17 準備完了
日本帝国がパンゲア世界へと転移して10年目、今日も北郷の屋敷では定例会議が開かれていた。
「…今日でこの世界へと転移して10年。パンゲア世界への進出準備は整ったのか?」
開始一発目に北郷が尋ねると、各担当者は報告を始める。
「はい、新型の空母や強襲揚陸艦、駆逐艦などの建造は勿論、訓練も全て終了して全艦就役しました」
新型艦艇とは、ジェラルド・R・フォード級空母やアメリカ級強襲揚陸艦、ズムウォルト級ミサイル駆逐艦などだ。
転移前から建造を始めていたので比較的直ぐに竣工し、じっくりと訓練時間に当てられたので十分な練度を誇る。
「また、特殊艦艇につきましても全艦就役が完了しました」
特殊艦艇と聞くと、何やら新技術で作られたとんでもない艦艇なのかと期待させるが……何て事は無い。ただパンゲア世界の常識に合わせた艦艇の事だ。
知っての通り、パンゲア世界の文明レベルは産業革命以前であり、それは兵器技術に関しても同様である。そのため、パンゲア世界の軍艦と言えば戦列艦を指す。
戦列艦は木造帆船で、舷側に大量の大砲を備え付けているのが特徴だ。なのでパンゲア世界での強い軍艦の指標とは……いかに多くの大砲を備え付けているかだ。
日本帝国の新型駆逐艦であるズムウォルト級は1万8000トンの大型艦であり、パンゲア世界の100門以上の大砲を備える1等戦列艦は精々3000トン程度。オマケにズムウォルト級は鉄鋼艦で、1等戦列艦は木造船だ。
日本人が見ればどちらが勝つのかなど、子供でさえ分かる。
しかし、パンゲア世界の住民はそうは思わない。前記の通り、パンゲア世界での軍艦の強さの指標は大砲の数である。
ズムウォルト級は各種ミサイルなど強力な兵器は勿論、主砲も155mmと強力な砲戦能力を持つが、僅か2門。それもパンゲア世界から見れば異常な程に巨大な大砲であるため、実用性を疑問視するだろう。
パンゲア世界では電気どころか蒸気機関すら無いので、全てを人力で動かさなくてはならなく、巨大過ぎる大砲は威力は高いが実用性に低く、使い勝手が悪い。なので良い評価を下すどころか、侮ってかかる可能性が高い。
戦争をしに行くのなら、敵を欺く事になるのでむしろ好都合なのだが、日本帝国が求めているのはあくまで通商条約の締結など、平和的(日本帝国視点)な話し合いだ。
勿論、日本帝国優位な条約を結ぶつもりなのでペリーの黒船来航のごとく砲艦外交をする必要があるが、それには相手国に「この国に勝てる筈が無い」と思わせなければならない。
しかし、日本帝国の艦艇の主砲は1門~2門が当たり前。勿論、速射能力や射程距離など全てにおいてパンゲア世界の大砲を遥かに上回るのだが、相手がそれを理解してくれるのかが分からない。
強さの指標が大砲の数であるパンゲア世界なら、単純に大砲の数で判断するだろうから侮られる可能性が高い。船体や砲の大きさで圧倒する事も出来るだろうが、やはり昔からの固定観念は捨てられないだろう。
ましてや、かなり高圧的な要求を突きつける予定なので、怒り狂って攻めて来ないとも限らない。
そういった疑念や怒りを吹き飛ばすために、この世界に合わせた艦艇を建造した。
例えば2万トンの船体に155mm速射砲を前後に2門、そして76mmや56mm、37mm速射砲を舷側に2層、3層式に大量に配置するなど、明治時代の艦艇のような外見にする。
勿論見た目は古めかしいが中身は最新式なので、砲塔は全て無人化されている。それにミサイルなども装備しているので攻撃力の面でも申し分は無い。
日本人から見れば何とも無駄な設計だが、パンゲア世界の住民にとってはとんでもない脅威だ。ただでさえ自分達の大砲より遥かに大きい砲が、舷側から大量に突き出ているのだ。パンゲア世界の常識から見れば、とてつもない強力な艦になる。
