その1
「お、お前、あれを全部食っちまったのかーーっ」
甲高い少年の叫びが塀の外にまで響き渡る。
道を行く人々は何が起こったかと思わず足を止め、揉める声のする方に目を向ける。しかし彼らはその武家屋敷がどこの江戸藩邸かわかるや否や、またか、というように首を振って足早に通り過ぎて行くのであった。
ここは神田明神のほど近く、神田川を跨ぐ筋違橋から道ひとつ隔てて鎮座する美行藩の上屋敷。ただしその外見は、塀の上の漆喰部分はところどころ剥げ落ち、貧相な両開きの門はつぎはぎに修復した跡がくっきりと残っているなどと、二万石というにはあまりにもみすぼらしい残念な佇まいである。
この屋敷の土蔵の前で、若衆髷を振り乱した小柄な少年が、同じような背格好の少年の胸倉をぐいぐいと締め付けながらわめいていた。
「うわっ、よ、止せよ、忠助っ」
怒鳴られている側の少年はあどけなさの残るクリクリした目を白黒させながら手足をバタつかせる。かなり苦しげだが、忠助と呼ばれた少年の手の怒りは収まる気配を見せない。いやそれどころか、それほど筋肉がついていないなまっちろい華奢な腕を震わせながら、徐々に相手を宙に持ち上げていく。足が地面を離れた少年は全体重が首にかかり、顔を赤くして悶絶した。
「捨・て・る・な、って書いてあったろう」
鼻を膨らませ、目を吊り上げながら、忠助が怒鳴る。
「でも、食うなとは書いてないっ」
怒鳴られている少年は絞り出すような声で苦し紛れの返事をすると、飛んでくる相手の唾に顔をしかめながら、口を尖らせた。
にらみ合う二人だが、実は彼らの顔は面白いぐらい瓜二つである。
「屁理屈を言うなっ、忠太郎」
首をますます締め上げられて限界なのか、忠太郎は低い鼻にシワを寄せていきなり半べそをかき始めた。
「く、苦しいっ、堪忍してくれよお、兄上」
眉毛を八の字にゆがめた情けない顔に一気に戦意喪失したのか、忠助の手が緩む。
「ああ、なんてことをしでかしてくれたのだ忠太郎。これは間違いなく切腹ものだ。いや、無論お前一人を逝かしはせぬ。双子の兄のこの私も同罪、二人でこの命を捧げて謝罪しよう」
声を詰まらせた忠助はいきなり相手を突き飛ばし地面にへたり込む。彼は白い右腕を幼さの残る顔にこすり付けてむせび泣き始めた。
「このようなくだらぬ事で我らが命を無駄に散らしたと聞けば、国の御父上、御母上がどのようにお嘆きになることか。あの果物の事を聞いたとき、無駄に好奇心旺盛なお前が悪戯しまいかと思って黙っていたのだが。ま、まさか、事もあろうに盗み食いするとは……」
「だって、あの臭いだぞ、気が付くなってほうが無理だよ。土蔵から何やら怪しげな腐臭がするから何かなーって思って入ってみたら鬼の棍棒が丸くなったような茶色くて丸い玉があって。どうせ捨てるんだろうと思って試しに切ってみたらすごくねっとりとしていて……」
きらきら輝く弟の目は、心ここに非るという感じだ。
「よくあんな臭いものを口にしようという気になったな」
「俺の頭の中から、食えという声がしたんだ」
忠太郎は悪びれる風も無く、むしろお宝を探し当てる己の嗅覚を自慢するかのように鼻をうごめかした。
「そう言えばお前、土蔵のカギをどうやって手に入れた?」
忠助が怪訝そうに濡れた顔を上げる。
「以前、錆びて壊れた時、大したものも入っていないし修理するお金が無いって事でそのままになっていたじゃないか」
「あああーーっ、そうだったっ」
兄の忠助はしまった、とばかりに額に手を当てて、天を仰ぐ。
領地からの少ない税収入と派手ずきな藩主の浪費で、美行藩の藩邸に金目のものが無いことは、すでに世間にも知れ渡っている。もしもこの美行藩の江戸藩邸に盗賊が入れば、もちろん瓦版屋は記事をかきたてるであろうが、それは骨折り損のくたびれ儲けをした盗賊に対する嘲笑の記事に他ならない。読み手も被害については誰も気にしないことが明らかであった。
