
おけいは天をあおいだ。
と、その時、低い風切音が路地を走った。
「おまちっ、おけい姉さんをお放しっ」
鋭い爪がおていの腕をひっかき、鶏は手が緩んだすきに地面へと逃れる。
おていの目の前には3連のオオタカが、宙を舞っていた。
「どうやら間に合ったようね」
美鷹が屋根に留まる。
おていは自分に向かって来るオオタカたちを、牽制するかのように睨みつけた。
片手にはいつのまにか、赤い玉のついた棒かんざしが握られていた。かんざしは普通のものより長く、その先は研ぎ澄まされている。
「あのかんざしに、あの目配り。素人じゃないわね」
貴鷹がつぶやく。
「おてい、なんなんだあの鷹どもは」
「さあね、でもあの鶏になにか裏があったようだよ」
おていは悔しそうに、鶏の消えて行った裏路地を睨む。
「それじゃ、あたしゃ行くよ。あんたもさっさとこの件から手を引きな。それがあんたの身のためだよ」
最後に脅迫めいた一言を付け加えると、鶏を追うのはあきらめたのか、彼女は後ずさりながら徐々に人通りの多い表通りに向かう。
「はあああああっ、お姉さま方、ご覧になって」
舞鷹が悔しそうに叫ぶ。
おていは、オオタカたちを牽制するように睨みながら、人波とは反対の方向に歩いていく。道行く男にすり寄るようなそぶりを見せながら、もし近寄れば手近な男を刺すぞといったように、これ見よがしに時折かんざしをちらつかせる。盾にするように選んだ男たちは、皆標準以上の容姿を持っているものばかりだった。
「あの女、私たちの事を知っている……」
美鷹は女の消えた雑踏をじっと見つめていた。