普通の国ならそんな無駄な艦艇を建造するなんて予算上不可能だが、無限の予算と物資を持つ日本帝国なら何ら問題無い。
上記の大型艦艇の他にも、中型や小型艦艇なども建造し、特殊艦艇で艦隊を築き上げたのだ。
「良し、これで砲艦外交の成功確立も上がるだろう。
階級や称号についても問題無いか?」
「問題ありません。既にリディア王国へと派遣される部隊にはパンゲア世界に相応しい、階級を任命してあります」
日本帝国が公式に初めて接触する国としては、リディア王国が選ばれた。距離的に近いなど様々な理由があるのだが、一番の理由は北郷が行った事がある国なので、ある程度は想像が出来るからだ。
では階級とは何かと言うと、貴族としての階級の事だ。
パンゲア世界では士官や将官になれるのは貴族階級出身者だけなので、基本的に高い地位の者は全員貴族だ。それも貴族としての階級も大きく左右するので、例え能力が低かろうと公爵など高い階級出身者ならば軍での階級も高い傾向にある。
一方、日本帝国は建国してから貴族や士族など特権階級が存在した事が無いため、原則として全員が臣民(平民)であり、当然の事ながら貴族など存在しない。
しかし、それでは問題が発生する。
パンゲア世界では軍以外にも、役人など重要なポストは全て貴族によって占められている。なので幾ら高い階級を持とうと、平民では侮られる可能性が高い。
そのため、日本帝国政府は臨時的にだが、貴族の存在を容認した。
流石にいきなり貴族制度を制定して大量に貴族を生む訳では無いが、リディア王国へと派遣される特使や部隊には爵位を与え、一代限りで何ら特権を持たない名誉職としてだが、貴族にした。
あくまで交渉の際などに侮られないための緊急措置でしかないが、名前だけでも貴族となるのだからパンゲア世界では大きな違いだ。
「特使の爵位は侯爵。派遣軍の指揮官を公爵とし、後は階級によって侯爵、伯爵、子爵、男爵、準男爵、士爵としました」
「そうか……装備の準備も問題無いな?」
「はい、軍服や武器などは勿論、全てにおいて貴族らしい(・・・・・)物を揃えました」
日本帝国軍のような実用性第一の軍服や装備と違い、パンゲア世界では敵を威嚇するためとして赤などの原色の色の軍服を纏い、装備も貴族色が強いからか装飾などを施す事が多い。
そのため、パンゲア世界から見れば日本帝国軍のように地味な迷彩柄や飾り気の無い装備では、軍備に金を回せない貧乏な国に見えてしまうのだ。
それでは日本帝国の国威に関わるので、明治の軍服のように実用性が皆無な派手な装飾などを施し、装備にも派手な彫刻や装飾を施すという、とにかく金をかけまくって豪華にしたのだ。
日本帝国の国力を見せつけるために頭から爪先に至るまでこだわり、軍服や銃は勿論、手袋や靴、帽子、ベルト、靴下、果てには下着まで装飾が施された高級品にした。1人2人ならまだしも、派遣軍全員を儀仗兵以上に豪華にしたのだから、誰が見ても貧乏な国には見えない。
そのあまりにも豪華さに、担当者達が「やり過ぎたか?」と思ってしまった程だ。
「リディア王国への献上品についても、問題ありません」
リディア王国への献上品とは、小銃と拳銃。
詳細を言うならば、九九式長小銃とS&W M1917、それに三十年式銃剣だ。
小銃や拳銃を献上品とする理由は、手っ取り早く日本帝国の技術レベルを見せ付けるためだ。
リディア王国の王都が沿岸部にあるならば、ペリーが黒船を見せ付けたように手っ取り早く力量差を分からせる事が出来るが、残念ながら王都は内陸部にある。写真や録画技術が無いパンゲア世界では遠くの出来事を知らせるには手紙しかないが、文字では現実の迫力感の1万分の1も出せない。
そのため、現実を分からせるためにパンゲア世界の武器では到底太刀打ち出来ない、連発式の小銃や拳銃を贈るのだ。自国では製造どころか模造さえ不可能と分かれば、嫌でも差を理解するだろう。