しかし……、生真面目な忠助の心には後悔の嵐が吹き荒れる。貧乏藩の気楽さで物取りの心配は無いものと決めてかかっていたが、実は最大の脅威は身内にあったとは。
それも、事もあろうか身内中の身内、双子の弟……。
彼の前には、きれいに内部を舐めとられた棘の付いた茶色の殻と手のひらくらいの平べったい大きな白い種が散らばっている。そこにはハエがたかり、忠太郎の食べ残しのお相伴に預かっていた。
地面に伏して号泣する忠助を尻目に、忠太郎は足元の種を後生大切に懐にしまいこんだ。神妙な顔がいつしかほんのりと赤く染まり、両目がだらしなく垂れ下がる。
「それにしても、ああ、美味かったなあ」
天を仰いでにんまりと微笑む弟に気が付いた忠助。
「お前はこの事の重大さを理解しているのかっ」
殴り掛かる兄に思わず棘付の殻で防御する弟。兄の悲鳴が藩邸に響く。
「ええい兄に逆らうかっ」
忠助は涙目で血の滲む拳を振り上げる。
「うるさい、同時に生まれたくせして兄面するなっ」
「アンポンタン。お前なんか、双子と思いたくはないわっ」
忠助が飛び上がって相手の胸元に飛び蹴りを喰らわす。後ろにぶっ倒れた忠太郎は涙目ながらも跳ね起きると、猛然と兄に飛び掛かる。吹っ飛ばされながら仰向けに倒れる忠助の足をすかさず抱え込み、そのまま相手を裏返すと腰を落として背中をエビ反りにさせた。
一瞬にして形勢逆転。忠助は苦悶の表情を浮かべながら地面をひっかく。
「あんな腐ったものを食べるなど、お前の腐った根性が信じられん、おお、これこそまさに共食いだ、共食い、いてててて」
「探究心旺盛と言え――」
兄と弟が掴みあって、口汚くののしりあっているその時。
「こらこらお前達、朝っぱらから何を騒いでいる」
涼やかな声が彼らを静止した。
声の主は月代を青々と剃りあげた初々しさの残る切れ長の目の青年、きっちりと着こなされた皺ひとつない薄青の小袖と灰色の袴が持ち主の几帳面さを物語っている。しかし病み上がりなのか、細面のその顔は小袖と同じく透き通るように青白い。軽い頭痛のせいか俯き加減の額にそっと白い手が添えられている。
眉間に寄せた皺がその細い眉を相対的に吊り上げて見せていた。
泣きわめく二人、そして足元に散らばった茶色の殻に視線を落としたその青年は一瞬にして事態を悟ったらしい。
「食ったのか……」
薄い唇から小さく溜息が漏れる。
「ご、御家老様―っ」
青年の姿を見て、慌ててひれ伏す二人。
彼は片杉左内、この美行藩の江戸留守居家老である。
留守居役とはそもそも江戸藩邸にあって、参勤交代で上京してきた藩主の登城のおりの世話をしたり、情報収集をする重要な役目である。しかし、この美行藩での留守居役最大の仕事は、好色で派手好きな藩主の気まぐれによって起こるさまざまな事件の揉み消し工作なのである。前任者の急逝も、心労のためと噂されていた。
左内は若干18歳で家老に就任した切れ者と江戸では評判であった。端正な顔立ちと清楚で気品にあふれる外見がさらにその人気に拍車を掛けている。もちろん名を伏せられてはいるが、彼を無断で描いた錦絵が大当たりしたのは記憶に新しい。問題児の主君を抱える貧乏藩にあって、健気に奉仕するその姿がまた町娘たちの心をぎゅうーっと掴んだらしく、ひとたび町を歩けば彼の周りには町娘たちの熱い視線が集まった。ただ、残念ながらその視線に振り向く心の余裕など今の彼には全くなかったが。
大抜擢の「江戸留守居家老」、輝かしい職務に見えるが当の本人にとっては、まんまと押し付けられたという感が拭い切れない。