ちなみに、何故九九式小銃とS&W M1917にしたのかと言うと、当初は三八式歩兵銃にしようかと思っていたのだが、実験によって小口径の6.5mm弾を使用する三八式では、強化魔法がかかった鎧を貫通させるのは距離にもよるが難しいと分かったため、大口径の7.7mm弾を使う九九式にしたのだ。
S&W M1917にしたのは、現代とは比較にならない程に劣悪な環境下では頑丈で壊れにくく、メンテナンスも簡単なリボルバーが最適だと判断したからだ。史実のS&W M1917と違い、自動拳銃用のリムレス弾ではなく、リボルバー用のリムド弾を使うのでクリップは必要無い。
九九式は5発、S&W M1917は6発と、日本帝国軍から見ればかなり装弾数は少ないが、単発式が当たり前なパンゲア世界では連発出来るというだけでも画期的だ。
それに、どちらとも劣悪な環境下にも強いので信頼性が高い。開発されてから70年以上も経っているAK-47が未だに現役なように、実際に戦う兵士達は確実に作動する銃を欲しがる。
逆に、M-16系のような精密な銃を渡しても直ぐに撃てなくなるか、暴発して悲惨な事になるだろう。そうなれば「日本帝国の銃は直ぐに壊れる」なんてレッテルを貼られかねない。そのため、頑丈で壊れにくく、パンゲア世界でもメンテナンスが可能なボルトアクション式とリボルバー式を選んだのだ。
どれも王族に贈るに相応しい装飾や彫刻が施されていて、使節団や派遣軍の武器より遥かに豪華に作られている。
勿論、単なる装飾用の武器だけではなく、最高の性能を持たせるために部品の1つ1つは職人による手作業で作られていて、互換性こそ無いが狙撃銃として使える程に高精度を誇る。
銃剣も刀職人が鍛えた物なので、美しい紋様や彫刻が施されていながら、素晴らしい切れ味を誇る。勿論鞘も特注品だ。
その後も、進捗状況を聞いて問題無い事を確認した北郷は、満足気に頷いた。
「これでリディア王国への進出順番は済んだな。後は成り行き次第だが……まぁ、どちらでも問題は無い」
どちらでも問題無いというのは、無事通商条約(不平等条約)を締結して国交を結ぶか、交渉が決裂して戦争に発展するかだ。
勿論、交渉に成功して通商条約を結んだ方が楽で良いのだが、最悪、戦争になった所でさほど問題は無い。
魔法技術では日本帝国はリディア王国に比べて遥かに劣るが、パンゲア世界の魔法は戦争に向いていないので何ら障害にならない。マスケット銃と大砲で戦っているパンゲア世界に、自動小銃とミサイルで戦っている日本帝国が負ける筈が無い。
問題点としては、リディア王国、というよりパンゲア世界の住民の性質などが未だによく分からないので、無闇に併合する事は出来ない事だ。
この10年でパンゲア世界中にスパイを放って調査をしていたとは言え、民族の本質を掴むのはそう簡単では無い。
それに、リディア王国を属国なり植民地にすれば他のパンゲア世界の国々は日本帝国を警戒し、後々の外交などがやり難くなる。
そのため、日本帝国政府としては最悪、どちらでも対処は出来るのだが、後々の事を考えれば交渉を成功させて通商条約(不平等条約)を締結したいのだ。
リディア王国への進出準備についての報告が終わり、次の案件へと進む。
「魔術兵についてはどうなった?」
「魔術兵につきましては、現在2万人にまで増強し、9割の者達は中位魔法を使う事が出来ます」
日本帝国軍の現在の総兵力は約450万人で、その中の2万人と聞くと少ないように感じるが、実はとてつもない数だ。
何しろ魔術師が生まれる確率が1000人に1人というとんでもない低確率なので、パンゲア世界の国々にいる魔術師の平均は数百人程度。数千人もいればかなりの大国の証となる。
そのため、日本帝国の2万人というのはパンゲア世界の基準で考えればとてつもない数であり、立派な魔法大国と言えるだろう。
更に驚くべき所は、その質の高さだ。
パンゲア世界の国々、それも列強国であっても、上位魔法を使える魔術師は1割にも満たず、中位魔法なら2~3割、残りの6割強は下位魔法しか使えないのが普通だ。
しかし、日本帝国の場合は上位魔法が使える魔術師は3割、中位なら6割、下位は1割という、とんでもない比率だ。
「ほぅ、順調だな」
「はい、やはりパンゲア世界の国々に比べて訓練効率が非常に良いのと、魔石の品質の高さが大きく影響しているようです」
非常に効率の良い訓練法とは、前記したようにひたすら魔法を使い、魔力が切れたら魔法ポーションを飲んで回復するという、とてつもなく単純な手法だ。魔法ポーションの値段や希少さのせいでパンゲア世界の国々には不可能な訓練法だが、コピー能力を持つ北郷がいる日本帝国では何ら問題は無い。
魔法ポーションを湯水のごとく消費する事により、一月もすれば下位魔法をマスターし、半年~1年もすれば中位魔法を使いこなせるようになる。流石に上位魔法は類いまれなる才能が必要なので難しいが。
更に大きな要因の1つは、魔術兵達が使っている杖(魔石)の品質だ。
基本的に、パンゲア世界の魔術師達が持っている杖は私物なので、等級はバラバラ。より金を持っている魔術師は高い等級の杖を持ち、あまり裕福ではない魔術師は低い等級の杖を使わざるを得ない。
それに、例え金を持っていたとしても高い等級の魔石は産出量が少なく、希少な物なので簡単には手に入らない。
その一方、国内で魔石が産出しない日本帝国では常識的に考えれば杖など作れる筈が無いのだが、これまたコピー能力を持つ北郷が直に全ての等級の魔石を見たことがあるので、何ら問題無い。
以前は魔石のカッティング方法や杖の作り方などが分からなかったので、仕方なく北郷が持っている2等級の杖を使うしなかなった。しかし現在では研究が進み、カッティングや製造方法を確立出来たので、1等級の魔石を使った最高の杖を作製したのだ。
パンゲア世界では高い等級の杖には彫刻や装飾を施し、それ相応の外見にするのが一般的だが、日本帝国ではあくまで軍用なので実用性一辺倒。何の装飾性も無く、ただ使いやすさを求めたので非常に地味だ。
もしパンゲア世界の魔術師がその杖を見たならば、あまりの地味さに本当に1等級の杖なのかと疑うだろう。
しかし、形状などは人間工学を参考にして使いやすい形になっており、材質も様々な新素材が使われているので非常に軽く、丈夫だ。それに取り回しを良くするために短くされているので、移動や乗り物の乗降の際に邪魔になる事は少ない。
非常に効率が高い訓練法と1等級の魔石の杖という、通常では考えられない豪華さによって魔術兵達は急速に戦力化し、魔法を知って僅か10年の日本帝国を魔法大国へと押し上げたのだ。
「魔法の研究については進んでいるのか?」
「はい、北郷様がお持ち帰りになったリディア王国の書物は勿論、諜報員達がパンゲア世界中から持ち帰った情報を基に、新たな魔法の開発などに取り組んでいます」「ふむ……では諜報魔法については進んでいるか?」
北郷自身がリディア王国に渡り、情報収集をする大きな要因となった諜報魔法については、最優先での研究が進められている。
「諜報魔法につきましては、監視や盗聴などの魔法の開発には成功しましたが……正直言ってあまり使えません」
諜報魔法はどこの国でも重要機密に値するので、北郷が貰った魔術書は勿論、リディア王国でコピーして来た書物にも書いてあるのは諜報魔法を防止するための魔法であり、諜報魔法については記されていない。
そのため、防止用の魔法などを基に諜報魔法を開発して見たものの……結果はお世辞にも良いとは言えない。
何しろ盗聴魔法にしろ監視魔法にしろ、最大でもカバー出来る範囲は数km程度。オマケにその範囲内の全ての映像や音を拾ってしまうため、精密な情報を得るなど不可能。