日々の藩主の御乱行のせいで、もともと虚弱な体質の左内は神経をすり減らして寝込むことが多かった。ここ数日、特にやっかいな火種のもみ消し工作に走り回り、ついでに金の工面も采配した彼は、どうやら案件に目処のついた昨夜熱を出して倒れてしまったのである。
解熱した翌日に、またこんなことが起こるとは……。左内は病み上がりでまだ少しぼんやりしている頭にじわじわと衝撃が染み込んでいるのを感じていた。
しかし、元来温厚な彼は怒鳴ったりはせず、切れ長の目をさらに細くして忠太郎に優しく尋ねた。
「うまかったか、泥餡は?」
若干鼻声なのは、その臭いをできるだけ吸い込まないようにという無意識の防御だろう。
「ええ、ええ、これまでに経験したことの無い、極楽に誘われるかのようなねっとりとした甘さが口に広がって、悦楽が頭に染み入って行くかのよう……、頭の中がとろけそうなその快感と言ったら……ぐえっ」
事態の深刻さなどはどこ吹く風、とどまるところなく弟の口から繰り出される賛辞に耐え切れず、忠助は顔を赤くして弟の首を締め上げた。
左内は、もういい、とばかり首を振る。
「あまり臭いので、とうとう土蔵の中に追いやっていたのだが、まさかこれを食べる数奇者がいようとは思わなかったぞ。バタついていて、気を付けていなかった私が悪かった」
彼は遠い目を空の彼方にさまよわすと再び溜息をついた。
声を荒げて怒らない左内に、二人はただただ頭を下げるばかり。
「忠太郎、あれは『泥餡』といって海の彼方の『じゃがたら』でとれる果物だ。青いうちに収穫し、そこから紅毛人の船で2か月、長崎から飛脚と、最速の樽廻船に便乗させてもらって7日。やっとこさこの江戸に届けられたという訳だ」
そこで左内の視線が宙を泳ぐ。そして、彼はぽつりと付け加えた。
「ま、表向きはだが……」
元はと言えばあの疫病神が妙な噂を聞きつけた来たのがそもそもの始まりだった。紅毛達が江戸の宿泊に使う長崎屋で、奴がこの面妖な果物の話を聞きつけて妙に興味を持ってしまったのが運のつき。それをまた怪しげできな臭いことが大好きな殿が察知してしまったのが、更に不運の上乗せとなる。口の軽い殿が将軍家治様に話してしまって、事は急展開……。
「実はこのゲテモノ。急遽二日後に献上と相成ったのだ」
やや垂れ気味の彼の細い目が、再び足元に散らばった泥餡の残骸を見た。
「も、申し訳ございません――、私ども詰め腹を切り償わせていただきます」
真っ青になった忠助が弟の頭をグイと掴み、ともに地面に頭を擦り付ける。さすがに忠太郎も献上品と聞いて顔を引きつらせる。
「そう、早まるな。これはずさんな保管を容認していた自分の責任だ。面妖な果物ごときのためにあたら若い命を粗末にする必要はない」
彼は目を閉じて、頭をかしげながら腕組みをした。
藩の存亡に関わる他の案件に気を取られて、左内はこの厄介な果物の事をすっかり忘れていた。忘れていた、というよりも、思い出したくなかったというのが真相に近い。
第一こんな臭い献上品など江戸城に持ち込もうものなら、鷹を献上してやっとこさ手に入れたお目見えの地位もあぶくと消えるばかりか、お取り潰しの憂き目に遭うかも知れないのである。口を酸っぱくして殿を説得しても、楽天的な殿は「よいよい、なんとかなる」の一点張り。
だが、献上の約束を違えでもしたら、それはそれでどんな処罰が待っているかわからない。何しろこの美行藩は吹けば飛ぶような弱小藩である、なにか小さな粗相でもあれば、施政者の胸三寸でいかようにも料理されるのは目に見えている。
しばしの沈黙。
左内は頭の中でなんとか穏便な解決法を模索するが、どう考えても他に選択肢は残されていなかった。
彼は溜息をついて、何かを覚悟するかのように目を瞑る。
「仕方ない。お前たち、奴を……右京を呼んできてくれ」
彼の口から出たのは、彼自身が一番言いたくなかった名前だった。