範囲を絞る事も出来なくはないが、その場合は途端に制御が難しくなるのでカバー出来る範囲は数百m程度に落ち、魔力も大量に消費するので長時間の使用は不可。更には魔法自体のレベルも高いので中位以上の魔術師でないと使えないという、汎用性の低さ。
実験結果が書かれた報告書を読みながら、担当者同様に北郷も苦い顔をする。
「…随分使い勝手が悪いな」
「はい、従来のような機器をセットせずに盗聴や監視が行えるのは大きいですが、距離が開くと制御などが難しくなるのであまり離れた所からは出来ませんし、魔力が切れれば使えなくなるので長時間の使用は不可能です。
それに、盗聴や監視の防止用魔法を使えば簡単に無力化出来るので、パンゲア世界の重要施設などには効果が無いでしょう」
盗聴など諜報魔法は制御が難しく魔力も大量に食うのだが、一方、防止用の魔法はそこまで制御が難しくなく魔力も食わないので、下位の魔術師にすら可能だ。
そのため、パンゲア世界の重要な施設のほとんどには防止用の魔法がかけられており、諜報魔法は意味を成さない。
「…諜報魔法がその程度の魔法ならば大した脅威にはならないが……あくまで我が国の基準であり、遥かに魔法技術が進んだパンゲア世界の国々ならばもっと使い勝手の良い諜報魔法を持っていても不思議は無い。
引き続き、諜報魔法と防止用の魔法の研究を進めるのだ」
「畏まりました」
北郷の想像通り、確かに魔法技術が遥かに進んでいるパンゲア世界では日本帝国が把握している以上の諜報魔法は存在するが、それも少し距離が延びたり精度が上がる程度でしかなく、ファンタジー世界に出てくるようなとんでも魔法など存在しない。
かつて防止用の魔法が存在しなかった時代では諜報魔法は無敵であり、互いの国の機密を覗き合う諜報合戦を繰り広げていたが、ある魔術師が諜報魔法を防止するための魔法を開発した事によって諜報合戦は無くなり、今では魔法に頼らない諜報活動が重視されている。
つまり、日本帝国とさほど変わらない諜報活動や防諜体制を敷いているのだ。
軍事や魔法関連が終了したので、続いて国内情勢に移った。
「帰宅不可能者の都市はインフラや公共、民間施設も含めて全て完成し、帰宅不可能者の収容も完了しました」
転移の際、アメリカ大陸に家を持たない数百万人の帰宅不可能者を生んでしまったため、日本帝国政府は中途半端に住宅を建設するよりも、帰宅不可能者のための都市を1から作り上げた。
「何かトラブルはなかったか?」
「転移当初は家や家族を失ったショックからか精神病棟の患者が激増し、自殺者も後を絶ちませんでしたが、今では立ち直ったらしく安定傾向にあります」
やはりどんなに国から手厚い保障があろうと、家族や親戚、恋人、友人など大切な人々を失ったショックは大きく、鬱病や自殺、自棄を起こす者達が大勢いた。
流石に10年も経てばある程度心の傷も癒え、ほとんどの人は日常生活に戻っているが、中には未だにショックで精神病棟に入院している者や、酒などに溺れる者もいる。一時期麻薬も流行りかけたが、日本帝国政府の情け容赦の無い取締りによってまもなく鎮圧。その結果、日本帝国中の処刑場がフル稼働する事になった。
「物資の生産体制はどうなっている?」
「食料や日用品、衣料品、電化製品など、ほぼ全ての物資の生産体制は確立しました」
転移によってアメリカ大陸以外の工場などから切り離され、様々な物の生産量は激減した。
今まで不足分は北郷のコピー能力によって補われていたが、工場を建てまくったおかげでようやく不足分の生産体制が確立し、相対的に北郷の苦労も激減した。
とは言え、原料がアメリカ大陸に無い製品の場合は未だに北郷のコピーが必要だが。
「そうか……では漁船などに被害は出たか?」
転移の際、日本帝国政府はしばらくの間漁船の出港を禁じていたが、臣民からの反発と、海洋生物の調査のために制限付きながら漁を解禁した。
ご存知の通り、この世界にはドラゴンやゴブリンと言った、地球世界では空想上の生物が数多く生息している。
現状では陸上においてのみ確認されているが、もしかしたらシーサーペントやクラーケンと言った海の怪物も存在しているかも知れない。そのため、臣民の要請に応えたという風に見せて、海獣を誘き出す餌として漁船の出港を許可したのだ。
「いえ、今のところは変わった生物を見たという目撃情報はありません。解禁当初は初めての海域という事もあって座礁や沈没する船もありましたが、現在ではある程度の海域の調査も終了したのでそういった事故は減少傾向にあります」
「…では海龍や海獣は存在しないのか?」
「全ての海域を調査した訳では無いので断定は出来ませんが……恐らくその可能性が高いかと。
海洋生物も調査した限りでは地球世界とほとんど同じですし」
「そうか…」
その言葉を聞いて、北郷は一安心する。
ドラゴンなど陸上の生物だったなら通常兵器でも十分対処が可能だが、海中生物が相手では対抗手段がほとんど無い。核魚雷や核爆雷を使えば何とかなるだろうが、それではあまりにオーバーキル過ぎるし、海が汚染される。
重要な輸送路である海の航行が制限されれば、パンゲア世界への進出は勿論、国内の流通にも多大な影響が出るのは避けられないので、海は地球世界と変わらないと聞いて安心したのだ。
その他にも、転移してから10年でどこまで回復出来たかや、パンゲア世界への進出準備は万全かなどの報告が終了した。
「良し、転移の際に受けたダメージもほぼ回復出来たし、パンゲア世界への進出準備も完了した。
……後は、リディア王国への交渉次第だな。報告書を見る限りではリディア王国の現国王はそれなりに優秀なようだから、性急な真似はしないだろうが…」
事前の情報収集によって、リディア王国の現国王の治世にはこれと言った問題は無く、政治にも長けている人物であると分かっているので、力量差を理解すればこちらの思惑通りになるだろうと、長年の経験から北郷は確信していた。
……しかし、問題なのは力量差を理解出来るかだ。直に国王が日本帝国軍の艦隊を見れば否応なしに理解するだろうが、何しろ王都は内陸部にあるので正しく情報が伝達されるかが分からない。
最悪、バカな貴族などが「飛龍が存在しない蛮国」などの固定観念から愚かな判断を下し、過小評価した情報を国王に届けるかも知れない。もしその情報を国王が信じ、侮った対応や攻撃でもされたら平和的な交渉など不可能。最悪、戦争に発展しかねない。
「…問題、無いのだな?」
北郷が確かめるように聞くと、担当者は自信満々に頷く。
「はい、上陸予定のイリオスの総督を任されている王女は女だてらに軍事に長け、彼女自身も優れた軍人であるとの専らの噂です。
頭も悪くないという情報も入っていますので、少なくとも過小評価などはしない筈です」
パンゲア世界での初の御目見えは、貿易都市であるイリオスに決まっている。
イリオスを選んだ理由としては、王国の直轄地なので王都に情報が届きやすいのと、上記のように優れた王女が総督として赴任しているからだ。
それに、貿易都市と言うだけあってパンゲア世界中の国々、少なくとも列強国の商人などが大勢いるので、パンゲア世界全体への御目見えにもなる。口伝や文伝になるので正確性は期待出来ないが、日本帝国という国が存在するというアピールにもなるからだ。
「…そうか、ではその王女が賢明である事を期待しよう。
何しろ彼女の行動次第では……リディア王国は消滅、もしくは、属国の憂き目を見る事になるのだからな…」
こうして、日本帝国の準備は完了し、遂に北郷がパンゲア世界進出へのGOサインを出した。
これからどうなるのかはまだ誰にも分からないが、間違いなく言える事は……良くも悪くもパンゲア世界が大きく変わる事だった。




